大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ❶/十一分割
注1)本作品を五分の四見当に短縮、加筆し、前説(まえせつ)を付加したものを、2003年に「大道芸人宣言 一九九三~二〇〇三」として発表。本作品は短縮、加筆以前のものの復刻である。
原題:大道芸を愛するみなさんへ…4
私、雪竹太郎は5月26日東京を発ち、ニューヨーク、パリ、バルセロナを経て、今、南フランスの街アヴィニョンに滞在しています。これは毎年夏恒例の大道芸の旅です。各都市に最低一週間は滞在し、毎日の食費、宿泊費などの他に、次の町までの移動費を現地でかせぎきる、というのが私の基本方針です。
もちろん、雨などのせいでうまくいかないこともあります。今年もニューヨークは赤字でした。
また逆に、芸がうまくいっても、かせいだ大量の小銭を紙幣に替える作業がうまくできないと、次の町への移動にたいへんな支障をきたすことがあります。どこの国の銀行でも気持ちよく両替してくれるわけではないのです。この場合、どの町のどういう商店が、どういう額の小銭類を必要としているかを学習しておかなければなりません。
また、どういう食事の仕方が安くて体に合うか、どういうタバコを吸い、酒を飲むか、コインランドリーはどこにあるか、バスの乗り方、電話のかけ方、公衆トイレの使い方、チップの払い方、数の数え方等々も、行った街行った街で皆違ってきます。初めての街では、これらを皆、一から学習し直さなくてはなりません。
私が妻を伴いこのような旅を始めてから、今年で6年目になります。
ところで、バルセロナ滞在中、或る大道芸にも関わるシンポジウムへの出席の要請を受けました。「大道芸」がわが国の公開の席で討論されるということは画期的なことですし、大道芸に真剣にとりくんでいる身として、そのなりゆきがたいへん気にもなります。居ても立ってもいられない、飛んで帰りたい気持ちもあるのですが、今はまだ帰れません。
私は日本の大道芸人であると同時に、世界の大道芸人でもありたいと願っています。今、ヨーロッパにいる以上、ここが私の生活の場であり、また闘いの場でもあります。そう考えて、予定通り9月20日まで海外に留まることにしました。
このお便りには、私がこの一年あまり、特に昨秋の「大道芸ワールドカップ in 静岡」以来、大道芸について新たに思い悩んできたすべてを書きつくすつもりです。長い文章になります。皆さんもどうか覚悟を決めて、最後までお付き合い下さい。
まずは、今年の旅の中間報告を兼ね、海外の大道芸事情を紹介してまいりましょう。
Ⅰ.海外の大道芸事情
1.ニューヨーク
今年最初の滞在地ニューヨークは、休日が二日雨でつぶれて赤字だったわけですが、そうでなくとも、ここで私のような日本人が大道芸人としてやっていくのは、なかなかたいへんです。特に、私が大切にしているワシントン・スクエアーでは、大道芸人はまず能弁でなくてはなりません。観客のどんなヤジにも当意即妙に応答できなくてはなりません。まずは語学力の問題です。次にここでは、大道芸人はどんなに身なりが貧しくとも大統領のように毅然(きぜん)として、自信に満ちていなくてはなりません。日本人的な腰の低さはじゃまになります。さらに、ここでの大道芸は最高に元気の出る、明るいものでなくてはなりません。日本的な「間」やわび、さびといったようなものが、ほとんど通用しません。加えて、ニューヨークの大道芸観客はあまりお金を持っていません。
ニューヨークは、私がかつて訪れた諸都市の中では、貧困や病(やまい)や死といったものを一番身近に感じる街です。こういうところで大道芸人としてやっていくとき問われるのは、芸のテクニックや語学力以前の、いわば人間としての「立ち方」そのもののような気がします。人間が生き、働き、そして共に楽しむということは、いったいどういうことなのでしょうか…..?
一年目、二年目はまったく歯が立ちませんでした。六年目の今年、ある観客に言われました。「おまえは昔は悲しい(sad な)芸人だった。今ではスターじゃないか!」これは明らかにホメすぎですが、今では自分は、ニューヨーカー達を相手にまがりなりにも「ショー」をやれる、多分唯一の日本人大道芸人だろうと思います。
ニューヨークは今ではたいへん懐かしい街です。舗道のワレ目、ワレ目に生える草までが、「自分」につながる、「自分」の一部のように感じます。深夜に空港からタクシーでマンハッタンに乗り込む時には、この長い8ヶ月を日本でなんとか切り抜けて、やっと帰って来たという感慨があります。自分が生きていく、そして老いて死んでいく場所のひとつのように感じています。
2.パリ
パリでは、ポンピドー・センター前広場の大道芸が年々廃(すた)れていきます。この広場は、近年ヨーロッパの諸都市でも段々とむずかしくなってきている大道芸を保護するために、わざわざ設けられたと聞いています。それにもかかわらずです。何より大道芸人たちがこの広場を敬遠し始めています。
ひとつには、パリの地元の人達に愛され、育まれる文化としてよりも、もっぱら観光資源として機能してしまった観があります。観光客達はじっくり芸に参加するより、遠まきにちょっと立ち止まって、珍しい写真を一、二枚撮れれば満足といったふうがあり、こういった観客達を相手に芸を成立させ、お金にするには、芸人の方もかなり強引な、くどい手を使わざるを得ません。芸が荒れると、観客の方からも増々嫌がられることになります。
もともと「大道芸文化」というのは、観客、芸人、街のたたずまい等々といった様々な要素がおりなす「自然の生態系」のようなもので、これを壊すのは簡単ですが、新たに作りだそうとするとたいへんむずかしいし、根気のいる仕事になるのだろうと、私は考えます。
それでも、ここには鈴木愛さんという日本人の舞踏家ががんばっていて、この人はポンピドー広場のどん底から出発しなおすのだと言っています。この人の芸は広場のゴミ拾いから始まります。
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