私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑤/十分割【仮公開】
内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ⑤/十分割
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第八章補足 エージェント
収入についての話を終える前に……
昨年から、バルセロナのあるエージェントとの関係が始まりました。この「エージェント」というのは、芸人といろいろなフェスティバルとの間に立ち、芸人に代わってフェスティバルとの煩雑〔はんざつ〕な出演交渉をする業者です。そして、実を言うと、昨年(94年)に限っては、このバルセロナのエージェントの仲立ちで交渉成立したフェスティバル〈in〉の仕事だけで4本に及び、そのうち2つのフェスティバルでは、各1回ずつ『アントニオ物語』の上演も実現しました。
エージェントというのは、僕の見たところ、日本の「芸能社(芸能プロダクション)」とはかなり性格が異なるようで、というのは、日本の場合、イベントやフェスティバルの主催者と芸人との直接接触を芸能社が嫌い、妨げている事実があります。例えば、芸能社が仲立ちしたイベントやフェスティバルと芸人との間の名刺交換を認めない、等。また、各芸能社が持っている芸人たちの名簿は他社には明かせない秘密資料で、このような芸能社の意向に沿うかたちでイベント業界の慣行もできあがっているのか、ときには一つのイベントと一人の芸人との間に芸能社が複数連なることもあります。中間マージンが重ね取りされるわけです。
一方、フランスの場合、すでに芸人名鑑のようなものが公にされており、各芸人のアドレスだけでなく、シーズン中の活動予定、参加するフェスティバルなどをおおやけに知ること、知らせることができる。フェスティバルのオルガナイザーたちはこれをひとつの頼りに、シーズンになると自分たち自身の目でつぶさに芸人たちを見てまわり、好ましい芸人がいれば直接、出演交渉をすることができる。フランスに限らず、たぶんヨーロッパではこのような基本のスタイルが確立されているために、エージェントという仲介斡旋〔あっせん〕業がフェスティバルや芸人の利益から離反して肥大化していくことはないのではないか。
僕の関係しているエージェントは、数ヶ国語の堪能〔たんのう〕な語学力と電話(Fax)だけを武器に、裏通りに小さな個人事務所を構えてやっている女性です。
僕の方では、僕はアントニオ物語をもっといろんな国や土地、いろんな言葉でやってみたい、いろいろなフェスティバルに参加してみたいと思っています。今までにフランス語で120回前後、オランダ語で3回、スペイン語とカタルニア語で各1回ずつ、そして日本語で10数回やっています。初めは片言でいいのです。もっといろんな言葉を学び、いろんな人々に接し、いろいろな国や土地の空気を吸い、いろんな埃〔ほこり〕や手垢〔あか〕のついた『アントニオ物語』にしていきたいのです。
ですから、今後海外でもフェスティバル〈in〉の仕事が増え、収入の内訳が大きく変わっていくかも知れませんが、あくまで僕の旅の基本[次章、次々章]を大切にしつつ、このエージェントとも、いろいろなフェスティバルとも関わっていくつもりです。
第九章 僕たちの夏の旅
僕たちの夏の旅というのは、例えば今年は、五月半〔なか〕ば過ぎに東京を発〔た〕ち、先ず、アメリカは西海岸のサンタモニカ、南部のニューオーリンズ、そして東のニューヨーク(米国内の移動は、この場合、すべて飛行機です)。そこからスペインのマドリッドへ飛び、さらにバルセロナ。ここで決意を新たにしてから、七月の頭までにはアヴィニョンに入り、フェスティバルの開幕に備える。
ここまで、各都市に最低一週間は滞在し、毎日の食費、宿泊費などいろいろな必要経費のほか、酒代、タバコ代など多少の贅沢〔ぜいたく〕費を全部現地調達、さらに(次の移動がヨーロッパ域内の移動なら)次の街までの列車代もそこで稼〔かせ〕ぎきる。各都市で一万円も黒字が出ると上首尾でしょうか。さらに、アヴィニョンには最低一ヶ月は腰を落ち着け、ここでは上記の諸費用に加えて、日本で先払いした二人分、約四十万円の飛行機代を回収しなければなりません。川向こうのキャンプ場にテントを張り、宿泊費を安く抑〔おさ〕えます[今年のアヴィニョン以降の旅程については、第四章に既述]。
