大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ⓫/十一分割

 いつも通りなら、キムさんと私の2人だけはフェスティバルの始まる一週間前にはアヴィニョンに乗り込こんで、これに地元の芸人ジャックを加え、ひと足お先に3人だけで「out のフェスティバル」を始めていたところです。街はまだ静かで中世の空気を宿し、宣伝隊の喧騒も、当局からの妨害も、芸人同士の食い合いもありません。ピッという、キムさんの最初の笛の合図が鳴り渡ります。「out のフェスティバル」が始まったニュースが、街の人々や観光客たちの間に静かに伝わって行きます。日を追って少しずつ、この小さなお祭りに足を運ぶ人たちの数が増えて行きます。

 フェスティバルの二日前ぐらいになると、フェスティバル当局の職員や市警察がやってきて、フェスティバルが始まったらここでやってはだめだ、或いは、何時までに演技を切り上げろ、というような諸注意をして帰ります。この頃までには私たちの戦闘体勢はほぼ整っています。つまり、毎日のように「out のお祭り」に足を運んでくれる私たちの「ファン」ができかかっています。評判を聞きつけてやってくる人もいます。こうして、いよいよフェスティバルに突入します。

 最初の2、3日が正念場です。フェスティバルの職員や市警察との押し問答に、私たち out の観客動員力がものを言います。いくら止めても、そこに、私たちの芸を見たいと待ち構えている人達がいるのです。私たちは最初の規定以上の時間幅と場所を獲得します。こういうところはフランスの警官やお役人は比較的柔軟に対応してくれます。

 この頃には、アリシア、ファンファンなどもアヴィニョンに到着して、私たちの戦列に加わります。と同時に、劇場でなく私たちと同じ広場で野外劇をやろうとする劇団などもやってきます。私たちの戦いは新たな局面を向かえます。彼らは同じ out でも、私たちとは感覚が違います。大がかりで騒々しい実験的なスペクタクルを、自分たちの採算(投げ銭収入)も無視し、他の、そこで食っていかなければならない out の芸人たちの都合もおかまいなしに、延々とやることもあります。これはいわばアマチュア大道芸で、かえってやっかいなのです。今度はアリシアが先頭に立ち、これらの劇団と時間や場所の交渉をします。こうして私たちの獲得した時間と場所に、今度はファンファンが先頭にたち、たいまつを高くかざして、私たちの観客を引率してきます。この頃にはもうキムさんは私たちの群から離れ始め、ひとりぼっちになり始めています。ジャックが時々駄々をこねます。

 新しい問題が毎日のように起こってきます。新らしくやって来たグループの野外劇が、毎晩の様にパトカー沙汰、消防車沙汰になることもあります。わざわざそうなることを狙っているとしか思えません。ポーランドから来たグループです。「政治【(書き換え)政治 → 革命】」と「芸術」とをはき違えているのだと推察されます。それともこれも芸術なのでしょうか….? 一週間もこれが続くと、警察の方も強硬になってきます。そして、めんどうくさくもなってきます。このグループと私たちとを一緒くたにして掃除してしまおうとします。警察には「政治家【(書き換え)政治家 → 革命家】」と「芸術家」との見分けがつきません。皆がとばっちりを食うのです。ここでも、芸術家の芸術【(削除)家】に対するモラル、社会に対するモラル、政治に対するモラルのようなものが問われているのです。同時に警察の芸術に対するモラルが問われていることは、言うまでもありません。

 それにしても、フランスの警官にはおかしなところがあって、このあいだは10人がかりで私たちを追い散らしにかかったかと思うと、今日は2人連れでやって来て、あんたの芸は très bien(トレ ビエン)だ!と言って帰ったりします。警官達が私たちの芸を見るときには、一般客から一歩引いて、人垣の後ろから、つまだちのぞき込むようにして見ています。そしてにこにこ笑って見ている時でも、両足をきちんと30cm 間隔に開き、「休め」の姿勢をとっているのです。

 新しい問題が毎日のように起こってきます。仲間割れもあります。雨も降ります。アヴィニョンには雹(ひょう)も降ります。時々激しいミストラルが吹いて、私たちの観客を吹き散らします….。こうして25日間、私たちはここで戦い抜きます。これが私の「アヴィニョン」です。キムさんの話にもどります。

