私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑥/十分割 【仮公開】
内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ⑥/十分割
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第Ⅱ部/全二部
僕の在籍した早稲田大学の演劇学科は、〈演劇〉というものを専〔もっぱ〕ら学術的な研究対象として扱い、その対象範囲はいわゆるお芝居のほかに、映画(映画史や映画表現への記号学的アプローチ)、テレビ(テレビ・ドラマ史やテレビ・コマーシャルの分析)、能・狂言・歌舞伎など日本の古典芸能、さらに日本各地に伝わる伝統的な祭りなどにも及び、当然そこには、能や歌舞伎が今に伝えられるような形をとる前の大道芸段階の研究なども入るはずです。今となってはたいへんに興味深いのですが、ただし、演劇の実技の研究、訓練というものが一切ありません。
僕は良い学生ではありませんでした。ここで学んだことで今の僕の身になって残っているものは、残念ながらほとんど無い気がします。追試を受けてなんとか四年で卒業できたのが不思議なくらいで、卒業式にも出席しませんでした。パントマイムの公演準備が忙しかったからです。
僕の演劇人としての経歴の中に「早稲田大学演劇学科卒業」と書くのは、公式の履歴書などの中では体裁がちょうどよいから書くけれど、実質的にはほとんど意味が無いと思うのです。
ですから、体裁の整った表の経歴ではなく、大道芸人となるに至った僕の本当の経歴、内面の経歴とでもいうべきものを、これからたどり直してみようと思います。
第十一章 合唱団
早稲田大学在学中二年に上がるとき、日本マイム研究所に入所したことは書いたとおりですが[第二章]、実はそれと同時に、早稲田大学・某大学合同教会合唱団(仮名)という学生サークルにも参加することにし、ここで僕は三年間、本業ではないのに、本当によく音楽の勉強をしました。そして、ここで勉強したことは、今の僕の演劇の実践の中に生きていると思いますし、さらに、後に僕が大道芸を始めたこととも関係があるのです。
この合唱団ではルネサンス・バロック期のヨーロッパの教会音楽を中心に学び、僕はここで、音楽が〈語り〉であるということに、決定的に目を開かれたのです。
僕は音楽が好きで、音楽家になりたいというのは僕の少年期の夢のひとつでした。音楽の中でも特に楽器の演奏が好きだったのですが、実は、楽器の奏でるメロディーにも見えない〈歌詞〉のようなものが隠れており、これを読み取ることによって、ひとつながりのメロディーをいくつかの小片、いわば〈単語〉に切り分けることができる、そしてこれら単語の意味やニュアンスをひとつひとつ十分に咀嚼〔そしゃく〕し味わった上で、改めてメロディーのひとつながりの中に置きなおす、この手続きによって、初めてメロディーが本当に説得力のある〈文(語り)〉になるのです。
リコーダーなど息継ぎの必要な楽器の場合、メロディーに正しい切れ目を見つける作業が生理的にも不可欠ですから、メロディーに〈句読点〉のあることぐらいまでは気がつきやすいのですが、僕がそれまでに親しんできた楽器の中心はヴァイオリンでしたから、こういうことをはっきり自覚するのが遅れたのです。
一つのメロディーを自分のものにするために不可欠なこの手続きが、器楽ではなく唱歌の場合、メロディーに歌詞が付けられていることで一目瞭然、また避けては通れないものとなります。しかも曖昧(あいまい)ではない手続きが可能です。カトリックの教会音楽の場合はラテン語の、プロテスタントの場合は(主に)ドイツ語の歌詞を、まずはメロディーから切り離し、純粋に語学的に分析するのです。ところが、こうして分析した歌詞を再び楽譜と照らし合わせて見ると、驚いたことに、例えば一つ一つの単語のアクセント(強拍と弱拍)が各小節のアクセント(強拍と弱拍)と見事に一致しています。また楽譜の上で見た小節の変わり目(小節線)がメロディーの変わり目なのではなく、歌詞の側で見た単語・文節(句)・文などの切れ目がメロディーの切れ目、即〔すなわ〕ち〈句読点〉なのだということにも気がつきます。
