私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑦/十分割 【仮公開】
内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ⑦/十分割
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第十三章 再び円形劇場、そして大道芸
劇団円形劇場の中学校公演は、もちろん〈学校〉という枠組みの中、体育館という〈壁〉の中で行われるもので、それとしての管理を前提にしてはいるのですが、これを認めた上で、先〔ま〕ず、舞台の周囲三六〇度に客席があるものですから、生徒たち全員に同時に同じ絵面〔えづら〕を見せることはできません。全観客に同時に同じような感じ方をさせる、全観客から同時に同じような反応を引き出すことができない、つまるところ、観客たちを〈近代演劇〉的手法で管理(コントロール)することはできない、この前提での演出を考えなくてはなりません。
どうせなら、ある場面では俳優たちがあっちの客席になだれこんだり、こっちの客席から生徒を舞台にひきずり出して来たりして、〈劇場〉の秩序をあえてひっかきまわします。驚いて泣き出してしまう生徒も、逃げ出す生徒も、勇敢に手向〔たむ〕かってこようとする生徒もいます。こうして生じたアクシデントをどう収拾し、逆にドラマの展開に生かし、作品をより豊かにして行くか、その場に臨むひとりひとりの俳優の即興能力にかかっています。
もともと台本に細かいことは書いてありません。書いてあってもその通りにはなかなか行きません。前もって稽古した通りの演技をするつもりも、実はありません。毎日新しく〈演劇〉を、作品を経験したいからです。その代わり、ドラマの行方〔ゆくえ〕がどうあるべきか、この作品をどこへ持って行きたいのか、個々の俳優がしっかりした意志を持っていなくてはなりません。
そして、少し困ったことに、この作品が最終的にどうあるべきか、必ずしも全〔すべ〕ての俳優が皆、同じ考えを持っているとは限らないのです。自分にとって演劇とは何か、円形劇場とは何か、青い鳥はどこにいるのか、考えていることが少しずつ違うのです。円形劇場専属の俳優の他〔ほか〕に、小劇場畑の俳優も、マスコミ畑の俳優もいます。音楽家や舞踊家、大道芸人、ときに空手家などの参加してくることもあります。
そこで、ここの演出家は、観客を管理できないだけでなく、ひとりひとりの俳優をも管理しきれないという前提での演出を考えることになります。むしろ、〈俳優〉ひとりひとりが同時に〈演出家〉でもあることを要求します。ときどき作品について、演技のあり方についてなどディスカッションをするのですが、考えの溝、気持ちの溝が埋まらないこともあります。溝が埋まらないまま本番に臨むと、ぎくしゃくしたり、ときには俳優同士喧嘩腰に近い演技をしてしまうこともあります。
これに加えて、改めて、観客たち(中学生たち)が我々のお芝居にどう応〔こた〕えてくれるか分からないという問題があります。演劇なんか見たくない生徒もいます。三月の公演の場合、三年生の中には試験に落ちてしまった子が交じっているかも知れません。きっといじめられている子も、そしていじめている子もいるはずです。
十年前は、いわゆる不良中学生たちがたくさんいました。学校側の配慮で観劇会から締め出されていたらしい不良生徒のグループが、上演の真っ最中に体育館に乱入して来て、そのうちの一人が小道具の木刀に手を伸ばしてしまったこともありました……。
こうして、ひとつの〈劇場〉に集うあらゆる人々の意思と意思(心と心、体と体)のぶつかり合いのはてに、何か温かい、ときには熱い、本物のドラマが生まれて来れば良い、皆が幸せになれれば良いと私たちは願っているし、実際、多くの中学校でそれは十二分(以上)の手応〔ごた〕えを得て、生徒たちからだけでなく先生方からも、熱烈な拍手と歓呼で見送られつつ、私たちは学校を後にするのです。
〈演劇〉に対する僕のこのような自覚と自負は、今、僕の大道芸、特にアントニオ物語を支えているものでもあります。僕はできるだけ観客たちや、にわか役者であるアントニオを管理しない(実際、大道芸の場合、管理したくても到底〔とうてい〕しきれない)という覚悟と方針ですから、僕のアントニオ物語はたびたび立ち往生〔おうじょう〕をしながら運んで行きます。書いたように[第6章]、アントニオがとんでもない名演技を見つけてくれて、一気に難所を乗り切れることも、逆に、思ったようには動いてくれず、難渋する日ももちろんあります。例えば、僕が老アントニオに指名したお客さんが、
「自分の息子をアントニオにしてくれなかった、本番前、あれほど頼んだのに!」
と駄々〔だだ〕をこねて、心臓発作を起こした僕を助けに出て来てくれようとしません。僕は、一度でもアントニオ物語を見たことのある観客にアントニオの役、特に若いアントニオの役は振らないことにしているのです。本番前にこのことはよく説明したつもりなのに、分かってくれていなかったのです。こういうときは他の観客たちも、またこの老アントニオの奥さんまでもが
「助けてあげなさい!」
ー Allez〔アレ〕! Allez〔アレ〕!
