私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑩/十分割 【仮公開】

内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ⑩/十分割

【点検中】

[縦書き発表用にアラビア数字を漢数字に改める/「 」と〈 〉の使い分けを明確、厳格に/括弧類(「 」、『 』、〈 〉)の着脱を明確に、意識的に/漢字か仮名か、或いは振り仮名付きか/M君〔←ママ〕/一〇九百科店(仮名)〔←ママ〕/某国立大学〔←ママ〕/教会合唱団〔←ママ〕/段落の変わり目に適宜アステリスク(*)を入れる]

 第十九章 大道芸の課題(2)

 僕が躊躇〔ちゅうちょ〕する気持ちを振り切って、初めて大道芸を演じた十二年前のその日、ものすごく緊張し、一体目に真似た「ヘルメス像」の宙に突き出た右手の手先が、ブルブルと小刻みに震えていたのを今でも覚えています。ところが、まさにこの時、僕が曲がりなりにも〈大道芸人〉として立ち、歩き始めてまだ二、三分と経たないときに、二十人ほどの観客たちと僕との間に、あっという間に五、六人の警官たちが割り込みました。僕はすぐさま交番に連行され、気がつくと、僕が生まれて初めて大道芸を演じた場所は、交番から数十メートルと離れていなかったのです。いま思うとあまりにも不用心でした。そしてそこで、いくつかの偶然も重なって、少々面倒な取り調べを受けることになりました。僕の大道芸についての考え方には、こうして、始めた当初から権力や、さらには一般に権威というものをどう考えるか、これらとどう関わり、これらからどう身をかわし、或いはこれらとどう闘って行くかという課題が、いやが上にも強く影を落とすようになって行くのでした。

 前に、大道芸ワールドカップin静岡での受賞歴を記しました[第四章]。これを、僕は役所あての公式文書や、またイベント業界向けのプロフィール等に、これらとの駆け引きの都合上、書くことがあります。でも本当は、僕は、この数年来(特に一九九二年秋以降)の芸能産業主導の「大道芸ブーム」、そしてその中で特定の大道芸人に特別なネームバリューが付与され権威付けられたり、その他の大道芸人たちがあれこれと選別、差別、ランク付けされたり(さらに、排除されたり)、つまり第三者の勝手な都合や思惑が〈大道芸文化〉に介入して来ている、このことが、すごく嫌〔いや〕なのです。

 こうして、僕の考えてきた大道芸とは違う別の「大道芸」、そして別の「大道芸人」たちが生まれようとしている。大道芸をやることがひとつのトレンド、ステイタス・シンボルにさえなり始めている。大道芸という言葉自体に、それが今まで背負わされてきたのとは違う荷を負わせ、色を着ける。例えば、少し古いところでは「ストリート・パフォーマンス」と言い換えてみたり、またローマ字でDAIDOGEIと書き直してみたり、何のことはない、皆が皆、それで体〔てい〕よく商売をしようとしている、新規に人を動かし、お金を動かそうとしている。本当は大道芸でなくてもよい、必要なら大道芸をねじ曲げたって構わない、もともと大道芸が何なのか分かっていないし、分ろうともしない、大道芸を愛していないのです。そこが問題なのです。

 「芸能産業、そして商業マスコミは、今、躍起〔やっき〕になって、大道芸を『現代日本文化文明』のシステムに取り込もうとしている。そのために、大道芸の大切な要素を切り捨て、大道芸を矯〔た〕め直そうとしている。或いは、イベントやテレビ番組に都合のよい別の『大道芸』、別の『大道芸人』たちをつくりあげようとしている。」

 そもそも発想の原点が、ひとつには、大道芸イベントや大道芸フェスティバルというのが他の種類のイベントに較べるとお金のかからない、屋根が要るわけでもない、舞台や客席を設〔しつら〕える必要もない、さらにギャラを少々値切っても観客たちが「投げ銭」で補ってくれる、つまり、不景気時のイベント業界にとっては打ってつけだったわけです。そしてこれに自治体の「まちおこし」というのが絡んでくると、今度は

 「市民の手でつくる、市民参加のお祭り」

 というようなキャッチフレーズで、市民たちのボランティア(つまり無報酬か、たぶんそれに非常に近い労働力)までイベント業界は手にすることになります。しかし、市民たちのボランティア精神がいかに貴くても、イベント業者たちにまでそれを期待することはできません。筋違いです。こちらは全部計算ずくでやっているのですから。

 次いで、この手のイベントに自治体の予算がつぎ込まれるとなると、自治体の予算というのは目先の利益を度外視した運用が可能なのでしょうから、イベントのための臨時公衆トイレや臨時公衆電話の設置、清掃員、警備員の手配等々、イベント業界ができれば負担せずに済ませたい部分を全部、担うことになるのだろうと思います。