実は、ヨーロッパのクラシック音楽のメロディーというものは、歌に限らず器楽も含め、全〔すべ〕て〈言葉〉というものを土台にしている、言葉を想定しなくては十全な分析ができないものなのです。
ヨーロッパ音楽の出発点のひとつグレゴリオ聖歌は、その幾つかにやはりこの合唱団で触れたのですが、これは〈音楽〉というより〈朗読〉にずいぶん近いものです。朗唱です。少し時代が下って、合唱団が中心的に扱ったルネサンス・バロック期のヨーロッパ音楽の場合は、グレゴリオ聖歌ほど単純ではないにしても、例えばソプラノの歌うメロディーをアルト・テノール・バスが伴奏するという形ではなく、それぞれのパートが独立に、思う存分に語るメロディーが巧妙、緻密に絡〔から〕まり合う形で成り立っていますから、そこからどのパートをとり出して勉強していても、メロディーと歌詞との関係がよく分かるのです。
そして(ここからがもう一つ肝要です)、各パートが好き勝手、てんでんばらばらに歌っているようでありながら、一つの作品(楽曲や楽章)の中では、例えば Himmelskönig〔ヒンメルスコェーニヒ〕(【ドイツ語】天の王、の意)という単語にくっついているメロディーの小片は、どのパートにおいてもよく似た動き、形をしている、つまり同じ〈音形〉をとる、しかもこの同じ音形(即ち単語)が、どのパートにおいても、念を押すかのように繰り返し、繰り返し現われます。こういう言葉と音との表裏一体の関係は、さらに文節(句)のレベルでも、また文のレベルでも守られます。そしてルネサンス・バロック期のヨーロッパ音楽のこういう構造は、歌詞の付かない器楽曲の場合にまで敷衍〔ふえん〕されます。
これで、個々の音形がいわば〈単語〉であること、単語に〈意味〉があるように、音形にも個々固有の濃密なニュアンスや働きの具〔そな〕わっていること、次いでフレーズがいわば〈文節(句)〉であり、メロディーが〈文〉であり、そして音楽が〈文章〉即ち〈語り〉であることがよくわかりました。
楽器の演奏の方も、これでたぶん飛躍的に上達しました。有志で楽団を作って(学園祭のとき、このサークルでは生演奏の音楽喫茶をやるのが恒例で、そこで)演奏したりしました。こういう場での経験を通じて、音楽を演奏するということを、これもひとつの〈演劇行為〉であると意識するようにもなりました。
並行して学んでいたパントマイムの理論の一部が、音楽にもあてはまるらしいことを見つけました。そうあれこれ考えたにとどまらず、実際にパントマイムの舞台に楽器の演奏を持ち込んでみたりもしました。これは今なお円形劇場で、またイメージ・シネ・サーカスでやっていることでもあります。音楽は語りであり、音楽の演奏は演劇行為である、このことは、仕事の合間に取り組んでいるリコーダーの練習の中でも度々〔たびたび〕確認し直されます。
こうして、初め音楽を通して学んだ〈語る〉ということが、その後、劇団シェイクスピアシアターで科白術を学んだこととも、最近になってようやく補い合い、解け合い始めてきて、今、僕が大道芸の中で〈喋〔しゃべ〕る〉、その技術の基礎になっていると思われます。とくに、まだよくこなし切れていない外国語をあえて喋らなければならない場合や、新しい外国語に取り組んで行く際の頼り、支えになっています。そして、いろんな外国語を学び、それを実際に喋ってみることで、〈語る〉ことの経験はさらに深まって行く気がします。
今年のアヴィニョンで、たまたま僕のアントニオ物語に来合わせた日本人の女性客が、自分はフランス語を学んだことがないのに、僕のフランス語が何を言っているのか、全部わかる気がしたと言ってくれました。これがたいへん嬉〔うれ〕しかったのは、シェイクスピアシアターで〈喋る〉ことを学び始めた頃〔ころ〕は、日本語の科白を喋っているにも関わらず、僕が何を言っているのか分からないと、ずいぶんと演出家に叱〔しか〕られていたからです。なにしろ口の動き(滑舌〔かつぜつ〕)が悪く、声の出も悪く、喋る作業が苦痛でさえあったのです。