と、皆でけしかけてくれるし、僕も演技の都合で地べたに倒れ伏したまま
「……アントニオ……お前が助けてくれないと……スペクタクル(芝居)が終わらないんだ……」
と白状までしているのに、頑〔がん〕として動きません。
「ダメだ。俺の息子がアントニオをやってるところを、ビデオに撮りたいんだ!」
困ったお客です。こういう場合は、仕方がないので結びを「蝶々とり」という短編に持って行き、その中でアントニオに少しだけ悪戯〔いたずら〕、仕返しをすることを僕は思いつき、この日の頑固〔がんこ〕の軍配〔ぐんばい〕は僕に上がったようでした。このお客さんとも握手をして終わることができました。
この「蝶々とり」は、本来、このアントニオの物語がどうにか〈台本〉通りに進み、僕もアントニオも歳を取り、それぞれに家庭を築いた幸福な晩年の、さらに一万年後の輪廻転生〔りんねてんしょう〕の物語で、ここでは僕は子どもに、アントニオは蝶に生まれ変わります。
第十四章 大道芸の課題(1)
僕はこのように、大道芸というものを、こちらがつくったものを一方的に差し向けるのでなく、観客たちとの共同作業で、ときに観客と格闘もしながらつくり上げていくものだ、そうありたいと考えています。芸人と観客のどちらが上でもなく、人を選別、差別、排除せず、そして管理せず、さらにお金を持っている人もそうでない人も対等に分かち合える演劇のあり方として〈大道芸〉を追求しているのです。万人に対して開かれた、万人と共にある演劇を実践しようとしているのです。
ところが、これがそう簡単なことではないようです。先ず、目の見えない人には僕の『人間美術館』に立ち会ってもらうことができません。
またある時、耳の聴こえない人が僕の人間美術館にひどく感激してくれて、ただ少し困ったことに、芸の節目節目での拍手がなんだか一人だけ違うのです。一人だけ他の人たちより長めの拍手をしたり、拍手のタイミングがずれていたり、一人だけ拍手の音が変に大きかったりして、「観客席の調和」を乱しているのです。はじめ僕は、無神経な客だ、ふざけているのかと思いました(芸の途中で一度だけ、その拍手のしかたを非難する意味を込めた視線さえ、そちらに送ってしまいました)。
ところが、このはたち前後の女性客が、僕の芸が終わり、他の観客たちが皆いなくなってしまっても、よほど僕の芸を気に入ってくれたのでしょう、一人だけポツンと残って、僕のあとかたづけを見ていました。そこで僕は、トイレに行きたいので、荷物を見ててくれないかと声をかけたとき、一瞬妙な、困ったような顔をされて、このとき初めて僕は、この人は耳が聴こえないのではないかと気づいたのです。そして、この女性がすぐにノートとボールペンを取り出したので、
(……トイレに行きたい……)
と書くと、
(……見ず知らずの自分に大切なものを託してくれて……)
と、今度は感謝されてしまいました。僕の方では、彼女の拍手のしかたを無神経だと決めつけてしまったことを、大いに反省しなければなりませんでした。大道芸には壁が無いのです。どんな人が、どんなかたちで係わってくるか分かりません。それに対していつも僕が適切な対応をとって行けているか、自信がありません。きっとたびたび間違いを犯しているはずです。
たぶん大道芸人は、絶えず自分の無知や不見識を知り、世の中にいろいろな人たちのいることを知り、自分の生きている世界に対する畏怖〔いふ〕、畏敬〔いけい〕の念を抱きつつ、この世界に生活の、生涯のまるごとをかけて挑み、或いは身を委ね、こうして世界について少しずつでも学んで行き、それでもなお自分があくまで一人の小さな人間(等身大の人間)に過ぎないことを思い知らなくてはなりません。劇場を飛び出して、あえて人々の行き交う雑踏の中、世界の真っ只中に立ってしまったのです。「演劇の常識(鉄則)」のごときものでは測れないことの方がむしろ多いに決まっています。大道芸観客を律するルール、そして大道芸人を律するルールがあるとすれば、それは〈世界の良識〉のようなもの以外に考えられません。
アントニオ物語の本編の前置きにあたる部分に「オリンピック」というコーナーがあります。このオリンピックに出てもらった青年の一人が、僕の指示するある種の動作をどうしても嫌がります。これは徴兵拒否を信条とする青年です。こういう青年たちが意外にたくさんいます。ヨーロッパでは今、本当に、戦争が行われています。
