私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ④/十分割 【仮公開】

内題:私の経歴、大道芸を始めたわけ、私にとって大道芸とは何か、などについて(友人の写真家・M君への手紙)一九九五年・夏 ④/十分割

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 第七章 海外の大道芸フェスティバル

 さて海外では、フェスティバルやイベントのお膳〔ぜん〕立てにはよらない日常の街頭での〈本来の大道芸活動〉が、あくまで基本になります。フェスティバルの仕事は、あってもひと夏に二本ぐらい。これもフェスティバルの〈in(イン)〉ではなく〈off(オフ)〉の枠〔わく〕に参加する場合は出演料はなし、投げ銭収入のみとなります。

 ただ、フェスティバルによっては、offの枠でも宿と食事(フルコースの立派な食事です!)を無料で提供してもらえる場合があります。二人分の宿泊費と食費が浮くのですから、これはずいぶんとありがたい例です。受賞歴を記したところで挙〔あ〕げたシャーロン・スュル・ソーヌ(ソーヌ河畔のシャーロン、の意)という街の大道芸フェスティバルがそうでした。このフェスティバルは毎年七月中旬ごろ、四日間にわたって催〔もよお〕されます。

 フランスにはもうひとつ代表的な大道芸のフェスティバル、オーリヤックという中南部の内陸の街で、八月下旬に、やはり四日間にわたって催されるフェスティバルがあり、こちらにoffの資格で参加する場合は、宿も食事も全部自分持ちです。僕がここに三年ぶり、二度目に参加した昨年(九四年)は、参加希望者があまりにも多かったため上演は一日一回に限られ、結局、経済的なメリットはほとんど無かった、こういったケースもあります。

 ともあれ、これらのフェスティバルの〈off〉にそれでも大道芸人たちが集まって来るのは、そこによく整えられた大道芸環境があり、よく馴致〔じゅんち〕された大道芸観客たちがおり、公式のプログラムに演目・上演場所・開演時間などを紹介してもらえるうえに、大事なのは、他のフェスティバルのオルガナイザー(企画者)たちが集まって来ている、つまり、行く行くは他のフェスティバルの〈in〉に参加する道が開かれているからなのですが……

 実は、昨年のオーリヤックの場合にはもうひとつ事情が込み入っていて、最近ヨーロッパの街頭に目立って増えてきた若い失業者たちが、フェスティバルのにぎわいを当て込み各地から集まって来て、物ごいやたかりをする、その一部がフェスティバルのoffに登録手続きをし、大道芸(の真似事)をする、こんな事情もあったようです。ヨーロッパの社会にはこのように、日本では考えられないようなルーズ、というかおおらかな一面があります。中世以来の乞食〔こじき〕やジプシーの文化や伝統が今も生きている社会なのです。

 もともとヨーロッパには、物ごいやたかりと大道芸人の区別のあいまいなところがあります。同じことが大道芸人とフェスティバル芸人との間、フェスティバルoffの芸人とinの芸人との間、また大道芸人とサーカス芸人やステージ・アーチストとの間などでも起こります。チャンスがあれば誰でも気軽に境界線を踏み越えて上に上がって行く、風向きが悪ければ下りて行く。大道芸や乞食の文化の一度、途絶えてしまった東京で、日本で、あえて〈大道芸〉とは何かをもっと切り詰めた、ストイックなニュアンスで考え、追っていた僕が拍子抜けするほど、ヨーロッパではもともと大道芸という生業〔なりわい〕が何か特別なものではないのです。誰もが比較的簡単に入って来、出て行ける〈カースト〉、例えば、学資の尽きた音大生がその穴を埋めるのに路上でヴァイオリン演奏をしていたり、青春の旅に行きづまり金に窮した若者が物乞いをしていたり、自転車による世界一周無銭旅行の途上にある紳士が、大道芸人たちに交じって路上に世界地図を拡げ、図上に赤エンピツで行程を記し、旅の費用を募〔つの〕っていたり。このように、路上での物乞いや大道芸が日常的な光景であることは、日本人大道芸人の僕の目にはうらやましい反面、ヨーロッパにいると、大道芸(人)とは何かが、かえって見えにくくなってくる面がありました。

 ところが、矛盾することを言うようですが、このようなヨーロッパ社会のルーズさ、おおらかさにばかり目が行っていたのは、実は、僕がヨーロッパを知るようになった最初の何年かだけで、最近ではその逆の、ヨーロッパ社会の秩序を重んじる傾向、ときには怖〔おそ〕ろしい、強引とも思える傾向が目につく、鼻につくようになり始めています。これは、僕のヨーロッパとの交渉が少しずつ深まって、目が冴〔さ〕えてきたからかもしれませんし、しかしそれだけでなく、今、現実にヨーロッパの社会が何か大きく変動、混乱しつつあり、そのために、ヨーロッパ社会の陰に隠れていた別の面、或いは本当の面がむき出しになってきているのかも知れません。