 これだけ市民たちの善意や税金をつぎ込んで、本当に市民生活のレベルで経済が潤ったり、市民生活に寄り添う大道芸文化が育ったりしているのか? そうであってくれれば良いと、願わずにはいられないのですが……。

 前に書いたように、僕は大道芸人としてのある曲がり角に立っていて、イベントやフェスティバルとの関わり方を変えよう、できればもう少し増やしたいとしている[第六章]のに、イベント業界のこういう成り立ち、やり口について時折、考え込まざるを得ず、イベントやフェスティバルに全身もたせ掛けてしまうような活動のスタイルだけは、やはり絶対にとれない、やはりできることなら、仮にイベントやフェスティバルの仕事が一切なくても十分にやって行ける、百パーセントの大道芸人でありたいのだが、と改めて考え始めてしまうのです。

 ところがです(話はここで終わらない!)、最近のイベント業界のこういう動きに呼応するかのように、今度は商業ジャーナリズムが、大道芸関連イベントや大道芸フェスティバルでなく、日常の街頭での僕らの普段の大道芸活動をも記事に、つまり「商品」にしようと動き始めます。こういう取材を喜んで受ける芸人もいるでしょうが、僕は、無警戒ではいられません。

 M君がこれまでに撮りためた僕の写真を雑誌に発表したいと言ってくださるのも、M君の写真家としての真摯〔しんし〕な思いとは別に、また僕の思いとも別に、雑誌社にとっては写真が「商品」になるかどうか、大道芸が「商品」になるかどうか、おそらく大道芸そのもの、写真そのものは二の次、三の次になるものと覚悟しておかねばなりません。

 三年前、ある月刊誌が僕の大道芸観、東京の街頭管理強化に対する危機感、そして大道芸人として直面している困難などをかなり大きく取り上げてくれました。この頃、僕はまだ「ジャーナリズム」というものに大いに期待を寄せ、一時期、むしろ僕の方から積極的に働きかけ、大道芸への援護を要請してもいたのです。この時のライターが友人のひとりで、実際、好意的かつ熱心な記事を書いてくれ、後々、思わぬところでたびたび引き合いに出されるものともなったのですが、ただ、雑誌社の意向だったのでしょう、この取材から二ヶ月後、記事を発表する、いよいよ雑誌が世に出る段になって、

 「投げ銭だけでメシが食えないのは日本だけだ」

 と、何か「無頼派」の大道芸人が社会と人々とに対してわざと不貞〔ふて〕て見せているような、つまらない宣伝コピーを付けられてしまいました。先ず、僕はこんなことはひと言も言っていない! 日本で大道芸人としてやって行くのは厳しいが、あくまで投げ銭だけでもやって行ける大道芸人であり続ける努力をしていた、今もしている(それはできないことではない)のです。この、事実記事の中身とも矛盾する宣伝コピーは、僕に対する予告なしに突然電車の中吊りに登場し、そこにはタバコをくわえた僕の、いかにもふてぶてしそうに見える顔写真、さらには、確かに

 「大道芸人 雪竹太郎」

 の名前までが、太い活字で添えられていました。

 恥ずかしい思いをしました。しばらくは顔を上げて電車には乗れないと思いました。そこでは、「大道芸」やそれについての僕の言論に止〔とど〕まらず、僕の顔や名前までもが「商品」として加工、切り売りされてしまっていたのです。社会のひずみの中で、女性たちが、人格の全体から切り離した自己の大切な一部を商品として切り売りするときに感ずるであろうものが、なにか、分かるような気がしました。何もかも納得ずくでその道を選んだのならともかく、このときの僕は、商業ジャーナリズムにレイプされた、そうされた上に、どうだ嬉しいか? とまで言われているような、やり場のない怒り、恥ずかしさを味わわなければなりませんでした。気がつくと、この月刊誌一九九二年十二月号全体の売り(テーマ)が、

 「『いい人』と言われる人間に『ロクな奴』はいない、嫌われろ!」

 ということだったのです。そこで、「嫌われる人間」にふさわしかろう宣伝コピーと顔写真が、是非とも必要だったわけです。

 ここで起用された写真家の曰〔いわ〕く、

 「……雪竹さんを広く世に紹介する、有名にしてあげるためにために撮ってあげているのだから、ハイ、そこで後ろを向いてエーー(カシャ!)、ハイ、そこで笑ってエーー(カシャ!)……」

 (️️️️……●●●●ー!!! 僕はアイドル(偶像)ではない、モデル(人形)でもない。嬉しくもないのに人に指図されて、どこに笑う理由があるんだ、誰に媚〔こ〕びようとしているんだ、僕が、いつ有名にしてくれと頼んだ。大道芸がやりたいのだ、それができなくて苦労しているのだ、悲鳴をあげているのだ!……)