耳の聴こえない例の女性は、僕の『アントニオ物語』をあまり気に入ってはくれなかったようで、それは、人間美術館の方はこのとき終始、無言で演じたからよかったのですが、アントニオ物語の方は要所要所に口上や科白が入ります。音楽も使います。ここではことに〈言葉〉が、彼女に、アントニオ物語の人の輪の中で居心地の悪い思いをさせ、部外者として斥〔しりぞ〕け、遠ざけてしまったのではないかとおそれます。アントニオ物語の大道芸作品としてのまたひとつの弱点、欠陥です。
また、アントニオ物語はここアヴィニョンではフランス語で運びます。すると、フランス語の分からない、例えばドイツからやって来た若者たちの一団が、僕の芸の静かな部分でも構わず大声で、僕の芸について説明し合ったりなどして、観客席の調和を乱すのです。僕がこれに不快の意を表明すると、彼らは芸の最中に、やはり平気でガヤガヤ言いながら、ごっそり抜けて行ってしまいます。
ドイツの若者たちはよく大人数の集団で旅をし、集団でキャンプを張り、そして集団で大道芸を見るのです。集団で電車に乗り込んで来て、他の乗客たちのことはお構いなしに大声で歌をうたったりします。
ただ、アントニオ物語に限って見れば、ここではフランス語が彼らを疎外〔そがい〕してもいるのですから、責任の一端は僕の芸の方にもあるわけです。ここでも言葉が人々を隔てる壁になってしまっています。こういうことが、実は昨年までたびたびあって困っていたものですから、今年からフランス語の分からない人、特にドイツ人の集団のいることを確認したら、大切な部分は英語で説明を補足するようにしてみました。すると、ドイツの若者たちは、意志の疎通さえうまく行けば、今度は集団で僕の芸に加勢をして、芸を盛り上げてくれるのです。彼らの仲間の一人がアントニオをやるとなるとなおさらです。
今年ここで、知的障害者の一団を引率する女の先生に、本番前、彼らの一人を出演させてもらえないかと相談を持ちかけられ、僕は迷った末、結局、ゲルニカの群像の一人としてだけ出演してもらい、早々に客席に帰してしまいました。この青年は、やや不自然なくらい几帳面〔きちょうめん〕なお辞儀〔じぎ〕をしてから、一団のもとに帰って行きました。知的障害というものがどういうものか、またそれが社会においてどう扱われるべきなのか、僕は全然、学んだ経験がなく、この出演者に次のオリンピックのコーナーまで居残ってもらおうか、しかしオリンピックのいろんな動作に一人だけついてこられないのではないか、健常者の、例えば子どもが動作を間違えたのならともかく、この場合、笑いで包み込もうとすることが、観客たちにしてもかえってはばかられるのではないか、なにか収まりのつかない場面を僕はつくりだしてしまうのではないか。
そしてそのとき、この出演者の知力よりも、むしろ観客席の側の分別、そして何より僕自身の見識が問われるのではないか。我々の社会の、〈世界の良識〉のほどが試されてしまうのではないか……。
(……それとも、それだからこそ、この出演者にあえてアントニオの役を振って、物語を最後まで乗り切ってみようか、あの先生も、本当はそれをお望みなのではないか、案ずるより生むが易〔やす〕し、これはこれで立派なアントニオの物語になるのではないか……)
などと想像はしつつ、でもこれを、今は想像の範囲にとどめておくべきだと判断をしたのです。今の僕にそれだけの資格も、度量も、覚悟もないことは、むしろ明らかに思えました。
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さて、先へ進む前に、ここまでの話を一度、整理させてください。
先ず、学生時代に参加したサークルで音楽を学びながら、音楽が(或いは一般に芸術、文化、教育が)、本来、人々を豊かにし、喜びをもたらすものであるはずなのに、逆に人々を選別、差別、ときには排除さえしてしまう(人々を隔てる壁になってしまう)、そういう性質を担わされてしまっていることに気がつきました。実はこれが、M君がお尋ねの、僕が大道芸を始めたきっかけ(契機)の、一つ目です。
この問題にいつかきちんと向き合って(闘って)みたいと考えて、しかし、それがなぜ〈大道芸〉になったのかという途中経過は全部跳ばして、話を進めました。