それでも僕の〈歌〉だけは、この劇団でも評判が良く、ソロで歌をうたう役も1、2度受け持たされました。合唱団での経験のおかげで、この頃すでに、メロディーが付いてさえいれば、〈語る〉ということが、たぶん僕にもできていたのだろうと思います。
僕の学生生活は、このように音楽に熱中し、同時にパントマイムも本格的に学び、しかし進路が定まらず、悪いことに学業はそっちのけという、奔放〔ほんぽう〕勝手な学生生活でしたが、実は、この合唱団で僕はもうひとつ、或る大変なことに気がついたのです。というのは、音楽が(或いは音楽に限らず一般に芸術や文化というものが)、人々を豊かにし喜びをもたらすものであると同時に、人々を選別、差別する、ときには排除さえしてしまう、人々を隔てる壁にもなってしまう(ことがある)ということです。
このことに気づく人は、あるいは少なくないのかも知れません。しかし僕は、これと、正面切って闘ってみたいと考えているのです。
第12章 問題提起!
合唱団そのものは、あくまで対等な個人の自主的な集まり、歌をうたいたいというだけのアマチュアたちの集団で、実際、落ちこぼれの少ない、小さいが友好的な、たまには恋愛に関するトラブルもある(か)という程度ののどかなサークルでした。
それでも、この素人たちの集団に、幼い頃〔ころ〕から訓練を受け、例えばパイプオルガンの演奏に熟達した学生が入って来ます。専門の教師について本格的に声楽を学んだことのある学生も入ってきます。高校のオーケストラでチェロを弾〔ひ〕いていたという学生もいます。その一方で、音楽にはそれまでてんで興味がなかったのに、合唱団の新入生勧誘のための小さな演奏会を聴いて感激し、生まれて初めて歌をうたってみたくなったという学生も入って来ます。そうすると、皆、対等な資格で参加しているはずのサークルであっても、それぞれの音楽についての経験、知識、また技術には、入って来た時点ですでに大きな隔たりができてしまっているのです。
そこで、同期の学生たちの間でも経験の豊富な者がそうでない者を助け導くと同時に、残念なことに、ふとしたはずみで経験や知識の少ない者をつい見下すということも、必ず起きてしまいます。会議の席で全員が理解しているわけではない音楽の専門用語がまかり通ったり……。
例えば、私たちは小学生のころから階名(音名)にイタリア語のド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド(或いはせいぜい日本語のハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ)で親しんできました。専門の音楽家たちが言うように、急にドイツ語でA〔アー〕・B〔ベー〕・C〔ツェー〕・D〔デー〕、さらに例えば、F〔エフ〕のシャープ(♯)をFis〔フィス〕などと言われても、なかなかピンとは来ません。ついて行けません。おそらく半分以上の者がそうです。ときどきこういう置いてきぼりを平気でしながら、合唱団の練習は進んでいきます。
しかし、こういう知識において優れていれば、その者が合唱という共同作業においても本当に優れているか? 必ずしもそうとは言えないはずです。皆で一緒に歌をうたって行く上で、A〔アー〕・B〔ベー〕・C〔ツェー〕……等の知識は、本当は一向に必要ないのです。邪魔でさえあるかも知れません。
