路上の活動は都市の自然治癒能力の表れ/人間美術館・雪竹太郎さんの「路上」からの手紙
( THE BIG ISSUE JAPAN <ビッグイシュー日本版> 2005年9月15日/35号 p.19 所載)[未校正]
東京発。オランダ・アムステルダム、ベルギー・ブリュッセル、南仏・アヴィ二ヨンの54日間の大道芸の旅を終えて帰国した。その路上の旅から見えた大道芸のこと、世界のこと、そして東京の路上のこと。
〔手紙1〕大道芸の許可制度は、不許可制度と表裏一体
毎年、夏にヨーロッパの諸都市で大道芸をしています。だいたい1〜4ヶ月かけて旅をし、旅先での生活費は現地で稼ぐのを原則としています。今夏、最初に訪れたのは、3年ぶりのアムステルダム。それは、大変ショッキングな旅の始まりでした。当地の条例が変わり、大道芸の許可を「ヨーロッパ国籍を持つ者に限る」という内 容に変わっていたのです。行政の窓口で、ほぼ門前払い。それは、7年ぶりに訪れたブリュッセルでも同じでした。
しかし、日本の大道芸人としては、不満を持つ筋合いがないように感じました。というのも、東京都でも02年9月から「ヘブンアーティスト事業」が始まり、外国国籍の大道芸人が東京で活動するには、高いハードルが設けられているからです。大道芸の許可制度、それは、「不許可制度」と表裏一体を成していま す。
〔手紙2〕大道芸は、社会性の上に成り立ち、育つ
大道芸活動の資格を行政が審査・決定して選別を行い、活動場所・時間も指定される「官製」の大道芸文化。それは、世界に類がありません。大道芸歴23年を経て感じることは、大道芸文化はルール(制度)に依るべきものではなく、モラルに依るべきものだということです。都市を行き交い、袖を触れ合わせる者たち同士が、互いに「Excuse me」「Pardon me」と言葉を交わして、心を配る。時には、ぶつかり合い、譲り合い、また助け合って高め合っていく高度な社会性、良識こそ頼むべきものだと思っています。そのような社会にこそ、大道芸の場は成り立ち、観客と芸人との共同作業で大道芸作品が創り上げられていくのです。いま、東京の大道芸文化は、モラルの上にではなく、ルールの上に据え直され、育て直されようとしています。
〔手紙3〕国をこえた大道芸人の反骨と連帯
それでも旅の途中では、「救われた」と思うこともありました。それは、ヨーロッパ国籍を持たない大道芸人たち(アメリ カ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど)が、地元やヨーロッパ国籍の大道芸人たちと力を合わせて、アムステルダムの合法・非合法の大道芸文化をリードしているように見えたからです。彼らの穏やかで、なごやかでさえある反骨と連帯を一つの光のように感じ、私自身もそこに加わることにしました。
翻って、東京は孤独です。深く、そして息の長い大道芸の志を分け合える仲間が、ほとんどいないからです。「ヘブンアーティスト制度」に対しても、大道芸人・芸術家をはじめとして、文化人のほとんどが誰一人、きちんとした発言をしていません。むしろ大歓迎・大賛成の東京都と一部芸能産業、マスコミのキャン ペーンにみんな乗せられてしまった感があります。
今、東京でも多種多様なパフォーマンスが自然発生的に路上に出てきていますが、それは日本の中世・近世もしくは古代ギリシア文明にも遡(さかのぼ)ることができる歴史の系譜に属するものだと思います。つまり、路上に出て活動することは、人間的な健全さの表れであって、都市の自然治癒能力の表れなのです。 この自然治癒能力を、管理によってしか伸ばすことができない21世紀の日本の文明は、やはりどこかおかしいと感じるのです。
〔手紙4〕東京を情報という過去の断片の陳列室にしないためには?
最近になって、ようやくフランス人もケイタイ電話を持つようになりました。しかし、カメラ付きケイタイを持ち歩くヨー ロッパ人は、今回の旅の路上でも一人も見かけませんでした。持っていたのはアジア人観光客です。東京の観客たちは、少しでも珍しい大道芸を見つけると、すぐさまカメラに収めます。そして写真に撮ると、もう大道芸には用がないかのように、デジタルの静止画像をずっと眺め、時には連れ合いと見せ合いっこをしながら、ケラケラと笑って、大道芸の続きを見ずに立ち去ります。私たちの芸は、「情報」として切り取られ、もしくは「記念」にとっておかれるのかもしれませ ん。世紀の変わり目ぐらいから東京の路上では、「大道芸の観客」というものが成立しにくくなりました。
私の芸は、「人間美術館」。英語では、「The Living Museum of Art」と称し、「生きている博物館」として長くやってきました。しかし、今、どうやら私たちは見えない壁に囲まれているように感じます。「情報」という のは、すべては過去の断片。そこで、息を止めてしまったものに過ぎないのです。路上は、今や息を止めた情報が並ぶ「博物館」になってしまったかのようです。そして、東京の街は情報の断片の陳列室になりかけているような気がしてならないのです。
(以上、<ビッグイシュー日本版> 2005年35号 p.19 より)
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