実際に大道芸を始めたあと、今度は劇団シェイクスピアシアターで科白術を学びながら、ヨーロッパの〈近代演劇〉が、さらには日本の現代演劇やテレビジョンはそれに輪をかけて、重大な問題を抱えているらしい、近代演劇的手法によって、それとは気づかぬうちに、私たちの心と行動は巧妙に管理(コントロール)されているらしいことに気がつき始めました。
そして、今、僕がどんな思いを〈大道芸〉に託しているか? 僕は、現代日本文化の呪縛から身を振りほどき、逃れ、万人に対して開かれた、万人と共にある演劇、共につくる演劇を実践して行くのだ。だから、もしこの世界が貧者や弱者と共にあるのなら、大道芸も否応〔いやおう〕なくこれらと共にあるのだ。この際、〈世界の良識〉のようなものだけが頼りなのだ。
しかし、そこにもなお課題があり、困難やおそらく限界もあり、結局、僕は一大道芸人として、世界の大きさ、広さを思い、その世界に身を投げ出ている自分の小ささを知り、世界や人々と誠実に交わることを、死ぬまで続けて行くほかないのだ。
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さて、僕が途中経過を跳ばしてしまったところ、合唱団での僕の問題提起が大道芸に結びつくまでに、無くてはならなかったきっかけ(契機)が、あと二つ残っています。
僕が大道芸を始めたわけは、きっかけは、三つあったのです!
第十五章 ドロップ・アウト
僕が合唱団を去るにあたって提案したのは、具体的には例えば、A〔アー〕・B〔ベー〕・C〔ツェー〕……というような、良くない意味でアマチュア的(好事家〔こうずか〕的)な言い方を、この合唱団から注意深くひとつひとつ無くして行こうということでしたが、実際のところ、僕がこの合唱団にずっと居残って、あれはやめようこれもやめようと言い続けることができるわけではなく、また後に残る後輩たちが僕の提案の意味をどれほどしっかりと受け止めてくれたかも定かでなく、さらには、僕のいなくなったあとにも毎年毎年、いろんなレベルの音楽の特別な訓練を受けた学生や、そうではない学生たちがこの合唱団に入って来、また出て行くわけで、この素人たちの本当にささやかな音楽サークルは、日本の音楽文化一般の良い空気も悪い空気も区別なく、絶えず吸い込み続けて行くわけです。
僕が三年間熱を注ぎ愛したこの合唱団がこの先どうなって行っても、僕にはどうすることもできないのだと思うと、たいへんに悔しい、寂しい気がしました。そんな後ろ髪を引かれる思いで大学を卒業し……
実は、合唱団に対しても音楽に対しても、後ろ髪を引かれる思いがあまりにも強かったので、僕はこの春、早稲田大学を卒業するとすぐ間を置かず、某国立大学の中学校教員養成過程音楽専修というところに、入学をし直したのです。また一年生からです。今度は、
「音楽文化と音楽教育における差別の問題」
というような卒業論文のテーマまで胸に温め、また、この大学の音楽室にパイプオルガンがあったのも魅力的で……。
でも、これは明らかに欲張り過ぎ、無理でした。学校が遠かった上に、パントマイムの勉強と道路工事のガードマンのアルバイトだけでやはり手一杯で、三月〔みつき〕経〔た〕たないうちに学校へは行かなくなり、授業料は半年分しか払っておらず、とうとう一年後、退学ならぬ「抹籍」処分となりました。国家の助成で賄〔まかな〕われる大学の限られた定員枠に、他の者たちを押し退けて割り込んだ者、「選ばれた者」としての「使命」を果たそうとしないことを責められ、この大学は金輪際〔こんりんざい〕僕を受け入れない、と宣告しました。このことを電話で、顔も知らない事務職員の女の人に告げられました。僕は面食らいました。……このことは今でもときどき考えます。
いずれにせよ、大学当局からの抹籍の宣告を待つまでもなく、学業の継続を諦めたとき、僕の道は大方、定まっておりました。ガードマンのアルバイトをしながら、今度こそパントマイムひとつに専念をし始めたころ、僕は一冊の本、
『再び、辺境最深部に向って退却せよ!』
という題名の本と出会います。これが、僕が大道芸にたどり着くまでの、二つ目のきっかけ(契機)です。
《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑧/十分割》に続く。
〈大道芸人雪竹太郎文庫〉目次、に戻る。
https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c