大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ❽/十一分割
色んな思いを抱いて、今年一月、南半球の都市シドニーを初めて訪れました。この時、シドニー在住の或る芸人が私のことを聞きつけ、わざわざ私の仕事場を訪ねてくれました。「俺のことを憶えているか」と言います。もちろん、憶えています。3年前、フランス・シャーロンの大道芸祭で私と向かい合わせで芸をして、私と客の奪い合いをした2人組のうちのひとりです。このときは私が負けてしまいましたが、翌日、彼は私の仕事を一観客として見に来てくれました。そのあと彼とはまたアヴィニョンで一緒になり、彼は、アヴィニョンはひどい(terrible)!という言葉を残して退散してしまいました。それきりのつきあいでした。ニュージーランド出身という彼の、羊の様な風貌と低く腹のすわった声が、長く私の印象に留まりました。
この DOM(ドム)が訪ねてきて、シドニーが初めての私に、シドニーの大道芸事情について色々と指南してくれました。シドニーのどことどこで大道芸がやれるが、お前の芸はどこそこの劇場の前が合うと思う。土曜日にはどこそこがいい、俺もそこにいる。どこそこで芸をやるにはライセンスがいる、ライセンスを取るにはここに電話しろ….などなど。この翌日にはもう一人の ANDY(アンディー)も訪ねてきて、うまくライセンスがとれなければ俺がかけ合ってやる、子供が生まれた、子供に会いたいから今日は帰る、と言って名刺を置いて行きました。このように、国境を渡り歩く大道芸人の間には、やはり一種の連帯意識、相互扶助の原則のようなものがあるのです。顔見知りだから、友だちだからではないのです。ゴールド・コーストの大道芸ライセンスの取り方を教えてくれたのは初対面の芸人でした。それから、国境を渡り歩かない、地元に根を張っている芸人の場合でも、地元出身でなおかつ国境の外にも出て行く芸人と同じ土俵でやって行きますから、かなりの程度の国際的感覚を身につけています。ケンブリッジ市の大道芸人組合を指導していた女性がそのように見うけられました。
ひるがえってわが日本の場合を考えると、例えば私の地元東京には、海外の仲間に安心して紹介できるような大道芸広場がありません。たとえひとつふたつあったにしても、数少ない場所にかち合う大道芸人の数がまたひとり、ふたりと増えてしまうわけで、これを紹介するときには自分で自分の首を締める覚悟が要ります。つまり、社会が大道芸に対して不寛容であればあるだけ、第一に、大道芸人同士の連帯や相互扶助は難しくなるのです。なわばり意識や秘密主義が発生するのです。(ひどい場合には、芸人が他の芸人のことを警察に密告して取り締まらせる、そのスキに仕事場を独り占めしようとする、という話も聞きます。)
さらに、こういうところに海外からしたたかな芸人がとびこんできた時、数少ない良い場所を見つけると、地元の芸人たちの都合もお構いなしにやりたいだけやり、かせぎたいだけかせいで、警察沙汰(ざた)が起きたらさっさと退散するというようなことも、今まで無かったとは言えません。あとのとばっちりの方は、私たち地元の芸人が引き受けねばなりません。日本の芸人の側から、海外の芸人に対する排他的ととられかねない発言が出てきたりもします。こういうことになる前に、私たち日本の大道芸人に海外の芸人たちのような交渉術の心得があれば、私たちの活動も尊重してくれるよう話をし、また日本の大道芸事情に配慮をしたやり方をしてもらうようにできたのかも知れません。
大道芸に対して十分に寛容ではない社会で大道芸をやって行くときには、それ相応の配慮も必要なのです。例えば、東京で私が一番大切にしている広場は人通りも多く、かなりのキャパシティーもあり、うまく芸をまとめるとお金にもなり、お巡りさん達の言い分は別にして通行妨害にもなりません。或いは難なく迂回(うかい)路を確保できます。大道芸広場としては格好の場所なのです。ところがこの直ぐ近くに交番があり、また地元の人たちや企業がどうやら大道芸に対しあまり好意的でないらしく、ここを存分に利用することはできません。私は月に一、二度だけ、場合によっては「任意同行」と「始末(しまつ)書」沙汰になることを覚悟でやることにしています。そして、ここだけではとても食っていけないので、もうひとつ、よりひんぱんに活動する場所があります。
ここは交番からは死角に当たり人通りも多いのですが、残念ながらあまり広くなく、早い時間にやると人だかりが大きくなりすぎ、一般歩行者の通行の妨げになる等、大道芸広場としては欠陥を持っています。ですから、私はここでは夜10時、11時、或いは12時近くに、正味20分間程の芸を、たいてい1日に1回だけやることにしています。一般歩行者の通路を確保するためにたびたび演技を中断し、お客さん達をなるだけ前に寄せ、後ろの人にも見えるように前3列の人たちにはしゃがんでもらうなど、人だかりを整理し直さなければならないこともあります。
これが結構たいへんです。皆さんなかなかすんなりとは言うことを聞いて下さいません。「大道芸人」が珍しいのか、恐ろしいのか、遠まきに中途半端に立ち止まられるのが一番困ります。へんなところに人垣ができてしまうのです。この場合には寄るか去るかに決めていただきたいのです。通行妨害が生じると、目の不自由な方が私の「舞台」を横切ろうとすることも起こり得ます。それに私が気付かないこと、行き届かないこともあるかも知れません。そういう時には、気づいた皆さんが何か気をきかせて下さると助かります。大道芸に対し寛容でない社会では、見て楽しむ側の配慮も大切だと思います。
十分な配慮をしたつもりでもなお、通行妨害の苦情を言ってくる人はいます。こういう人は当然、大道芸に対して好意的でなくなります。残念なことです。これらは皆、大道芸に適した広場が大道芸に対してひらかれていないために起きることなのです。ですから、第二に、大道芸に対し寛容でない社会では、大道芸人の社会に対するモラルのようなものも怪しくなってくる、すると社会の大道芸に対する目もますます厳しくなってしまうのです。悪循環です。話をつづけます。
夜遅くに20分間だけの芸をするために、夕方6時台に現場に到着しなければならないこともあります。でないと他の外国人大道芸人が先に来ていて、たいていは一種の「バルセロナ方式」をとる音楽家たちですので、たった20分間の時間をゆずってもらえないこともあるのです。彼らも必死なのです。しかし最近では、少し遅れて行っても、例えば、1時間半後にやらせてくれ、などの交渉を心がけています。彼らの方も私の芸を見知るようになり、私が約束通りの時間に撤収することを知ると、安心して、私のために、と休憩を取ってくれるようになりました。音楽家同士の間でも、かち合った者同士時間を決めてやるようになってきたとも見うけます。私の見たところが正しいとするなら、ここには一種のルールの芽生えがあるのです。
しかし、私がこの旅の4ヶ月間のブランクの後にこの現場に立ちもどった時に、何かの事情で、例えば警察の一斉取締りなどで、芸人の顔ぶれが全部入れ替わっているとしたら、また一から始めなければなりません。ルールが芽生えるまでには喧嘩口論などのトラブルもあるのです。これは、第一に挙げた、大道芸に対し寛容でない社会では芸人同士の相互扶助や連帯がむずかしい、という問題とも関係があるのですが、ここでは、大道芸に対し寛容でない社会では、大道芸人同士の間に自発的なルールが成立しにくい、と申し添えておきます。
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