私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ③/十分割 【仮公開】

内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ③/十分割

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[縦書き発表用にアラビア数字を漢数字に改める/「 」と〈 〉の使い分けを明確、厳格に/括弧類(「 」、『 』、〈 〉)の着脱を明確に、意識的に/漢字か仮名か、或いは振り仮名付きか/M君〔←ママ〕/一〇九百科店(仮名)〔←ママ〕/某国立大学〔←ママ〕/教会合唱団〔←ママ〕/段落の変わり目に適宜アステリスク(*)を入れる]

 第六章 アントニオ物語 Histoire d’Antonio

 収入の内訳〔うちわけ〕、海外の場合がまだ残っていますが、これを後まわしにして、ここでM君のまたひとつ別のご質問、人間美術館以外の大道芸を行うことがあるか? にお答えしておこうと思います。それが、いま話に出した『アントニオ物語』です。M君が御存じないのは意外でしたが、考えてみれば、国内では九三年秋の大須大道町人祭(名古屋)での上演を最初として、現在までの二年間にわずか十数回、それも東京以外のイベントやフェスティバル、また大学受験予備校での講演でしか上演したことがありません。

 実は、『人間美術館(初演、一九八三年秋)』より少し遅れて始めたぼくの大道芸に、『街頭劇場(初演、一九八四年夏)』というのがあったのです。一九八四年から九〇年までの約六年間、僕は東京では、人間美術館よりむしろこの街頭劇場の方を専〔もっぱ〕らにしていました。もとは「壁」「綱引き」「重量挙げ」「蝶々とり」「青年、壮年、老年……」等々、パントマイムの古典的な短編の舞台作品を路上に持ち出し、オムニバスに羅列しただけのものでしたが、やって行くうちに、街角の風景、風物をそのまま舞台装置に見立て、作品の展開に活かすことを試みたり、すぐ目の前にいる観客たちとの大道芸ならではの関わり方を見つけたり(観客を劇中人物と見なしたり、劇中人物に仕立てたり)、また街頭でこそのアクシデント(例えば、近くを通るパトカーのサイレンの音)を作品の中にうまく収拾するこつを覚えたりして、少しずつ大道芸らしくなって行っていた、洗練されて行ったというより、東京の雑踏にもまれて、あら削りでエネルギッシュな、収益の点でも人間美術館をかなり上まわるものになって行っていたのですが、これが海山を越え、いま僕が滞在している、ここ、アヴィニョンで上演しているうちにさらにまた大きく生まれ変わり始め、ついに『アントニオ物語 Histoire d’Antonio』となったのです。そして、皮肉なことに、アヴィニョンでアントニオ物語を手に入れるのと引き換えるようにして、僕は東京では次第に『街頭劇場』を失って行ったのです。

 僕がアヴィニョンで初めて街頭劇場を演じた九〇年、そしてそれがアントニオ物語のかたちをとり始めた九二年というと、ちょうど東京の街頭の様相が大きく変化しつつあった時期なのです。少しさかのぼって、八十年代末頃から東京の街頭には外国人大道芸人の姿が目立ち始め、そのうちに東京は、一見したところ「大道芸天国」の様相を呈〔てい〕するようになる、この陰で、実は暴力団関係者(?)が大道芸に目を向けるようになり、東京の比較的良質な大道芸空間のいくつかがその「管理下」に置かれる(場所代云々の問題が起きる)、僕は仕事場のいくつかを失う、もっと後になると、他の仕事場が今度はホームレスの人たちの常住〔じょうじゅう〕するところとなっていく、不景気のせいか東京の夜の大人たちの人口が少なくなったようでもあり、その代わりに(あれを「渋○族」というのか)社会的には未熟な少年少女たちが街頭で目につくようになり、大道芸観客の扱いにも時々手を焼くようになる、また街頭に新たに設置されたスピーカーからは絶えず何かの宣伝音楽が流され、街頭劇場の控え目なBGMをかき消してしまう、街頭劇場にとって特に致命的だったのは、そのメイン・ステージであった渋谷・ハチ公広場に突如、意味範囲不明瞭、でなければ越権的な「大道芸禁止」の広告が、一〇九百貨店(仮名)名で掲げられたのが九〇年、そして、とうとう僕がここで始末書を取られてしまったのが九二年、このようにして、東京で街頭劇場を上演する機会は徐々に少なくなって行き、僕は、大道芸人としての東京での生き残りを、比較的規模が小さく動きの身軽な人間美術館の方に懸けざるを得なくなって行ったのです。

