大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ❸/十一分割
4.アヴィニョン
さて、ここアヴィニョンに、私は二つの課題を持ってやって来ました。近年東京ではすっかりやりづらくなってしまった「人間美術館」以外の多少大がかりな芸を、ここで思う存分やること、そして、日本で払った40万円強の飛行機代の元をとることです。川向こうのキャンプ場に一ヶ月間テントを張り、宿泊費を安くおさえます。
アヴィニョンの街がにぎわう、というか喧騒を極めるのは、7月9日から8月2日まで25日間の演劇フェスティバル期間中です。この間、街のにぎわいを当てこんで、色んな大道芸人が入れ替わり、立ち替わりやってきます。当然、同じ時間、同じ場所に複数の大道芸人がかち合うことがあるわけで、必要な場合には、順番や場所の切り取り方などについて交渉が行われます。話し合いがつかないときには、同時に隣り合わせや向かい合わせで芸をして、芸を競い合い、客を奪い合わなければならないことも起こります。アヴィニョンの大道芸人たちの間には、いわば「相互尊重」と「弱肉強食」の2つの相反するルールがあり、その微妙なバランスの上に様々な大道芸人模様が繰り広げられるのです。
ところで、一般にフランスの大道芸観客は、ニューヨークの大道芸観客と違って、静かにものを見つめることが上手です。私が喧騒の中で沈黙に徹した芸をするときなど、どんなに騒がしい派手な芸よりも、もっと強烈な人だかりをつくることがあります。
午後7時になると、私のつくる人だかりの中に、教会の鐘の音がとびこんできます。彫刻は動きを止め、お客さん達と一緒に静かにその数を数えます。風の音に聞き入ることもあります。風がもっと強くなると、彫刻は動きを烈しくし、その風にいどむかのようにダビデ像が立ち現われます。機が熟すると、彫刻は皆を置いてきぼりにして、ゆっくりと宮殿への坂道をよじ登り始めます。法王宮前広場の正面に、バルザック像がそびえ立ちます….。
こういう時間の使い方、空間の把え方、外気の取り入れ方は、ヨーロッパの芸人にはなかなかできません。ここでは私は、かなり「強い芸人」なのです。アヴィニョンで大道芸人としてやっていくとき、第一に必要なのは交渉力ですが、強い芸を持っていると交渉の場でも強い態度に出ることができます。なにしろ、ヨーロッパの芸人たちは交渉の場で、ずいぶんと自分勝手な要求を、平気で出してくることがあるのです。
アヴィニョンの大道芸人模様をさらに複雑にしているのがジプシーや路上商たちなどとの関係ですが、ことに重要なのは、私たち大道芸人と「演劇フェスティバル」との関係です。アヴィニョンのフェスティバルはもともと大道芸のフェスティバルではありません。私たちは形式上は、演劇フェスティバルのにぎわいをあてこんでたかりに来ているだけの、部外者なのです。ですから、私たちはこのフェスティバルでは in(イン)の劇団とも off(オフ)の劇団とも区別されて、out(アウト)に分類されます。
フェスティバルの、形式上は無用の存在である私たちが、しかしこのフェスティバルには欠かせません。アヴィニョンに来る演劇ファンの多くは私達 out の芸も楽しみにしていますし、フェスティバルの新聞に out の劇評がのることもあります。また、アヴィニョンの地元の人たちの中には長年 out の大道芸を愛し、 見つめてきた人たちがたくさんいますし、毎年 out の芸を見ながら育っていく子供達もいます。仮にアヴィニョンのフェスティバルから out の大道芸が消えてしまえば、路上のカフェテラスなどのにぎわいも半減し、市の経済にかなりの影響が出るはずです。ですから、フェスティバル当局の私たちに対する態度は優柔不断なところがあります。
自分勝手でもあります。都合が悪くなると、広場の照明を消す、市警察を動員するなどの強硬手段に出ることもあります。この手の妨害に対し大道芸人たちが団結し、当局に対しデモをなし、シュプレヒコールをあげるなど、大道芸人同士の相互尊重が共闘の様相を呈することもあります。
逆に、フェスティバルのあり方が私たち out の大道芸人達を相反させ、弱肉強食のルールがむき出しになることもあります。
先程述べた in の劇団には十分な予算が下りますが、off の劇団は、フェスティバルのプログラムに正式に登録され上演権が保証されていても、自費参加ですから、なんとかチケット収入をあげなくてはなりません。そこで、観客を劇場に動員するための宣伝隊を街に繰り出します。それらの種々様々な奇抜な趣向についてはここでは述べませんが、残念なのは、彼らの多くは私たち out の活動を尊重してくれてはいないことです。どうやら私たちのことを、自分たちと同じ「芸術家」だと考えてくれてはいないようです。センスのある宣伝隊の場合には、out の人垣のそばに来ると鳴りをひそめて静かに通りすぎる、などの配慮をしてくれることもありますが、ひどい場合には、私達がせっかくつくった人垣の中に乱入して来て宣伝しようとすることもあります。そうでなくとも、ここアヴィニョンではある程度「強い芸」を持っていないと、宣伝隊がそばを通り過ぎただけで観客を取られてしまい、芸が途中で御破算(ごわさん)になってしまうことがあるのです。