 この話は一旦〔たん〕ここで置きます。

 第八章 アヴィニョン演劇祭。そして収入の内訳、海外の場合

 さて、M君のFaxを拝見すると、ここアヴィニョンのフェスティバルについては、改めて説明が必要のようです。ここのフェスティバルは大道芸のフェスティバルではないのです。演劇祭です。ですからあくまで劇場でのお芝居が基本で、中にはいくつか街頭演劇や街頭パフォーマンスをやる劇団もありますし、劇場公演をやる劇団がさまざまに趣向を凝らした宣伝隊を街頭に繰り出すのがここの風物になってもいますが、これらは、大道芸とは違うものだと考えてください。

 実は、僕たち大道芸人は、このフェスティバルのにぎわいを当て込んで稼〔かせ〕ぎ(たかり)に来ているだけの、ある意味でフェスティバルにとっては部外者に過ぎないのです。それで、ここでは僕たちはフェスティバルの〈in〉でも〈off〉でもなく、ときに〈out(アウト)〉に分類されます。

 ただ、アヴィニョンにやって来る演劇ファンの多くは僕たちoutの大道芸も楽しみにしてくれていますし、じっくりと腰を据〔す〕えて見てもくれます。良い大道芸に対しては劇場の芝居に対する以上に好意的な新聞評(劇評)が出たりもします。このあたりがヨーロッパ社会のルーズで、おおらかな面なのです。

 もっとうれしいのは、特に演劇ファンというのではないアヴィニョンの地元や隣街などの家族たちが、ひと夏の間に一度や二度ならず何度でも、アヴィニョンの大道芸、そして僕の大道芸を見るためだけに足を運んでくれるのです。この子供たちは僕の芸を見ながら大きくなっていくのです。彼らは、僕の開演が近くなると親の手をひいて勇んでやって来て、

 ー Taro est là〔タロ・エ・ラ〕! タローがいるよ!

 と僕を指差します。僕を見つけたことが彼らの自慢、何か誇りでさえあるのです。彼らの心から一生涯、

 ー Taro〔タロー〕!

 と

 ー Antonio〔アントーニオ〕!

 という二つの名前が消えなければよい、それらが何か美しい思い出、彼らをいつも温めるような思い出であってくれればよいと願わずにはいられません。

 この、南フランスの古都アヴィニョンの演劇フェスティバルは、例年七月上旬から八月初めにかけて、三、四週間の長期にわたって催されます(今年は七月七日から七月三十日までの二十四日間)。

 もうひとつ、スコットランドの主府エディンバラの演劇フェスティバルは、こちらは八月中旬から九月上旬にかけての、やはり長期にわたるフェスティバルで、この期間中はこちらにも、フェスティバルの企画とは関わりなく、大勢の大道芸人たちが集まります(エディンバラは一度きり、ほんの一週間ほどの訪問と滞在で、あまり詳しく知りません)。

 僕がここ、アヴィニョンで大道芸をするのは今年が六年目で、残念なことにここでも、警察の街頭管理が年々確実に厳しくなってきています。フランスの社会党が弱くなったせいだと言う人もいます。そういえば、真偽のほどは分かりませんが、パリのポンピドー・センター前広場では、昨年警官たちが

 「コミュニズムは終わった!」

 と口走りながら、大道芸人たちを追い散らしたと聞きます。また若い失業者が増え、フェスティバルとなるとここアヴィニョンに限らず、先程はオーリヤックのところにも出てきたわけですが、これらの若者たちは、なぜか皆たいてい大きな犬をつれ、モヒカン刈りやスキンヘッドなどのある決まった装〔よそお〕い、いで立ちで路上にあふれ、路上で酒を飲み、道行く人からお金をせびったり、タバコをせがんだり、そして大道芸の真似事をしたりするわけです。彼らは町外〔はず〕れの無料キャンプ場や格安のキャンプ場を占拠し、近くの商店で度々〔たびたび〕万引きをはたらきます。そしてひとつフェスティバルが終わると、ヒッチハイクで次のフェスティバルへと移動するのです。

