大道芸人宣言 オリジナル 1993年夏 ❿/十一分割

Ⅳ.キムさんの話

 私がこの一年余り大道芸について新たに思い悩んできたことは、これでほとんど全部吐き出せたと思います。だいぶすっきりしました。最後にもう一つ、キムさんの話をして、このお便りを終わりにしようと思います。

 ここアヴィニョンに、昨年まで、キムさんという名物の芸人さんがいました。ミュンヘンに本居を構える、しかしヨーロッパ人ではなかったようです。アラブ人のような浅黒い顔の人でした。40年輩の、小柄でキャシャな体つきをし、いつもユダヤ人のような黒い帽子をかぶって、せかせかと猫背で歩く人でした。どこかさびし気な人でした。

 この人の芸が異常に強いのです。この人の芸の基本はミーム・スイヴールと言って、例えば路上のカフェテラスでくつろいでいる人たちを楽しませるために、カフェの前をよぎる通行人のすぐ真後ろ20センチぐらいのところを、ほとんどくっつかんばかりに、しかも相手に全く気づかれずにつけて歩いたり、その歩きぐせを巧みにまねしたり、またレストランの前でメニューをのぞきこんでいるアベックの男の手を後ろからそっと優しく握ったり、その男が何をかん違いしたのかその手を握り返したり…等々、あれこれと罪のないいたずらをするのです。鼻の頭に「自分はクラウンです」という印(しるし)をつけていますから、いたずらされた方は、それに気づいた一瞬は怒って見せても、直ぐに赦してしまいます。

 この手の芸はパリ、ミュンヘン、ニューヨーク、そして東京でも見たことがあります。皆、顔を白塗りにする等、なんらかのクラウンの印を持っています。東京の場合は別にして、たぶん一般にヨーロッパ社会では、クラウンの印を持つ者たちは、皆の目から普段はかくれたもの、いつも人々を影のようにつけ歩きいたずらするもの、日常の枠(秩序)からはみ出した者として公認され、その存在がとくべつに許されているのではないかと考えられます。

 そして実はこれが、ヨーロッパ社会に大道芸文化が根づよく生き残っている理由なのではないかとも考えられます。クラウンがサーカス小屋や劇場の中だけでなく、人々の日常生活の真っ只中にも潜んでいるのです。そういう伝説を大道芸人たちが実際に体現しているのです。

 一般に大道芸人は、たとえクラウンの印をつけていない者でも皆、大なり小なりクラウン的資質【(書き換え)資質→ 素養】を身につけています。大道芸はこの点から見ると、もともと法的規制の対象に当たらない、特例として目をつぶられるべきものなのではないか、とも考えられます。たとえ法律や条例による保護がなくとも、社会と民衆の支持さえあれば、何とかやっていけるはずのものなのではないでしょうか?

 日本にもたいこ持ちなどクラウンの伝統があるはずなのですが、私はよくは知りません。

 話をもどします。色々ないたずらが盛り上がってくると、歩道の上にもだんだんと人垣ができてきます。この人垣の輪が完成すると、この「劇」の上演に気づかない人はいなくなり、いたずらの対象になる人はいなくなります。クラウンの存在は皆の目にあらわになってしまい、かくれたものではなくなってしまいますから、これで「幕」となるのが普通なのですが、キムさんの場合にはここから改めて「開演」となるのです。

 先ず、人垣の中から6~7人の子供達をひっぱり出してきて整列させ、笛を合図に気をつけ、前へならえ、直れ、右向け右、回れ右、その他様々な、しかし単純な動作をやらせます。その中に単純なトリックが入っていて、幼い子は必ずそれにひっかかりまちがえてしまいます。時には全員右を向いているのに、一人だけ左を向いていて、自分が間違っていることに気づきもしません。これが大人たちの爆笑をさそいます。特に、間違いに気づかない子の親たちは大はしゃぎです。これが済むと、子供達はひとりずつ、キムさんのほっぺたにキスをして帰ります。キムさんはこの時直立不動の姿勢をとりますから、小さい子はジャンプしたり、キムさんの体になんとかよじ登って行ってまでキスしようとします。ここでまた大人たちは大爆笑、大かっさいです。子供達は皆、キムさんが大好きになりました。ひっぱり出してもらえなかった、見ていただけの子たちも、次の回は自分が出たいと思うようになります。それは置いておいて、さて、今度は大人たちの番です。

 今度もまた6~7人の、今度は大人たちをひっぱり出してきて様々なふんそうをさせ、ロミオとジュリエットのパロディーだか何だか分かりませんが、たあいのない一幕劇をやらせます。映画のカチンコ係もいます。キムさんは演出家です。(ここでもキムさんはかくれた存在であり続けます。クラウンに徹します。)大人たちも子供達に負けず一生懸命になります。大人たちもキムさんのしかけたトリックに簡単にひっかかってしまいます。例えば、警官役がバイクに乗るパントマイムをする時には脚を高く上げたのに、殺害現場に到着しバイクを降りるパントマイムをする時には、犯人たいほの方に気が行ってしまい、脚を高く上げることを忘れてしまいます。キムさんが、待ってましたとばかりに「ダメ」出しをします。最初からやり直しです。それも、カチンコ係が走りこんできてカチンコを鳴らし、所定の位置まで走り去るところからです。つまり、後の人が間違うとその前の人にまでとばっちりがいき、なかなか「劇」が進まないのです。でも、そこが面白いのです。ですから皆、一生懸命に演技します。