 さて、『アントニオ物語』。舞台はここ、アヴィニョンです。これも、とりあえずは「人間美術館(世界の美術)」から入り、この場合、テンポよく手短に運んで、最後の「ゲルニカ」の群像に加わってもらった観客の中から、誰か一人を舞台に残します。そして、二、三の簡単なテストをクリアーしてもらった上で、

 「今夜は君をアントーニオと呼ぼうと思う!」

 とだけ告げ、一旦〔いったん〕客席に帰します。このアントニオが、例えば四方を見えない「壁」に囲まれて逃げまどっている僕 = タローを助け出し、二人手に手を取って窮地から脱出する、或いは僕 = タローを助けることに失敗し、タローの墓の前で祈る(または、号泣をする!)、このように、にわか役者アントニオが、アントニオ物語を構成する各短編にいろいろな形で登場してきて、アドリブで芝居をするのです。はじめは、自分がなぜアントニオと名付けられたのか、突然舞台に呼び出されて何を、どうすればよいのか分かりませんから、戸惑〔とまど〕います。とんちんかんなことを一生懸命やってくれたりもします。でもそれが初々〔ういうい〕しい、面白いのです。

 ところが、このアントニオがリラックスしてくる、観客たちの応援の波に乗ってくる、そしてこつをつかんでくると、僕が考えもしなかったような、また毎晩のように足を運んでくれる常連客たちの誰もが思ってもみなかったような「名演技」をしてしまうことがあります。ここで、このアントニオの物語は大きく大きく膨〔ふく〕らみ始めます。物語が全く意外な方向に展開していくこともあります。こうしてこの夜のアントニオ物語が膨〔ふく〕らんだだけでなく、実は、僕にとっては、僕が生涯かけてとりくんで行くべきこの作品に、またひとつ新しいドラマの可能性を発見したことにもなるのです。僕はアヴィニョンのお客さんたちと一緒になって、夜ごと夜ごと僕らの『アントニオ物語』を、こうして育てているのです。

 このあとの展開は、例えば「自転車旅行」という短編の中で、アントニオと一緒に鳥になって、ユーラシアの果て日本へ向け旅だったり、或いは「道」という短編に展開する場合は……

 僕が最後に長い長い道を歩いていると、大変に歳を取ってしまいます(『街頭劇場』の中では「青年、壮年、老年……」と題していた短編です)。いつか足が停〔と〕まり、頭をあげる、そして気がつくと、歳を取った僕を大勢の人たち、二、三百人から、多いときにはもしかしたら四、五百人を越える人たちが取り囲んで、じっと見ています。

 (……この人たちは何だろう? なぜ僕を見ているのだろう……)

 ところが、この大勢の人たちの中に、やはりずいぶんと歳を取ったアントニオが交じっているのです。

 「……アントニオ?! お前はアントニオだろう……」

 歳を取ったアントニオは

 「アントニオは俺じゃない、あっちだ!」

 と、僕を壁から助け出してくれた若いアントニオの方を指〔さ〕します。僕は

 「いや、お前は歳を取ったんだ。今度はお前がアントニオだ!」

 見ると、アントニオの隣には、その妻アントニアがいます。彼ら二人の小さな息子もいます。アヴィニョンの大道芸観客の中には、実際、このような家族連れが少なくありません。アントニオは歳を取り、今では立派な家庭を築いているのです。

 「……アントニオ、ブラボー! ブラボー、アントニオ……」

 皆で大きな拍手をし、祝福をします。僕がアントニオの小さな息子に

 「アントニエット!」

 と呼びかけると、

 「ちがう! こいつはタローというんだ」

 と、アントニオが返してくれたりします。このお客さんもだいぶ調子づいて来たようです。僕が心臓発作を起こすと、今度はこの老アントニオが僕を助けに出て来なければなりません。この老アントニオに背負われて、或いは老人ふたり手に手を取って病院へ行く途中、僕たちは、まだ若いけれども素敵な女性と出会います。病気はどこかへ飛んで行ってしまいました。そして、僕も遅ればせながら、アントニオのように家庭を持ちたくなりました。アントニオをさっさと席に帰し、今度はこの女性客に舞台に上がってもらい、二人でささやかな結婚式を挙げ、そして皆に見送られながら、今度は二人で遠い道を歩いて行って、このアントニオの物語 Histoire d’Antonio〔イストワール・ダントーニオ〕を閉じます。

