自由な表現の場奪われる大道芸/広場で上演する古くて新しい演劇
(「しんぶん 赤旗」1991年1月22日への投稿)
☆★☆ 天皇代替わり儀式と前後して
ここ数年、マスコミでも「パフォーマンス・ブーム」などと言われるようになりました。ところが実際には、今の日本では、街頭での文化活動一般があらゆる面から制約されており、私たちには安心して活動できる広場がなく大変苦労しています。とくに昨年の天皇代替わり儀式と前後して、警察などの取り締まりが異常に厳しくなり、目下東京の大道芸は壊滅的な打撃を受けています。やむなく暴力団保護下に逃れるものもおり、残念です。
劇場や美術館やブラウン管の中の洗練された文化は古今東西さまざまな文化のスタイルの中ではむしろ特殊なものと言えます。数年前、「赤旗」でインドの街頭演劇についての紹介がありましたが、日本にも街頭演劇(大道芸)があること、しかも今日大変な窮状に陥っていることを知っていただき、さらに、それがひとり大道芸のみならず、やがて日本の言論や文化全般に及ぶ問題であることを考えていただきたいのです。
☆★☆ 「聖地」を汚すという口実で監視
言論や文化の場が枠で囲われ管理の行き届いたものになる恐ろしさを、私たちはつい最近経験しました。東京のテレビには七チャンネルありますが、前天皇死去の数日および「大葬」の日には、ほとんど全局一様の言論しか報道しませんでした。さらに、現在東京のストリート・パフォーマンスの残り少ないメッカの一つである原宿歩行者天国は、明治神宮に隣接するため、昨年十一月の新天皇即位儀式前後から中止その他のさまざまな制限が目立ちはじめ、一部のグループの言動が「聖地」を汚すという口実で監視、取り締まりの対象となるなど、考えられないことも起きています。
澁谷ハチ公広場の大道芸は一昨年暮れごろから一時大変盛んになり、複数の芸人が毎晩のように芸を競っていましたが、現在は管理者の名の下に禁止されたままです。ここ数年の東京のストリート・パフォーマンスの中では、かなりのレベルのものであっただけに、惜しむべきです。
☆★☆ 観客と芸人の高い社会性を前提に
大道芸には特別な舞台も客席もいりません。人の集う広場さえあればどこでも上演できる、最も古くて最も新しい演劇です。芸人と観客との街角での偶然の出会いを一幕の演劇にまとめあげるには、観客と芸人の双方の高い社会性を前提にしなければなりません。そして、世界中どこでも、健全な都市には必ず大道芸があり、上演の保証もあります。
アメリカのケンブリッジ市では警察の交通課が、ニューヨーク市のサウス・ストリート・シーポートでは商店街が、またカナダのモントリオール市では市役所が等々、大道芸の許可証を交付し、私もいくつか所持しています。
今、東京から大道芸が消えても、一般の目には留まりにくいし、皆さんの社会生活にはまだ差し障りはないとうつるかもしれません。しかし、だからこそ、大道芸は大きな弾圧の真っ先の標的とされやすいのではないでしょうか。
(大道芸人=投稿)
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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c