 野毛でおなじみの「人間ジュークボックス」の高橋さんが出演した時は、大受けでした。この人は、素人(しろうと)のようでも色んな芸を見て知っていますから、他の出演者たちより創意工夫があります。何度も一生懸命やり直しをした後、最後には、キムさんのトリックを全部クリアーした上に、バイクにエンジンをかける時にはきちんとキーを回すなど、キムさんの指示にないディテイルまであれこれ付け加えて、見事!元気に警官役を演じきりました。カーテンコールは高橋さんが一番最後にまわされます。観客達は皆、高橋さんに一番大きな拍手をし、ブラボーをあびせます。

 このように、キムさんの芸は大人から子供まで皆が楽しめ、そして主役にもなれます。もちろん、かくれた主役はキムさんです。最後の最後にキムさんに、高橋さんよりもっと大きな拍手とブラボー、そしてお金が浴びせられるのです。子供達が親からもらった小銭を、喜び勇んでキムさんの帽子に入れに来ます。キムさんにお金を上げられるのは、子供達にとっては何だか名誉なことなのです。

 このキムさんの芸は一時間以上続くこともあります。笛ひとつが頼りで、ひとことも口をきかず、音楽も使わないのに、ここでは、英米系のジャグリングなどのジョー舌な芸よりもキムさんの方が「強い」のです。キムさんが芸を始めると、そのそばでは他の芸人たちは、まずやれません。客が全員キムさんの方に行ってしまうからです。500人から1000人ぐらいの人垣が、1時間以上に渡ってほとんどくずれません。私たちはキムさんからだいぶ離れた、人通りの少ない、条件の良くないところでやるしかありません。遠くの方から時々、ピッピッというキムさんの笛の合図と、ドーッとどよめく様な群衆の笑い声、どよめくような拍手が聞こえてきます。ですから、キムさんはお客さん達やアヴィニョンの地元の人達には愛されましたが、他の芸人たちにはかなりやっかい者扱いされているところがありました。芸が強いので真っ先に「おきて破り」をするのもこの人でした。おきて破りをしてしまった時には、他の芸人たちに弁解しようともせず、ひとりでポツんとしているような人でした。

 このキムさんが、昨年はあまりうまくいきませんでした。キムさんだけでなく、皆んなもうまく行きませんでした。フェスティバル当局からの風当たりが強く、人出の少ない暑い時間帯とか、また照明の消えてしまった薄暗がりの中でやらなければならなかった、などの事情もあります。あのキムさんが人垣をつくるのに苦労しているのを、たびたび見かけました。その分当然上演時間が延びるし、あとにひかえる芸人たちにはますます嫌がられます。芸が間延びして収益が落ちこんだ分、回数をこなさなければなりませんから、よりひんぱんに「おきて破り」をすることにもなります。もの静かなキムさんが、他の芸人と、客の見ている前で口論するようなこともありました。また、せっかく人垣ができかけたのに、芸を途中で放棄してしまうこともありました。そんな時には拍手もありませんし、一応帽子を置いては見るのですが、普段なら親にもらった小銭を喜び勇んで入れにくる子供たちの姿も、ポツポツでしかありません。キムさんは自分の芸の弱点をよく知っている人でした。強い芸人がいつも勝てるとは限らないことも、よくわきまえている人でした。そのキムさんが、昨年はだいぶあせって、少しとり乱しているふうなところがありました。一度、僕がキムさんの人垣の隣ではり合って、負けなかったことさえありました。

 見た目には分かりませんでしたが、この頃にはだいぶ病気が進んでいたのではないかと思います。芸をやってお金をかせぐことに一生懸命な人でしたから、少しぐらい具合が悪くても医者にかかろうとしなかったのかもしれません。私がアヴィニョンを去る前に、キムさん来年もここで会えるか、と聞くと、タロー、今年がこれだったろ、来年からはアヴィニョンはよそうと思うよ、という返事でした。そうはいっても、キムさんはアヴィニョンが好きなのだ、来年もここで一緒にこうしているに違いないと思いました。

 そして、キムさんが死んだ、「キムは終わった、Kim est terminé(キム エ テルミネ)」ということを、私たちが今年アヴィニョンに降り立った、その場で、たまたま出会った地元の大道芸ファンのひとりからきかされ、びっくりしました。キムさんは、もう本当にアヴィニョンには来なかったのです。今年2月に病気で死んだのだそうです。キムはもう来てるか?と私が聞くと、そういう返事が返って来ました。

≪大道人宣言 オリジナル 1993年夏 ⓫/十一分割、に続く≫ 


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