さて、3年生になると皆、サークルの中での何らかの役職に就きます。そこで、学生指揮者、各パート(ソプラノ・アルト・テノール・バス)のリーダー、ボイス・トレーナー、楽譜係などの重要な役職は、どうしても、サークルに入って来た時点ですでに音楽についての経験や知識を積んでいて、それからの2年間、同期の学生たちの間でも幅を利かせて来た者が担うことになりがちです。そして、これらの役職で構成する〈A委員会〉が演奏会の演目を決定するなど、サークル運営の〈音楽〉に関する部分では存分に腕を揮〔ふる〕い、あるいは演奏会が近くなると〈オーディション〉といって、合唱団のメンバー全員が演奏会で歌えるだけのレベルに達したかどうかを見るために、各パートを一人ずつ、計四人だけで歌わせる審査会を行うのですが、このときにこの審査会を仕切るのがA委員会なのです。特定の学生たちが他の学生たちを審査する、歌の上手下手を決めるという行為は、よくよく考えてみると、あまり気持ちの良い行為ではないのです。
この一方で、年二回の演奏会の会場の予約、会費(サークル参加費)の徴収、会報の作成、合宿所の手配、その他の仕事を他の者たちが担うことになります。こうしてサークルをやって行く以上、これらの仕事も必要、重要であるには違いないのですが……。
しかしこうして、〈A〉系統の役職を担う者と他の役職を担う者との間で、ちょっとした感情的なトラブルが起きたりもします。
僕もA委員会のメンバーの一人でしたから、これは実は自己反省、自己批判でもあります。僕たちは〈音楽〉を本当に皆のものだと考えていたか? 何か自分たちだけのうちわのもののように感じてはいなかったか? 合唱団を私物化しようとしていた面もあったのではないか?
僕はこの合唱団を去るにあたって、とりあえずA〔アー〕・B〔ベー〕・C〔ツェー〕…… という言い方をやめてしまおう、一つの曲を共に歌うという、皆が対等に関わり、その苦労を皆が対等に分かち合うべき作業において、誰かを意味もなくとまどわせたり、自信なくさせたり、陰で悔し泣きさせたりするような要素を、この合唱団からひとつひとつ無くして行こうと提案したのです。この提案の意味を本当に分かってくれた学生は、そう多くはいませんでした。初めは賛成してくれても、そのうちに
「でも、それはどちらでもいいのじゃないかしら?」
というふうになってしまうのです。どちらでもよくは無いのです! 自分たちの抱えている問題を、どうも私たちはよく自覚できずにいるらしい。それは、僕がここで問題にしようとしたことが、実は、一合唱団の中だけで解決できるような簡単な、単純な問題ではなく、問題の根が日本の音楽文化や音楽教育一般のあり方の問題の方にまで伸びているからです。音楽に親しむ、音楽を学ぶということが本当に万人に対して開かれたものとはなっておらず、どこかまだ何か特別なこと、選ばれた者たちのすることと映るのです。例えば、ヴァイオリン・ケースを抱えて街を出歩くとき、それを何かの印のように感じてしまうのです。
そして、実は音楽に限らず、一般に芸術、文化、さらには教育などまでが、残念ながら人々を幸せにするのでなく、人々の間に壁をつくってしまう、その壁の前で人を立ちすくませ、戸惑わせ、肩を落とさせる、そういう性質を担わされてしまっているのではないか……
「芸術や文化や教育が人々を選別、差別、さらには排除する。人々を様々にランク付けるためのモノサシとして機能してしまう。このモノサシは様々な姿、かたちで私たちの周囲至るところに張りめぐらされ、私たちの共通の世界観のようなものにまでなってしまっている。」
*
話を少し跳ばします。
僕が合唱団を離れてから約二年後に参加した劇団シェイクスピアシアターで、今度は、今日の〈演劇〉が、やはり思いがけぬ深刻な問題を抱えているらしいことに気がつき始めました。ここで象徴的なのは、劇場建築の設計思想そのものです。
今日の劇場建築は演劇を、人々を壁に閉じ込め(他の人々を壁から閉め出し)、今度は、こうして壁に閉じ込めた人々を招待席・S席・A席・B席……などに前へならえで縛りつけ、これらの人々に一面的、一方通行的なものの見方、感じ方を強い、人々の拍手の仕方、笑い声をあげるタイミング、ついにはカーテンコールの回数にいたるまでを〈演出家〉、そして〈興行家〉の思う壺〔つぼ〕にはめる、つまり人々の心と行動を管理(コントロール)しやすいようにできているのです。大衆操作は可能なのです! これが〈プロセニアム・アーチ(額縁舞台)〉の枠の中での演劇です。
