大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ❷/十一分割
3.バルセロナ
バルセロナでは、大道芸という私たちの仕事が、ヨーロッパ中世以来の乞食(こじき)の業(なりわい)と深い関係にあることを意識させられます。順を追って、少していねいに話します。
先ず、バルセロナの人達は地味で堅実です。レストランのウエイター達は、むっつりしているのに親切です。フラメンコや闘牛という言葉で思い浮かべるようなスペイン人とはかなり印象が違います。若者の街というより、晩年に差しかかった老夫婦が仲良く手をつないで散歩していたり、バル(Bar)のカウンターでおじさん達がサッカーのテレビ中継に興じていたり、そういうことがとても印象に残る街です。晩年が幸福そうに見える街を、私は他にはあまり知りません。ですから、バルセロナでは力んだ芸をする必要はありません。ニューヨーカー達を相手にする時のような高飛車な態度は、かえってじゃまになります。
そこで、私の「人間美術館」は、ここでは「バルセロナ方式」を取ります。「考える人」に始まって「ゲルニカ」に終わる、というような起承転結のドラマを大切にした方式でなく、むしろ、私の象(かたど)る彫刻の一体一体が街の中にたたずんでいる、そのたたずまいを自分でもゆっくりと味わいながら、気が変わったならゆっくりと次の彫刻に移っていく、そういう方式です。通りかかった観客の方も、のんびりと彫刻の二、三体もながめ、気に入ったなら、私の箱の中にお金を置いていく、そういうやり方です。私の立つランブラス通りはたまり場、広場ではなく散歩道ですから、起承転結のある「ショー」には向かないという事情もあって、この「バルセロナ方式」が生まれました。
この方式のいいところは、半ば人間味、温かみを帯びた不思議な彫刻と通りすがりの人間たちとの間に、静かでデリケートな、様々な終わりのないドラマが生まれてくることです。「そこにものがある」、例えば彫刻が立っている、という極めて単純で静かな事実が様々なドラマの可能性をはらんでいることを、東京で感じることはありません。それに東京で「バルセロナ方式」をとると、いつ警官がやってくるかわかりません。バルセロナでは、休憩をはさみながら3~5時間、こうして立っています。
時には、人垣ができて10分間ぐらいくずれないこともあります。つまり、誰も立ち去ろうとせず、お金にもならないことがあります。こういう時には、彫刻が初めて口を開きます。日本からやってきたTARO(タロー)という人間彫刻だ、と自己紹介をし、観客の中から5人の有志をつのり、私と合わせて6人で「ゲルニカ」のタブローを作ります。私はこれを「カタルニア語」でやります。そして最後に、どうか皆さん「世界の芸術」、そして私の生活を支えて下さい、と口上(こうじょう)を述べてひとくぎりをつけます。この時が、ランブラスで私の芸が一番盛り上がる時です。
また逆に、誰も足を止めようとせず、長時間ひとりでポツんと立っていなければならないこともあります。すると、こういうことが起こります。通りかかった地元の年配の、たいていはおばあさんが、ろくに芸を見もしないでお金を置いていくのです。
あるいは、人垣ができていても「ゲルニカ」にもっていけるほどには空気がなごまず、お金にもならないことがあります。そういう時にも、こういうおばあさんたちの投げ銭が引き金になって、今まで遠まきに見ていた観光客達がさいふの口を開き始めます。観光客の夫婦が幼い子供にお金を持たせてよこすこともよくあります。この場合は、芸人にお金を差し出す習慣というものを子供に教育しているのです。ヨーロッパでは一般に、芸術家を社会が支えていこうという意識が強くいき渡っているように思います。しかし、バルセロナのおばあさん達の投げ銭行為には、またひと味違うものを感じます。
よく気をつけて見ていると、バルセロナの街のあちこちには、乞食がポツんと静かに座っています。金をくれとも言わずに、確か右手の掌を上に向けて、じっとしています。サグラダファミリアの出入口のところにも4、5人並んでいます。おばあさん達の投げ銭行為は、たぶん、こういう乞食に恵む行為の延長なのです。こういうところで大道芸人として生きていこうとするとき、自分は乞食じゃない、芸術家だという考えにしがみつくのは滑稽ですし、無駄な抵抗です。現実に、乞食に恵む習慣に支えられて、私たち大道芸人もうるおっているところがあるのですから。