M君の質問のひとつに、国内で貯〔たくわ〕えを作って、夏、欧米を行脚〔あんぎゃ〕するのが、僕たちのライフスタイルか? というのがありましたが、これは僕たちの目論見〔もくろみ〕とは違うようです。海外の活動は海外の活動で、国内での貯えには頼らず経済的に自立したものにしようと、早い時期から努めてきましたし、実際、ニューヨークが何とかなり始めた海外遠征三年目(九〇年)から、どんな街ででもたいてい「食って」は行けるようになり、さらに、アヴィニョンに長期滞在を決め込みそこでアントニオ物語が生まれた海外遠征五年目(九二年)からは、飛行機代までをも含めて稼ぎきっています。次の目標は、夏の間、日本でただ払い同然になっている東京三鷹のアパートの、四ヶ月分の家賃です。
僕たちの夏の旅からは余暇の要素、観光の要素は極力排除されます。五年続けて通っているバルセロナでも、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)に、僕はまだ一度も入らず、登らずにいます。それだけの時間のゆとりも、お金のゆとりも無いのです。それでも、僕はだんだんにこのサグラダ・ファミリアという建築物を好きになっていくようです。それは、毎日のジョギングの折りによくここを訪れ、まわりを一周し、それを外側からだけ眺め、それが少しずつ少しずつ完成していく様〔さま〕を、五年かけて見てきたからです。
それはこのバルセロナで、あるいはアヴィニョンで、ニューヨークで、その他の街々で僕の芸が少しずつ変貌〔ぼう〕し、熟していく速度に似ています。人間の内臓が何本も宙に突き出たのか、というようなその異様な外貌に、一年目は少し驚いただけでしたが、そのうちに細部にも目が行くようになり、正面壁のキリスト教伝説を語る(らしい)、しかし現代的にデフォルメされた彫刻群、そして背面壁の、こちらは古典的なスタイルの彫刻群にも、だんだんと愛着を感ずるようになってきました。この背面壁の彫刻群は、一年目(九一年)は工事の都合で陰に隠れていたものなのです。見えなかったものが見えてくる、だんだんと見えて来る、ときには思いがけず見えてくるということは、自分でものを作っていく場合も同じです。これを忍耐して待ち、本当に時間をかけて見届けなくてはなりません。
海外ではまた、移動日以外はほとんど休まず働きます。そして、働く苦しみと喜びとを満喫します。休まず働いているうちに、その街その街で、僕の芸(作品)にいろんな襞〔ひだ〕が刻まれていきます。前の街でうまく行った〈手〉が、その街では通用しないこともあります。うまく行かない、金にならないと、別の手を考えなくてはなりません。それができなければ、くたくたになるまで働くしかありません。とうとう、誰でもいいから人が足を止めてくれ、お金をくれるまで、じっと立っていることしかできなくなってしまいます。バルセロナの街のあちこちに
「金をくれ!」
とも言わずにぽつんと座っているだけの乞食〔こじき〕たちと自分とが、たいして違わなくなってしまっていることに気づきます。バルセロナには実際、この手の乞食と大道芸人が少なくありません。そして、自分の職業が乞食と同じように卑しい、同時に神聖な職業でもあることに思い至ります。この街の様々な営み、風景、歴史に融〔と〕け込んで、僕はここでは、東京から飛行機に乗ってやって来た国際的な大道芸人でも何でもなく、バルセロナの地元の幾分(十分)みすぼらしくもある大道芸人たちのひとりになりきらなければなりません。ここでは、人々が乞食に与えるお金とたぶん同質の〈お金〉を僕ももらって、それで食って行かねばなりません。それで十分お金がもらえなければ、きっと裏路地の安レストランを、脚を棒にしてでも捜し歩かねばなりません。