 有名になりたかった、うまくやりたかったのはこの写真家で、そのために僕をカモにしてしまったようです。被写体の生きていた現場、大道芸の現場で撮れなかった写真を何枚か、後で演出、捏造(ねつぞう)したのですから、雑誌の読者たちをもカモにしたことになります。写真家として腕がなかったうえに、事実よりも「嗜好(志向)」を「報道」した、嗜好(志向)に合わせて被写体を歪曲したことになります。

 (……こういうマスコミの御用写真家は、○○○○○!!!……)

 と言ってやりたい気持ちを抑〔おさ〕えつつも、先〔ま〕ずここで、取材のこの段階で、すでに一悶着があったのです。僕は写真撮影を一旦、拒絶! ライターも交えて取材のあり方について議論。僕と同年輩のその写真家の、猫なで声の説得(弁解)にもいちおう耳を貸しはしたが、まだまだ大いにへその曲がった気分のまま撮影を再開したか否〔いな〕かのとき、恐らく最初に撮れたのが、つまりは電車の中吊りに登場した、タバコをくわえた僕のいかにもふてぶてしそうに見える顔写真だったというわけです。

 大道芸は、写真は、そして一般に芸術は、さらには個々人の言論や人格までもがときに商品として歪〔ゆが〕められ、さらしものにされ、翻弄〔ほんろう〕されたり、圧〔お〕しつぶされたりしながら、そこからより強く、より正しく、生まれ直していく努力をするしかありません。

 と覚悟を決めつつも、こういう風潮の中で、僕は東京で、日本で大道芸活動を続けて行くことに、少しうんざりしてきています。今の僕の東京での大道芸には、初めてにいろの踊りを見たときに感じたようなすがすがしさ、僕が生涯、大道芸人であろうと決意した頃のような力強さは無くなってしまった気がします。残念です。少しずつ歳をとり、体力、気力が衰え始めているのかも知れません。

 (でも本当は、こんな言い分は通りません。あの「鬼の踊り」と形容されるギリヤーク尼ヶ崎が初めて大道に立ったのが、確か38歳のとき、僕は今まだ36歳です。)

 僕は今、自分が「日本人」であること、「日本の大道芸人」であることにあまりこだわるまい、僕の大道芸人としてのアイデンティティーを、むしろいろんな国境を越えて旅することに見いだそう、このような旅をして毎年一度は必ず訪れる国のひとつか日本であり、警察の街頭管理、芸能産業やジャーナリズムの横槍は世界一うるさいが、観客たちの気前と懐〔ふところ〕ぐあいは世界一よい街が東京だ、こんな風に考えてみるようになって来たのです。

 第二十章 僕の大道芸の原点「東京」について

 四、五年くらい前から、東京の大道芸シーンの主役は外国人大道芸人たちです。東京の大道芸観客たちの気前の良さに加えて、ここ数年の異常な円高が、これに拍車をかけているのだろうと思います。そうでなければ、こんなに警察の取締りのやかましい街で、一時的にせよ、こんなに大道芸文化の栄えるはずがないのです。ポーランド、南米、中国など、それぞれの自国通貨の価値の低い、つまり東京で一年間稼げば自国での稼ぎの、おそらく五年分~十年分に当たるような国の芸人たちの姿が、特に目を引きます。

 彼らはたくましい、本当にしたたかです。僕が十二年かけて東京及びその周辺に発見、発掘した、たぶん三十箇所ほどの大道芸空間は、そのほとんどが、これら外国人大道芸人たちにも知られるところとなり、ぼんやりとした縄張りのようなものさえでき上がっています。僕の方は、以前のようにここで警察に捕まったらほとぼりが冷めるまで他を転々とする、こういう東京での生き延び方が難しくなりました。今日は渋谷が駄目で、例えば地下鉄で約十分、新橋に転戦しても、着いてみたらすでに先着の大道芸人がいるのです。こういう今の東京の大道芸の現状に不平を言う日本人大道芸人仲間も、いないわけではありませんが、僕はこんな風に考えてみようと思います。

 僕より十数年前に大先輩ギリヤーク尼ヶ崎が始め、そこにずっと遅れてからにいろが加わり、さらに僕も加わり、さらに何人かが加わり、ときに警察の厳しい取締りその他で何人かが戦列を離れ、顔ぶれが入れ替わりつつも細々と続いて来た二十世紀後半の東京の大道芸文化の伝統は、今、外国人大道芸人たちの広範な参加と粘り強い援護を得て、東京の地に確実に根づき始めている、街を行き交う人々がそこに足を止め、楽しみ、心を動かし、お金を置いていくことが当たり前の風景になって来ている。大道芸には、法律による保護やマスコミによる宣伝よりも、何よりも、このような社会と大衆の日常生活レベルでの日々の支持こそが、一番大切なのです。

 【完】


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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c



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