平田オリザについてなど/大道芸人ちねんだいち君との往復メールより
(注:括弧〔 〕は振り仮名の指定。)
2012年11月1日/君が平田オリザを見てきた日
だいちくんへ ー
君の熱が僕にも移って、少し長いメールを打ってしまった、このまま、あまり手を加えずに、送信をしてしまいます。
平田オリザのお芝居は、友達が出演をしていたので、十~二十年くらい前、二度見ました。水か空気が流れている、それだけのような、身構えの何もない自然さのインパクト、そして心地よさを、まだ確かに、しずかに覚えています。君のくれたメールを読んで、平田オリザという人の作る演劇のすごみが、また改めて分かったような気がします。
それにしても、君は勉強家だね。偉いと思うし、悔しいとも思う。
Ⅰ
僕は大道芸も、演劇も、その業界の同業者たちから学ぶことは何もないと、長い間たかをくくってきた。僕が大道芸を始めたときには、手本なんか何もなかった。社会の真〔ま〕っ只〔ただ〕中、世界の真っ只中で、警察にこづかれながら、ただ大道芸の観客たちに支えられて、自分でこつこつ見いだしてきた。その後〔のち〕ニューヨーク の、またアヴィニョンの芸人たちと、ときに熾烈〔しれつ〕な客の奪い合いを経験しながら、打ちのめされもしながら、鍛え上げてきた(ここでは多少、他の芸人たちのやり口 も学んだ)。
僕の大道芸は、演劇は、いわゆる「演劇界」に根を張るものではない。日本の演劇界の常識、傾向なんて関係がない。「イベント業界」も、同様。雑踏が・街が・社会が、世界が僕の土俵、僕の教室、それで十分なのだと自負してきた。僕は誰の真似〔まね〕もしないし、誰にも僕の真似はできない…。
この姿勢は、半分はこの先も変わらないと思います。僕の、そのあとの半分を曲げさせたのは、君です! 君の大道芸です。
このことは、もう少し考えます。
Ⅱ
ひとつだけ、負け惜しみを言っておきます。
「演者が客席に背を向けた演劇」を最初にやったのは、平田オリザではないと思う。ただ日本の演劇界や論壇がそう認識して、決めこんだだけ。
僕ももとは演劇界の人間です。二十代の半ば頃(1983年)から四十代の半ば頃まで、約二十年間、自由演劇人集団「円形劇場」という劇団の活動に参加していた。異端の劇団。文字通り360度の円形舞台で、360度の観客たちを相手に演劇をしてきた。当然、客に背中も見せるし、客席と舞台の段差がないから、客席になだれ込んだり、客を舞台に引きずりあげたり等々、相当に革新的な実験をやってきた。
でも、ここで大切なのは、「革新的な実験」などという謳 〔うた〕い文句、売り文句ではない。ではなくて、一旦演劇とは何であるか、演劇で一体何ができるのかを根本的に問い直したとき、それまでの「演劇」の常識や傾向から外〔はず〕れていくのは、むしろ必然。今日の演劇の常識が、実は「商業演劇(近代演劇)」の常識にすぎないのだから。
平田オリザという人も、そういう演劇についての根本的な問いを発した一人なのでしょう。そして、それを「演劇界」のうるさいしきたりの中、ある程度は「商業的」な枠組みの中でやってのけたのだから、評判にも なったのでしょう。
一方、わが「円形劇場」は、その淵源〔えんげん〕を人類太古の部落の祭りや踊りにもちます…。
Ⅲ
さて、僕の「大道芸」の方法、方法論、その由来の一部は、この自由演劇人集団「円形劇場」でやった様々な実験にある。「円形劇場」に参加して半年ほど後、僕はいよいよ大道芸を始めることになる。
大道芸もまた360度に開かれた形を基本とします。君は自覚をしていたかどうか、君が新宿ホコ天で踊った、あの女の人の靴の踊りもまた、あれは360度、どの方角に対しても開かれた踊りです。僕の人間美術館は、一見180度の客席・観客たちだけを相手にするもののように見えるかもしれない。でも実は、僕は背景を、そして背景にたたずむ半観客たち、また背景を横切る通行客たちを、僕の人間美術館のなくてはならない構成要素と考えているのです。こういう生きた背景を奪われると、僕の芸は痩〔や〕せてしまう。
ところが大道芸イベントでは、企画者にもよるけど、この人たちはたいていイベントの安全管理上などから、背景に人が立ち止まる、客が溜〔た〕まるのをひどく嫌〔いや〕がる。そして「商業演劇」のなごりなのか、すぐに幕を張りたがる。後ろに紅白の幕など張られてしまうと、僕は、僕の大道芸が半殺しの目に遭〔あ〕ってるように感じる。
Ⅳ
大道芸という演劇形式の三つの基本的特徴を挙〔あ〕げて、この通信を終えるとします。
1.<舞台>が360度の<客席>に対して開かれたものであること…。
2.<舞台>と<客席>との間に明確な境界、そして高低差がないこと。従って、二つの平面の間の行き来に妨げがない。だから演者と客とが容易に入れ替わりうる、役目が入れ変わりうるということ…。
3.僕らの<劇場>には壁がない、劇場への出入りが自由である。のみならず、この<演劇>は、現実の世界の真っ只〔ただ〕中で構築される。虚構と現実とが直〔じか〕に接し、さらには両者が混然一体、入り混じり合うところに生まれる演劇であること…。
女の人の踊りでは、君は最後は新宿の雑踏に入り混じり、吸い込まれ、消えて行った…。
この2.3.については、また改めて話しましょう。
たろう
(初稿脱稿、2012年11月1日/最終加筆、2020年11月19日)
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