これは、現代日本の劇場建築の特徴という前に、近代ヨーロッパの劇場建築の特徴です。日本の伝統的な能の舞台は正面と右横の二方向の観客に対して開かれており、ひとつ時代が下った歌舞伎の舞台からは花道が突き出し、それがそのまま客席の奥にまで突き抜けています。いずれの場合もまだプロセニアム・アーチの枠に収まりきっておりません。日本の演劇がプロセニアム・アーチの枠に収まりきるようになるのは、ヨーロッパの近代文明、そしてヨーロッパの〈近代演劇〉を徹底的に学んだ後のことです。
そして、唐突〔とうとつ〕なことを言うようですが、ヨーロッパと日本で生まれた〈ファジズム〉は、何か不幸にして偶然に生まれたものではなく、ヨーロッパの近代文明そのものの中に温床があった、実は近代演劇がその典型(モデル)だったのではないだろうか。さらに、二十世紀末のこの日本では、こういうことがほとんど反省されず、克服の努力は一切、実を結ばず、より巨大な問題として私たちを覆〔おお〕いつくしてしまっているのではないか……?
僕にとって大道芸とは何か? その理想、目標は? 僕は大道芸をやり続けることで、実は、ファシズムと闘っているつもりなのです。笑わば笑え! これは案外、本気で言っているのです。
観客の心を管理(コントロール)する、このことのために、演出家が舞台上の俳優たちの立ち位置や一挙手一投足までをも厳しくチェックするということも起こってきます。こういう演劇があってはいけないとは言いません。僕がいま参加しているイメージ・シネ・サーカスは、演出家による俳優たちの管理が非常にルーズではあっても、あくまでこの手の演劇、近代演劇の一種(その変わり種)です。しかし、これら〈近代演劇〉は、古今東西の様々な演劇のスタイルの中ではむしろ例外的な、特殊なものに過ぎないのではないか……?
僕がこれに気づき始めたのは、初めて路上でパントマイムを演じたとき、僕の教わったパントマイムの基本のテクニックのいくつかが路上では用をなさない、また、シェイクスピアシアターで大切にされている〈演劇の常識(鉄則)〉なるものが、円形劇場では通用しない、そういう実際的、具体的な発見をしてからです。近代演劇の様々な技法、演出法は決して普遍のものではなく、プロセニアム・アーチの枠の中でしか意味をなさないものなのです。真横や後ろにまわられるとネタのワレてしまう手品みたいなものです。
ところが、こうした特定の枠の中での窮屈なものの考え方、感じ方が、今日の私たちの文化の中であまりにも幅を利かせ、演劇文化の本当に豊かな展開を妨げ、さらに私たちの日常生活や人生の中にまで容赦なく割り込んで来て、私たちに様々な不幸をもたらしてさえいるのではないか……?
考えて見ると、学校の教室も劇場と同じ構造をしています。特別な授業のスタイルを取る場合を除けば、皆、先生の言うことにだけ耳を傾け、生徒同士が私語をしたり目配せし合ったりしない、しにくいように出来ています。もし教師が何か間違ったことを言い、生徒のうちの誰かがそれに気づいたとしても、授業が終わるまで、そっと自分ひとりの心の中にしまって置くしかないように出来ています。
この近代演劇の典型、究極がテレビで、〈テレビジョン〉が日本中の人々を遂〔つい〕にひとつの壁の中に、今度はもう貴賎、貧富の別なく同じ〈劇場〉の中に閉じ込めてしまい、私たちは本当に自由にものごとを感じたり、考えたり出来ないようにされてしまっているのではないか、〈現代日本文化文明〉のまるごと全体が、どうにも手に負えない怪物のようなものに、成り上がってしまっているのではないか……?
劇団シェイクスピアシアター在団中の三年半そんなことを考えながら、僕の心はますます大道芸の方へ、そして円形劇場の方へと傾いていきました。
《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑦/十分割》に続く。
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