 カーテンコールは華やかです。僕 = タローとその妻(たぶんその名は、アントニア)、歳を取って立派になったアントニオとその妻アントニア、彼ら二人の小さな息子アントニエット(またの名、タロー)、その妹のアントニエッタ。そして、忘れてはいけません、初めの方で大奮闘、大活躍をしてくれた若い頃のアントニオ、是非とも全員に舞台に上がってもらい、皆で手をつなぎ、

 「これが私の家族です。C’est ma famille〔セ・マ・ファミーユ〕!」

 と、改めて紹介し、ここで大きな大きな……拍手をもらいます。

 この『アントニオの物語』は、東京で結局十年近くもやって来た『街頭劇場』を土台にしてはいるわけですが、すでにもう東京の大道芸ではなく、言ってしまえばアヴィニョンの大道芸、或る一時期東京で命を尽くし、果て、アヴィニョンで生まれ変わり、今、ここで育って行きつつある大道芸なのです。僕自身を、生涯、〈アヴィニョンの大道芸人たち〉のひとりに数えたいとも願っています。そして、作品がこれだけ手の込んだものになってしまうと、東京の街頭に持ち帰ることはもうできません。観客たちが地べた(石だたみ)に腰を据〔す〕えてじっくりと楽しんでくれるような、本当になごやかな状況を、今の東京の街頭に見いだす、造りだすことは、とても考えにくいのです。

 まず、人びとが地面にお尻を着ける習慣というものが、もともと日本には無いのだと思います。日本人はお尻を着ける代わりに「しゃがみ」ます。これでは脚がくたびれます。長持ちしません。七年前、生まれて初めて訪れたニューヨークのウォール街で、ビジネスマン達が昼休み時、背広着姿のまま道端の石段に腰を下ろし、ハンバーガーなどをかじりながら大道芸を眺めている姿に、少し変な気がした記憶があります。日本では見慣れない光景のような気がしたのです。もしかしたら欧米人たちは、日本人たちのようには都市の地面というものを忌〔い〕み嫌ってはいないのではないか。一方、日本の都会は、表面は一見、コンクリートやアスファルトに覆〔おお〕いつくされているようでも、そこに住む私たちの生活感覚のうえでは、西洋風の石づくりの都市によりも、土のむき出した農村の方に近いのではないか。西洋の都市が中世の農村に対抗し、農村社会(封建社会)から隔絶して、石の城壁に囲まれて生まれたのに対し、日本の都会は実は農村と地続きで、農村社会の延長のままなのではないか。

 日本人が地面にお尻を着けるには、例えば花見のときには畳代わりにゴザ、昨今ではビニールシートなどを敷く必要があります。土の上でなく石の上に座るときにも、例えばハンカチ一枚、新聞紙一枚敷こうとします。そこで、僕が日本国内のフェスティバルなどでアントニオ物語を上演しようとするときにも、ビニールシート約十二畳分を携帯するなど、身軽を旨〔むね〕とする大道芸人らしからぬ工夫をしなくてはなりません。

 〈大道芸〉を本当に考えようとするとき、芸の表向きの内容やテクニックを見ているだけでは十分ではない、日本の大道芸と欧米の大道芸とを比べる場合にも、大道芸を包み込み、育んでいる社会そのものの成り立ち方の違い、歴史の違い、そして人々の生活習慣の様々な違い(さらには警察官と芸人たち、市民たちとの間合いの取り方の違い)などにも目を向けておく必要がある、これらが〈大道芸文化〉の成立の仕方を大きく左右しており、ひいては芸の内容やテクニックの細部にまでも影響を及ぼすのです。