 今年はキムさんが来なかったので、私たちのこの「out のフェスティバル」の開幕を、ジャックと2人ぼっちで迎えることになりました。地元のひとたちも、わざわざ口には出さなくても、「今年からはキムがいない」という事実を深く受け止めているようです。

 今年から私のアヴィニョンでのレパートリーには、笛を使ってお客さん5人に演技をさせる「オリンピック」という作品が加わりました。もちろん、キムさんの芸の一部をとって自分流にしたものです。実は、一昨年に一、二度アヴィニョンでやってキムさんからクレームがつき、おくら入りになっていたものです。これを今年初めてやったとき、ピッという最初の笛の合図で観客の一部がどっとわきました。この人たちは皆、私の芸を楽しんで見ている時でも同時に、「今年からはキムがいない」というさびしさを、どこかで感じていたのです。そして、キムがいなくなったとたんにキムの芸を盗んでやり出したしたたかな芸人の登場を、どこか喜んでくれているのです。

 キムさんは毎年夏10年間、アヴィニョンに通いつめた人でした。私が知っているのは最後の3年だけですが、実際、キムさんのピッピッという笛の音のきこえてこないアヴィニョンの街は、なんともさびしげです。人出でにぎわう街全体が喪に服しているように見えます。その観は日を追って深くなっていきます。

 キムさんという一人の大道芸人の死は、新聞で大きく報じられたそうです。またたいへんなお金持ちだったと聞きますが、キムさんも私たちと同じように、キャンプ場にテントを張ってねとまりしていました。一日の仕事を終えた帰り道、去年までキムさんがテントを張っていたキャンプ場のそばを通る時などに、私たちの間でキムさんのことが口に登らない日はありません。キムさんが、訪ねてきた恋人と、夜中にテントのそばで静かに抱き合っていた姿などを思い出します。キムさんは、よく見るとハンサムな人でした。よく目はしのきく、かしこそうな人でした。私はキムさんの生い立ちも経歴もよくは知りませんが、一人の大道芸人として、等身大の人生を、生き抜いた人のように思います。小心かつしたたかに、生き抜いた人だと思います。

 いや、キムは生きている、こいつは、いつか出てきて皆を驚かすための、大がかりなデマだ!そんな冗談を言う人もいます。そんな冗談を言いながら、どこか本当に、キムさんがまだ生きていることを願っているのです。

 キムは空の上からフェスティバルの開幕をのぞきみしている、そんな新聞記事が出たと聞きます。【(削除)キムさんにぴったりの表現です。】もしかしたら、キムさんは本当にまだ生きていて、今度こそ誰にも気づかれないように、私たちの後ろをつけて歩きまわっているのじゃないか、そんな想像をしてしまいます。暗い夜道を帰る時には、ものかげからキムさんが、「タロー、俺が生きてることは皆には内緒にしておいてくれよ」、いつそう言われるか分からない、そんな想像をしてしまうのです。

 【(削除)本当に、私たちの心に生き続ける芸人さんのひとりだろうと思います。】

 アヴィニョンにて 1993年7月30日 大道芸人・雪竹太郎

注2)大道芸人・雪竹(ゆきたけ)太郎(たろう):大道芸ワールドカップ in 静岡1992、第一回ワールドカップグランドチャンピオンにして、同ジャパンカップグランドチャンピオン。

注3)本作品の復刻に当たっては、誤字・脱字の類の訂正、幾つかの漢字使用の適否の検討と変更、一部外語固有名詞他の片仮名表記の変更と統一、傍点の割愛、句読点の付加・削除・変更、段落の細分を行った。漢字・ローマ字の読みを適宜後続の括弧( )中に示した。ただし、助動詞・助詞に至るまで、言辞の書き換え・書き加え・削除は行っていない。復刻は2020年秋。

追加注)【(書き換え)◇◇ → ▭▭ 】【(削除)...... 】は、復刻に当たって、そこをそのように書き換えたく、或いはそこを削除したく思いつつ、差し控えたことを示す。


≪大道芸人雪竹太郎文庫≫目次、に戻る。
https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c


いいなと思ったら応援しよう!