私たち out の大道芸人の多くが活動し始めるのは夕方6時頃、日が傾き、木陰が伸び、ようやく人々が広場に繰り出す頃なのですが、この時間帯になると、やはり宣伝隊も街に繰り出します。「弱い」芸人は、自分の順番が来ても客集めさえできず、なかなか芸を始められません。あとにひかえる芸人達が、なかなか芸を始めない芸人に対しブツブツ文句を言い始めますが、こちらもなかなか強情です。小一時間、膠着(こうちゃく)状態が続くことにもなりかねません。
すると、こういうことが起こります。宣伝隊の喧騒に負けない自信のある「強い」芸人が、一切の順番を無視して、その脇で勝手に芸を始めてしまうのです。「おきて破り」です。相互尊重のルールは一旦くずれ、皆がてんでんばらばらにやり始めます。一番弱い芸人の都合にばかり合わせていると皆の上演回数が減り、当然収入も減り、皆が皆、共だおれになってしまうのです。
こういうことがあっても、次の夕方には、広場で出会った芸人同士きちんとあいさつをし、握手を交わし、順番を確認することから始まります。相互尊重のルールが無くなってしまったわけではないのです。どんなに「強い」芸人でも余り自分勝手がすぎると、それに反感を持つ別の「強い」芸人に、その脇で「妨害芸」をやられたりすることがあるのです。「妨害芸」は捨て身です、金目当てではないのですから。これに対して文句は言えません、自分が先におきてを破ったのです。
こういうわけで、次の夕方には一見事態は旧に復したかのように見えますが、前の日に順番をとばされてしまった芸人の姿はもうアヴィニョンからは消えています。アヴィニョンでは自分はやっていけない、と判断したのです。自分の芸で食っていける、自分の芸にふさわしい街をさがしに旅立ったのです。
或いはどうしてもアヴィニョンがあきらめきれず、或いは他に行くあてが無いのか、捨て台詞(ぜりふ)を吐いて私たちの群を離れ、それでも私たちの群近くをうろうろして、なんとかすき間をぬってやって行こうとする場合もあります。返って痛ましいことになります。必死でアヴィニョンにしがみついているのです。日に日に元気がなくなって行きます。芸にも覇気が薄れて行きます。金にならないと、思わず客に毒づいたりもします。私達はこれに手を差し伸べることはしません。ただ心の中でエールを送るのみです。本当は、「弱い」芸が価値が無いとは限らないのです。「強い」芸がいつも素晴らしいとは限らないのです。それは皆んな分かっているのです。
また、芸は「弱い」のに、口八丁の強情な交渉力だけで私達の群に止まる場合もあります。これにはへきえきします。口八丁に加えて、芸も「強い」場合もあります。これには本当に手を焼きます。
アヴィニョンについては、これで一旦筆を置きます。
* * *
日本では今、大道芸文化が新しく生まれ変わろうとしています。しかし、その新しい大道芸文化は、なんだか「大道芸の根本」を踏みはずしたものになってしまうのではないか、という不安を私は持っているのです。大道芸をよく御存じない方々、大道芸を本当に愛してはいらっしゃらない方々が「日本の大道芸」の将来を左右しようとしているように見えて、心配なのです。「では、大道芸の根本とは何か?」と問われても、今の私には一言では答えられません。何かが違う!と深く感じているだけなのです。
せめて、世界には様々な大道芸と大道芸人の姿があるのだ、芸人も観客も皆、それぞれ一生懸命に生き、働き、楽しんでいるのだ、そこに甲乙は無いのだということを、皆さんに少しでも分かっていただきたい。そこで、とりあえず、今年私が訪れた四つの街の大道芸事情を、私の知っている範囲、分かっている範囲で、できるだけ正確に書いたつもりです。
今年はこのあと、ベルギーの古都ブルージュ、オランダ・リンバーグ州の街頭演劇フェスティバル、ミュンヘン、ケルン、コペンハーゲン等を巡って、再びパリから日本に帰るつもりですが、私はスキン・ヘッドなので、ドイツに入国できるかどうかちょっと心配です。この2ヶ月間新聞を読んでいないし、情勢がよく分かりません。キャンプ場に来ているドイツ人に聞くと、ベルリンではトルコ人たちがやや神経質になっている、といいます。ベルリンは避けようと思います。
≪大道人宣言 オリジナル 1993年夏 ❹/十一分割、に続く≫
〈大道芸人雪竹太郎文庫〉目次、に戻る。
https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c