それでも、僕は酒とタバコをやめることはできません。酒やタバコが好きでない、それよりもキャンプ生活用の防寒具や、持ち運びの楽な軽量のテントを買いたい妻が不平を言います。僕は、この街で一番安い酒とタバコを探して歩きます。ちなみにニューヨークでは、店によってタバコの値段が皆、違います。バルセロナでも、タバコ屋とバル(bar)とでは、値段にずいぶん開きがあります。
財布の見た目を膨〔ふく〕らませるだけでとても使いきれない五ペセタ玉、二ペセタ玉、一ペセタ玉などの少額貨幣は別によけておき、これを細かく仕分け正確に数え透明なビニールの小袋に入れ、このビニール袋の数がたまると、少し大きなお金に替えてもらうため、ときどきあちこちの商店を訪ね歩かなければなりません。
そして、この街で本当に食って行けないと決まったら、潔〔いさぎよ〕く出て行くしかありません。
これが、僕にとって「ひとつの街を知る」ということです。美術館や名所旧跡を訪ねることもめったにしませんが、それでよいのではないかと思っています。どんなにお金持ちの観光客にも劣らず、僕はバルセロナを、アヴィニョンを、ニューヨークを、いろんな街々をからだで、脚を棒にして知ってきたのです。そして、いろんな街を知るこのような苦労を重ねて行くうちに、ある時ふと、僕の芸にまたひとつ新しい襞が生まれ、僕の芸がまた少しだけ豊かになっていることに気がつきます。僕にとって芸(作品)が豊かになって行くことは、僕自身が、僕の人生そのものが豊かになって行くことと、全く同義なのだということに思い至ります。
僕の海外活動はいつ頃から? またその理由、考えは? ということをご質問でしたが、前述のように[第四章]、海外活動は一九八八年夏からで、今年が八年目。その最初の理由(考え)は、まだ東京で警官たちに追われるようにしながら、ぽつんと孤島のような大道芸活動をしていた頃、このままではいずれ東京で、日本で大道芸はできなくなってしまうのではないかと懼〔おそ〕れ、海外にも自分の活動の場を開拓しておきたい、東京が駄目になっても、せめて海外でなり大道芸をやり続けて行きたいということを、常々考えていたのです。大道芸が面白くなる、大道芸なしに自分の演劇が、人生が考えられなくなるにつれてこの懼〔おそ〕れも大きくなり、とうとう五年目に或るきっかけを得て、本当に旅に出たのです。
ところが本当に旅に出てしまって、旅の中でいろんな街と出会い、いろんな街でもまれ、四苦八苦しているうちに、僕の夏の旅の意味は少しずつ、少しずつ変わってきたようです。最初の理由の、海外にも活動の場を開拓、確保しておきたい、ひとつふたつでなくたくさん確保しておきたい、これは変わりませんが、同時に、このための苦労を通じていろんな街を知り、いろいろな人々を、風景を知り、そして自分の芸を知り、自分の芸の限界を知り打ちのめされ、くたくたになり、はじき出され、こうして自分の芸がすり切れ、手垢〔あか〕にまみれ、埃〔ほこり〕にまみれながら、実は新しく生まれ変わって行くことに気づいてからは、このことがうれしくて仕方なくなってしまったのです。この先、自分が、自分の芸が一体どうなって行くのか……。
時々、人生は本当にスリリングで、生きるに値すると感じるのです。
こうして僕は自分を「大道芸人」であり、また「旅芸人」であるとも考えるようになってきました。ですから、アヴィニョンが旅の最終目的地か? というM君の質問は、これもまた少し違うようです。自分のことを「旅芸人」と考えた場合、最終目的地はありません。
ところが、また矛盾することを言うようですが、この目的地のないはずの旅の途中で、改めて、ここに身を埋〔うず〕めたいと感じるような街、或いは人々や風景と出会ってしまうことがあります。それが〈バルセロナ〉であり、〈アヴィニョン〉であり、初めに僕を打ちのめした街〈ニューヨーク〉なのです(そこにもう一度〈東京〉を書き加えたいと、願ってはいるのですが!)。そして、書いたように[第四章]、これらの街を年に一度は必ず訪れるのです。僕が大切に考えている四つの街(ここでは東京も数えることにします。東京、ニューヨーク、アヴィニョン、バルセロナ)は、必ずしも僕の大道芸を簡単に受け入れてはくれなかった、今なお簡単に受け入れてくれてはいない街です。こういう街々が僕の芸を少しずつ鍛え、僕もなぜかこういう街々を愛するようになって行ったのです。これらの街の風景に、人々に、歴史に少しずつ融け込んで行き、根を生やし、その根を伸ばし、食い込んでいく努力を、毎年毎年、繰り返し続けているのです。東京で十二年、ニューヨークが八年、アヴィニョンが六年、バルセロナで五年……。