 ただ、アントニオ物語を東京では上演できない、或いは同じヨーロッパでもアヴィニョン以外では、実は幾つかのフェスティバルでしかまだ上演したことのない理由は、他にも反省してみなくてはなりません。作品がデリケート過ぎるのです。どんな街、どんな場所に行ってもそれなりに上演できる人間美術館と較べた場合、これが、まだ生まれたてのこの大道芸作品の大きな弱点でもあるはずです。

 〈大道芸作品〉というより〈フェスティバル(向けの)作品〉と考えることもできますが、これを言ってしまうと、今度は僕が本当に〈大道芸人〉なのかが問われてしまいそうです。(これも後ほどたち戻らなくてはならないテーマなのですが[第十四章、第十九章、他]、)僕は、自分が大道芸人であることに、或るこだわりを持っています。そして、アントニオ物語がどういう弱点を持っているかをきちんと把握しておくことも、大道芸人としてやっていくために大切なことなのだと考えます。

 閑話休題。

 さて、アントニオ物語の年間の上演回数の分布を見ると、アントニオの生まれた九二年から、毎年ここアヴィニョンで七月一杯から八月初めにかけて、ほとんど毎日、一日一回、計三十ステージ前後、そのあとチャンスがあれば、ヨーロッパの他の街のフェスティバルで二、三ステージ、ところが、そのあと日本に帰ってくると、秋・冬・春の八ヶ月間に、『大須』のフェスティバルその他でせいぜい六、ないし九ステージ、こちらは少し遅れて九三年秋からです。このように、年間の上演回数の分布がたいへんに偏〔かたよ〕っています。

 実は今、僕は、このアヴィニョンで生まれたアントニオ物語という少しやっかいな作品を、先ずは何とか日本に逆輸入する苦しい工夫をあれこれしている最中なのです。東京の街頭では上演できないから苦しいというだけでなく、例えば、友だち同士であればどんなに歳が離れていても、

 ー Antonio〔アントーニオ〕!

 ー Taro〔タロー〕!

 とファーストネームで呼び合う、呼び合えるヨーロッパ的な人間関係を、日本語版のアントニオ物語にはうまく持ち込めない。例えば高校生、中学生以下の子をアントニオに指名した場合、ヨーロッパの子供たちは大人びた一人前の対応、演技をしてくれますが、日本の子供たちは、少し歳の離れた僕を

 「タロー」

 と呼び捨てにすることが、先ずできません(日本での上演の最初の頃は、ヨーロッパ語版の直訳に近いアントニオ物語でしたから、僕はこの手の失敗、困惑をたくさんしたのです)。しかし、これも日本の子供たちのせいではなく、日欧の社会の成り立ち方の違い、社会における子供たちの扱われ方、振る舞い方の違いに関わることで、僕が社会を、歴史を変えることはできない、ならば芸のやり方の方を変えていくしかありません。

 そこで最近思いついたのが、アントニオには僕を

 「兄貴〔アニキ〕!」

 と呼ばせるやり方です。アントニオに指名したお客さんが僕より年上であっても構いません。とにかく日本では、日本的な人間関係、〈タテ社会〉における人間関係を土台にして『物語』を再構築するしかないのです。

 その他にも、

 「私の家族です/My family〔マイ・ファミリー〕! 」

 や

 「私の妻です/My wife〔マイ・ワイフ〕! 」

 というような言葉の響き、これらの言葉が観客たちに与える印象や拡がる波紋、そこから起こる(はずのなごやかな)笑いや拍手が、ヨーロッパと日本とではどうしても違う、等々、日本ではまだまだしっくりとは行きません。もっと日本国内での上演の機会を増やして、日本の土壌に合ったアントニオ物語を探って行かなければなりません。そして、秋・冬・春の間、日本で十分にこの物語をこなし、次の年のアヴィニョンにまたひとつふたつ成長したアントニオ物語を持って帰れるようにしたいのです。

 そういう思いがあって、日本にいる間、全くの路頭に放り出された大道芸活動ももちろん大事にすると同時に、この物語を上演できるフェスティバルやイベントとの関係が、僕にとってたいへん大切になってきているわけです。

 (僕は今、大道芸人として、たぶんひとつの曲がり角に立っていて、日本国内での収入の内訳も、今後、変わっていく可能性があります。)

《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ④/十分割》に続く。


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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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