東京都・ヘブンアーティスト制度についての私の見解(二〇〇三年秋) ①/二分割
雪竹太郎
(現代思想十月号 第三一巻第十二号 二〇〇三年十月一日発行 に発表)
注:括弧〔 〕は振り仮名の指定。[←「 」に傍点]は傍点の指定。
ヘブンアーティスト諸君・諸兄へ。ヘブンアーティスト制度の実際を日々支えて下さる東京都庁職員の方々、各公園管理事務所の方々、都営地下鉄職員の方々、他へ。東京都知事・石原慎太郎殿。二〇世紀から二一世紀にかけての東京の/日本の大道芸文化を見守って来て下さった方々、いま見守り、これから見守って行って下さる方々へ ——
二〇〇三年・夏、旅先にて
改めまして、大道芸人・雪竹太郎です。一九八三年・秋、東京の街頭で大道芸活動を始めました。大道芸を生業とする者、天職と覚悟もする者です。二〇〇二年一一月一日付けで、ヘブンアーティストライセンスカードを取得いたしました。
この、二〇〇二年・秋に発足した東京都のヘブンアーティスト制度について、その構想が新聞報道された春頃から、その前にも/後にも大道芸人として、またライセンス取得後はヘブンアーティストのひとりとしても、「見解」を表明しておく必要を感じておりました。制度が発足してから一年になろうとしています……
この「見解」は、ヘブンアーティスト制度に対する根底的な批判であり、それ故にこそ最も建設的な批判であり得ると考える/願うものです。
イ 「見解」の前提
〈一般に、健全な都市になら、大道芸文化は制度(ルール)が無くてもあるべき/育つべきものである。制度がなければ大道芸文化があるべきようにない/育たないとするなら、それは大道芸にでなく、むしろ都市の方に問題がある、と考えるべきであろう〉。
実際、私たちは二〇〇二年・秋まで、制度がなくても長い間なんとかやってきた、実績があります。たしかに最後の数年は、都内各所の美化・再開発に伴うようにして、警察・その他による街頭管理の著しい強化がなされる —— 街頭における一般の静態〜動態、その一挙動・一挙手・一投足にまで及ぶ注意・指導がなされるようになる(新宿駅西口近辺)など、私たちの大道芸活動もまた或る窮境にあったことを認めなくてはなりません。
このような時にあたり、東京に大道芸の許可制度が敷かれました。否応なくその管理下に入っていく、私たちに選択の余地はないように見えます。ヘブンアーティスト制度は、数年来〜十数年来の私たちの活動場所 —— そのいくつかを、改めてその管理下に置く、というものでもあります。しかし、残念ですが、この制度は私たちの望んだものではない! 活動の実際に適うものとも言い難いのです。行政のこのような御心配は、無くても済むなら無い方が望ましい。しかし必要なら最小限に、より穏当・適切に願いたいものです。官製の大道芸文化とは世界に類がありません。無謀な実験です。大道芸という芸能のかたち[←「かたち」に傍点]にかかわり、いのち[←「いのち」に傍点]にかかわりかねません。
「ヘブンアーティスト」の資格と称号を得ることをいさぎよし[←「いさぎよし」に傍点]としない —— いまなお審査を受けようとしない芸人のいることにも、改めて注意を向けていただくべきかと思います。
〈大道芸文化は、本来、制度(ルール)に依〔よ〕るべきものでなく、モラルに依るべきものである。都市を往き交いそで[←「そで」に傍点]を触れ合わす者たちどうし[←「どうし」に傍点]が、互いに、Excuse me. (私を通してください) —— Pardon me. (あら、気がつかなくて、ごめんなさい)と、言葉を、心配りを交わし合うような。ときにぶつかり合い、ゆずり合い、また助け合い、さらには高め合う私たちの高度の社会性、良識をこそ頼むべきである〉。
詳論はひかえますが、このような大道芸の場の成り立ち方が、観客と芸人との協同作業で創りあげていくべき個々の大道芸作品の内容、内実をも左右するのです。
〈いま、東京の大道芸文化はモラルの上にでなく、ルール(制度)の上に据え直され、育て直され(矯め直され)ようとしている〉。
ロ 見解、その一
〈ヘブンアーティスト制度は、将来、発展的な解消を遂げるべき、過渡的な制度と考えるべきである〉。
【参考】オランダ・アムステルダム市、ベルギー・ブリュッセル市には大道芸の許可制度があります。ただし、オーディション等の審査はありません。許可証交付を望む者は誰でも、アムステルダム市なら市役所の、ブリュッセルなら警察の窓口を訊ねます。そこで必要な説明を受け、簡単な事務手続きをし、若干の事務手数料を支払うと、アムステルダムで一週間後、ブリュッセルなら即日、許可証を手にすることができます。また、上演に前以って日時、場所を通知、予約する必要もありません。
一方、フランス・リール市、パリ市、アヴィニヨン市、またスペイン・バルセロナ市、マドリッド市などで、大道芸の「許可制度」というのは、むしろ常識に反します。これらの街で私はとくに許可なく大道芸をやってきた、多〜少の実績があります。以下も同様、ドイツ・ベルリン市、ケルン市、シュツッツガルト市、ミュンヘン市(ミュンヘン市では音楽の大道芸に限り許可が必要とききました〔一九九一年当時〕)、またデンマーク・コペンハーゲン市、ノルウェー・オスロ市……。またアメリカ・ニューヨーク市、ニューオリンズ市……。(街から街へ、国から国へと渡り歩くとき、許可制度の敷かれた街や場所は避〔よ〕けて通りたくなるのが大道芸人の心情です。制度がややこしく[←「ややこしく」に傍点]、敷居が高くなればなる程、許可証は現地居住・在住の芸人にしか手の届かぬものとなっていく、大道芸文化はローカルなものとなっていきます。)