第十章 僕たちの夏の旅(続き)
僕はどんな街を訪れる場合にも、或いはどんなに立派な評価を得、どんなフェスティバルに招待される場合でも、自分のことを「日本の芸術家」で、「日本文化」を輸出、紹介しているのだとは考えないことにしています。一大道芸人として海外で活動していて一番大切に思うことは、行った街行った街のたたずまいや人々の社会生活のリズムに合わせて芸のやり方を変える、そしていま目の前にいる人たちに楽しんでもらえる、この人たちと本当に分かち合える、育み合える芸をしようと努めることです。最初はぎくしゃくするのが当然で、これは覚悟の上です。
ところで、昨年のここアヴィニョンのフェスティバルの目玉はたまたま「日本特集」で、日本のいくつかの劇団や芸術家たちが「招待参加」しました。能、狂言、モダンダンス、舞踏、アングラ演劇などで、これが、アヴィニョンのフェスティバル〈in〉にあたります(フェスティバルinの目玉です!)。昨年に限ってなぜかoffに「自主参加」する日本のグループがひとつもなく、outのかたちでフェスティバルに割り込んだのが僕と、それからイメージ・シネ・サーカスの仲間の一人でもある橋本フサヨでした。
彼女は昨年の地道な下調べや根回しが実り、今年は小さな劇場を借りてソロ公演をしています。好意的な新聞評も出、客入りも次第に増えてきているようですが、それでもまず赤字は埋まらないのだそうで、毎朝、街じゅうを歩き、破れた自分のポスターを丹念に張り直して回り、ちょうどお昼の公演が済むと、今度は午後はチラシを配りに街に出るのです。これが、アヴィニョンのフェスティバル〈off〉です。彼女のアヴィニョン遠征は、これでも実は成功例です。アヴィニョンのフェスティバルのoffに参加する劇団の中には、よく途中で公演を放り出し、いたたまれなくて夜逃げ同然にアヴィニョンを後にする劇団もあるのだそうです。
さて、昨年の日本特集でフェスティバルのinに招待された日本人芸術家のある発言が誌上に紹介され、この発言が、僕には許しがたいとさえ感じられたのです。自分たちはフランスで公演をするということを特に意識してはいない、そのために特別な準備や心構えをする必要も認めない、フランス人観客恐れるに足りず、というような(自分たちの舞台が評価されなければ、それは自分たちのせいではない、自分たちを招いた人間の責任、或いは客に見る目がないのだ、とも受け取れるような)勇ましい内容でしたが、これは演劇人のものの考え方、態度として絶対に間違っているのです。フランスが初めてでよく分からないから、自分たちが今までにやってきたことを、とにかく一生懸命やってみるしかない、というのならまだ分かります。しかし、いま目の前にいる観客たちとある時を共に過ごそう、何かを分かち合おう、そのために苦労しよう、ときにはぎくしゃくもしてみよう、冷や汗もかこう、青ざめもしようというつもりがなければフランスまで、アヴィニョンまでやって来る必要はないではないか、何だか不遜だ、怠慢だ、失礼だと思うのです。こういう「芸術」は人々の心に、生活に、フランス文化の土壌にわずかたりとも根を下ろすこと、根を張ることはないと考えます。
こういう芸術家たちはいろんな肩書付き、鳴り物入りでやって来ますから、当面は観客たちもチケットを買ってくれ、たぶんたくさん拍手もしてくれ(しかし実際には、昨年の「日本特集」の企画のいくつかは大変な不評だったようで、それでも)会計上成り立たなくなるようなことはないのでしょうが、翻〔ひるがえ〕って、例えば大道芸の場合、こういうものの考え方ではみるみる立ち行かなくなります。