それに、ヨーロッパの中世では、乞食は神と人とをとり結ぶ神聖味を帯びた存在だったと聞きます。乞食に恵むことで、逆に乞食から祝福を受け、天国に行けると信じられていたのです。一人一人の乞食が皆、小さな教会だったのです。乞食達は人々の同情を引く技術を真剣に、生涯かけて磨いたのです。バルセロナにはそういう伝統が、今も比較的強く生き残っているのだろうと考えられます。
ランブラス通りには私の他にも、私の芸のようには演出や技術をこらしていない人間彫刻が、何人かいます。全身白づくめで尼さんの石こう像になりすまし、顔をうつむきかげんにして、ただただじっとしている女性がいます。またオズの魔法使いか何かの登場人物の一人になりすましてはいるのですが、金にならないと、芸を放棄して地べたに泣き伏し、通行人の同情を引こうとする芸人もいます。(死んでやる、と言って車道に寝転がったりもします。)こうなるともう、日本語で「乞食芸」というような言葉がぴったりきてしまいます。バカにしてはいられません。私だって、いつも芸がうまく行ってお金になっているとは限りません。東京でも、冬の最中(さなか)に半裸で人間彫刻をやっていると、お客さんが同情や激励の意味も込めてお金を置いていってくれることがあるはずです。
バルセロナで大道芸をやっていると、「聖職者」も「乞食」も「大道芸人」も「芸術家」も、実は皆、同じ釜のめしを食っているのではないか、という気がしてくるのです。
ヨーロッパのあちこちの街で、まだ買い手やコネのつかない若い画家が、あるいは年のいった画家が、路面に絵を描いて、道行く人々から喜捨(きしゃ)を求めている姿を目にすることがあります。たいていは有名な宗教画のコピーのようです。しかも上手です。ジム・モリソンの肖像画の場合もあります。私達芸術家は皆、堅実な日常生活を営む全ての人々と「神々」とをとり結ぶ、大切な仕事を果たそうとしているのかも知れません。本来、そこに上下や貴賤の尺度は、当てはめようが無いと思うのです。
何故こんなことを書くかと言うと、わが国では今、第三者による大道芸人の選別・差別、そしてランクづけが始まろうとしているからです。それは現代日本の社会と文化のあり方、特にテレビを中心とした芸能産業のあり方によるもので、どうにもしようのないことなのかもしれませんが、私は第三者による大道芸人の選別・差別、そしてランクづけに、積極的に手を貸すことだけはすまい、したくないと考えています。
私が今、滞在しているアヴィニョンの大道芸人仲間の中にも、時に他の芸人を評して、あいつは芸術家じゃない、あいつのはジプシー芸だ、と見下した言い方をする者がいます。フランス人です。フランス人の口のきき方、人との接し方にはさすがに洗練されたところがあって、それが時に嫌(いや)みだったりもするのです。めったに口にはしないけれども、ジプシー等に対する差別感情を、腹の中に持っているのです。これはいわば近親憎悪です。フランス社会の底流にはジプシーや乞食の伝統も、どこかで脈々と生き残っているのです。それが、フランスの社会と文化のあり方を、陰影の深いものにしているようにも見えます。
今、新しく生まれ変わろうとしている日本の大道芸文化が本物になるためには、大道芸という職業を、乞食や賤民(せんみん)等との関係も切りすててしまわずに、思い切り柔軟な視線で見つめておく必要があると、私は思うのです。これは、我が国で大道芸に関わっている、或いはこれから関わって行こうとなさる皆さん、そしてとくに、大道芸をやって行く私達大道芸人自身への、私からの提言です。これをしておかないと、日本の新しい大道芸文化は温室育ちの、例えばマスコミ受けするものにはなっても、世界に通用するものにはならないと思います。
世界に通用する必要はない、日本の中でだけやって行くのだと言ってみても、現実には今、日本には、ほとんど一方的に海外から大道芸人達が流れこんで来ております。従来の日本文化、或いはテレビ主導型「現代日本文化」の枠組の中でだけ大道芸を考えていたのでは、これら外国人大道芸人達が何故あのように柔軟で、したたかで、屈強なのか理解できません。私たちはそれと対等に渡り合って行くことができません。
次のアヴィニョンの大道芸事情の紹介で詳しく触れることはしませんが、ここアヴィニョンでは実際に、私たち「芸術家」がジプシー音楽家たち等と同じ土俵でやりあっていかなければならないことがあるのです。
少し話はずれますが、イラン人の多い日曜日の原宿で芸をして、自分の芸の弱点、限界を痛感したことがあります。今、わが国には、海外から大道芸人だけでなく、新しい大道芸観客が流れこんで来ていることにも、心をとめておいてよいと思います。
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