イギリス・ヨーク市で窓口を訪ねると、「告知 Notice」のコピーを一枚手渡されます。市評議会は大道芸人を歓迎する(The City Council welcomes street entertainers)の書き出しで、市が大道芸人たちを歓迎する − 受け容れるにあたっての大道芸人たちへの要求を五項目、箇条書きにしたもの、二四行/一頁。……協力されたし(Please cooperate)の一文で締めくくられます。とくに手続きはありません。
以上【参考】は、過去一五年間(〜二〇〇二年)に、私が現地で親しく知り得た限りの例の、一部です。
さて、ここで改めて注意を向けておきたいのは、とくに許可制度などない、もともと大道芸に対し寛容な都市においてであっても、つまり私たちの活動がとくにルールに抵触しなくとも、それが都市生活上の何らかのモラル(その都市固有のモラルの場合もあります。言われなければ分かりません)に触れると見られた場合、観客から・通行客から・近傍の商店主からなど、注意や意見や苦情を受けることがあり得るということです。
例えば、音楽の演奏をしている、そのすぐ近くの商店がたまたまレコード店で、レコード店にとって通りでの音楽演奏が必ずしもありがたくない、或いは、店主や店員の好みに合わない、演奏が長時間にわたると多〜少不快である、場所を移動して欲しい、などなど。これらの苦情・要望には十分〔じゅうぶん〕道理があるとして、また交渉・歩み寄り、つまり検討の余地[←「検討の余地」に傍点]もあります。分かった、あと五分、もう一曲だけご辛抱願えまいか? 失恋をした友人のために一曲、とリクエストをいただいたところなのだから。分かった、あと一曲なら、Good job(良いお仕事を)などの対応もあり得るわけです。
〈ルールが無くても、モラルが機能する〉。
〈ルールと異なり、モラル(にかかわる問題)には(個々)検討の余地がある〉。
実を言えば、このような注意や意見や苦情、要望・その他は、たとえ私たちの大道芸活動が制度(ルール)によって許可、保護、また奨励されている場合であっても、その都度〔つど〕、然〔しか〕るべく検討されなくてはならないし、その場合、ルールが許してもモラルが許さない、ということがあるのは、言うまでもありません。
〈ルールがあっても、やはりモラルは機能しなくてはならない〉。
私たちの大道芸活動・東京の大道芸文化は、すでに制度以前にさかのぼる[←「さかのぼる」に傍点]歴史とモラルを持ち、或いは都境を越え、国境を越え、様々な大道芸の現場で試されてきたもの、と自負したく思います。そこに今更〔さら〕にルールを科されることに、屋上、屋を架される感があるのを否めません。
ハ 見解、その二
〈ヘブンアーティスト制度、また一般に大道芸の許可制度は、大道芸「不許可制度」と表裏一体のものである。或いは不許可制度としての性格/機能を持っている〉。
ヘブンアーティスト制度の下では、ヘブンアーティストの活動は指定された「公共空間」に制限され、またそこでの活動時間も制限されんている。また、指定された空間、及び時間が必ずしも大道芸活動に適しているとは言い難い。
一例を挙げますと、「井の頭恩賜公園」内に現在、二ヶ所、公共空間が指定されてあります。そのうちの一ヶ所は、公園で最も僻遠〔へきえん〕な一郭〔いっかく〕(奥まったところ)。私たちの経験では、この公園内に他に少なくとも三ヶ所、大道芸にはるかに[←「はるかに」に傍点]適した空間を挙げることができるのです。公園来園者・散歩客との協調の実績もあるこれらの場所での大道芸活動が、しかし制度に従えば許されず、あくまで「公共空間」二ヶ所(実際上は一ヶ所)に、私たちの活動は制限されている。これは空間の例です。
時間の例を挙げます。制度の下での私たちの活動は、公共空間によって、例えば(月曜日を除く)毎日、土曜・日曜・祝日のみ、平日・週一日のみ、など。時間が、それぞれに、例えば一二時〜一三時(一一時半〜一三時半)、一一時〜一六時(一二時〜一七時)などとされています。さて、土曜・日曜・祝日、また平日の昼休みどきはよいとして、平日の〜一六時(〜一七時)、とは如何〔いかが〕でしょう? 大道芸を生業とする者たちの、これはほぼ[←「ほぼ」に傍点]共通の見解のはずです。私たちは一般の社会・経済活動の行われる平日の昼間に休み、学び、準備をする。そして、それらの止〔や〕む土曜・日曜・祝日、また平日ならば夕刻以降こそが、私たちにふさわしい活動の時間です[←「平日ならば夕刻以降こそが、私たちにふさわしい活動の時間です」に傍点]。いずれの公共空間でも夕刻以降の活動、とくに平日の夕刻以降の活動[←「平日の夕刻以降の活動」に傍点]が考慮されていないのは、推しはかるに、都庁や公園管理事務所などの業務時間の御都合でしょうか?
実は、私たちの経験では、夕刻の最も人出の多いラッシュアワー、 —— それよりもむしろ一九時、二〇時、二一時以降、とりわけ(ことに音楽の大道芸の場合)終電間近の最後のラッシュアワー前の或る澱〔よど〕んだ時間帯こそが、私たち大道芸人と通行客との最も親密、内密、濃密に心を通わせ合える時間帯なのです。
《東京都・ヘブンアーティスト制度についての私の見解(二〇〇三年秋) ②/二分割》につづく。
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https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c
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