本当にインターナショナルな芸術活動というのは、実は、ひとつひとつの地域に、街に、人々の生活に、心の中に着実に根を下ろしていく努力、そして重い荷物を背負い汗をかき(時には恥もかき)ながら、国境をひとつひとつ地道に越えて行く努力の積み重ねの上にしか無いと、僕は考えています。こんな考えがあって、僕はどんな国を訪れる場合にも、必ずその国、その地域の言葉をあらかじめ学んでおく、片言でいいから学んでおくのを原則にしているのです。
オランダは、それから今年初めて訪れるスウェーデンもそうらしいのですが、人々が実に語学に堪能〔たんのう〕で、実際にアムステルダムの大道芸がそうでしたが、英語で大道芸をやっても十分に立ち行くのです。しかしそれでは「英語字幕付きの国際交流」と言おうか、僕の大道芸が本当にオランダ文化に参加することにはならないし、スウェーデン文化の末席でもいいから「招待席」ではない本当の自分の席を得ることはできない、と僕は考えるのです。
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M君の質問にお答えします。僕はもちろん僕の〈大道芸〉を、僕の〈旅〉をこれからもずっと続けて行きます。これが僕のライフワークであり、ライフスタイルです。僕の生涯にそれ以外の予定も、野心もありません。人間美術館とアントニオ物語以外のその後の芸も、特に考えてはいません。日本の古典舞踊家たちが、生涯、同じ踊りをおそらく何百回、何千回、何万回と、手垢に塗〔まみ〕れ、擦〔す〕り切れるまで踊り尽くして行くように、僕も、僕の人間美術館とアントニオ物語を生涯かけて少しずつ、少しずつ磨いて行けたらと願っています。そして、或る時を経て、期せずして僕の『街頭劇場』が『アントニオ物語』に生まれ変わって行ったように、地道な仕事を続けて行くうちに僕の大道芸が思っても見なかったような展開、変貌を遂げることがあるかも知れませんが、それはそれで楽しみです。スリリングです。
そして、本当に歳〔とし〕を取り体が動かなくなったときのために、実は今のうちから僕は縦笛(リコーダー)の練習をしています。僕は音楽が好きです。仕事の合間に路端〔ろばた〕で稽古をしていると、ときどき誰かがお金を置いて行ってくれます。僕の将来も楽しみです。僕はどうしても一大道芸人として、一旅芸人として生き、歳を重ね、死んで行きたいのです。
僕にとって大道芸とは何か? その理想、目標は? という質問に一言でお答えすることは、どうやらできそうにありません。以上から、また以下から[第12章、第14章、第19章]もお汲みとりいただきたいのです。ですが、僕が大道芸を始めたわけは? きっかけは? という質問には、もう少し順序立てて、お答えし直してみようと思います。
この手紙の初めの方で、演劇の実地修行の場として、僕の前に大道芸という道があった、という説明をしました[第3章]。それはその通りなのですが、ではなぜそれが大道芸などという、言うなれば「賤業〔せんぎょう〕」でなければならなかったのか[第16章]? そして単に修行の場なら、科白術の勉強のために在籍していた劇団、シェイクスピアシアターでも、すぐに舞台に立つ機会と持ち役を得たのに、なぜ大道芸をやめようとしなかったか? それは演劇修行、演劇活動を支えていくための〈副業〉として、他のアルバイトより大道芸の方が具合がよかったからか?(もちろんそれもあります。でもそれだけではないのです。)
なぜ僕が大道芸を、ついに生涯を賭〔か〕けるに値する仕事だとまで考えるようになって行ったのか?
僕は今、ひとりの演劇人として、円形劇場、イメージ・シネ・サーカス、大道芸関連のイベントや大道芸フェスティバルなど、それだけで十分充実した、またその気で取り組めば、大道芸などやらなくてもたぶん(経済的にも)相応にやって行けるだろうと考えられるだけの仕事場と仕事に恵まれているのに、それでは飽き足りず、なぜ大道芸に挑み続けるのか?
僕が大道芸に託そうとした、そして、今、託そうとしている、本当の思い(覚悟)を記してみようと思います。
とりあえず、はじめの経歴の話に戻らせてください。
《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑥/十分割》に続く。
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