 そこで、昨年からここアヴィニョンには、従来のアヴィニョン市警察 Police municipale〔ポリス・ミュニシパル〕に加え、全身紺色づくめの制服のフランス国家警察 Police nationale〔ポリス・ナシオナル〕までが乗り込んで来ています。そしてこの国家警察というのが、またひとつ困ったことに、アヴィニョンのフェスティバルの事情がよくのみこめていないらしく、ときに全く乱暴な街頭管理をします。身元の不確かな浮浪者や例の若い失業者たち、また私たち大道芸人にとどまらず、劇場で公演をしているoffの劇団の街頭宣伝隊まで問答無用、十把一からげで路上から追い払おうとします。アヴィニョン市の意向とはまた別の意向が働いているようでもあります。僕の問い合わせたところでは、アヴィニョン市で大道芸をやるのに許可証はいらないはずで、つまり、ありもしない「許可証」の提示を求め、これを所持していないという理由で私たちを追いたてたりもするのです。

 こうした警察の新しい動きに加えて、フェスティバルで毎年街頭公演をやる劇団の一部が、実は前々から私たち大道芸人を邪魔者扱いにしていました。なぜかというと、こういう劇団はどんなに大人数で声を張り上げても、どんなに大音量のスピーカーで音楽を鳴らしても、もともと街頭に人垣をつくりドラマをつくりあげる私たち大道芸人の技術、さらに街頭ならではの様々な雑音、騒音に耐えてこの人垣を保ち抜く力量を持ちませんから、たった一人の大道芸人の観客動員力にも及ばない、ときには力のある大道芸人に観客をごっそり持って行かれたりもします。こういう劇団はもともと、劇場費のかからない、また、人の通わない裏通りなどの劇場に観客を動員するためのポスター代、チラシ代などの費用の張らない「街頭」を、あえて選んだはずなのです。そして、街頭では観客が面白い方につくのはあたりまえで、これは街頭のルール、大道芸のルール、そしてアヴィニョンのルールだったはずです。それなのに、自分たちの芝居に客がつかないことを、私たち大道芸人に非があると考えたがるのです。街頭では実は私たち大道芸人の方がエキスパートなのだと認めたくない、私たちのことを芸術家としては一段劣るものと見なしたい、そもそもアヴィニョン演劇祭における私たち大道芸人の存在そのものが許せない、大道芸人たちを排斥したい。そこで、いろんなかけひきをして、例えば広場の一部を柵で囲い込み私たちを締め出したり、警察と懇意〔こんい〕にして見せて、私たちの取り締まりに差し向けるゾ、と脅〔おど〕したり、ここぞとばかりにやり始めたのです。

 こんなわけで、アヴィニョンの大道芸の様相は、昨年(九四年)あたりからすっかり変わってしまいました。顔見知りの芸人の何人もが姿を見せなくなり、大道芸人の数がめっきり減りました。パリのポンピドー・センター前広場の大道芸が傾いて行ったときと同じように、

 「アヴィニョンはもう駄目だ!」

 ということを、フランス中の芸人たちがささやき合っているのです。芸をやる場所も、私たちの愛した、まだ中世の面影そのままの法王宮前広場 Place du palais〔プラス・デュ・パレ〕から、カフェの建て込む騒々しい市役所前広場 Place de l‘horloge 〔プラス・ドゥ・ロルロージュ〕、そして度々車両が出入りして芸の中断を余儀なくされる共和国通りRue de la république〔リュ・ドゥ・ラ・レピュブリック〕の方へと、その中心が移ってしまいました。

 そして、もうひとつ驚いたことに、アヴィニョン六年目の日本人大道芸人の僕が、気がついたら、アヴィニョンの大道芸人たちの中で一番の古株になってしまっているのです。どんな事情があろうと、僕はここで、僕の『アントニオ物語』をやり続けなければならない、今、ここでできなければ、いつ、どこでできるか分からない、東京に帰ってもやれないのです。

 そこで、実は僕は今年から、ここのフェスティバルの〈off〉に登録手続きをし、〈演劇祭〉に正式参加している体裁をとってみることにしたのです。この手続きを日本にいてやるのは大変でした。やり取りはもちろん全部フランス語です(契約書用の厄介〔やっかい〕なフランス語です)。しかし、正式参加といっても、出演料が出るわけでなく、宿や食事を用意、支給されるわけでもなく、反対に、一演目の登録料が一七七九フラン × 二演目(アントニオ物語と人間美術館)= 計六万円ほどの追加出費となりました。

 ただし、今年は「国際交流基金 The Japan Foundation の協賛」という肩書を付けて来ましたから、渡航費一人分のみ約二十万円をそこから賄〔まかな〕ってもらっているのですが、これは今年限りにしようと思います。こちらの手続きや事後報告なども大変なのです。

 しかし、これだけの根回しをし、立派な肩書を付けてアヴィニョンにやって来ても、これは警察の言う「許可証」の代わりとしては不足だったようで、今年すでに二日、僕のアントニオ物語の上演は中止させられています。こちらの大臣が、すぐそこでやっているinのお芝居のひとつを見に来るのだそうで、その警備の都合や、またテレビ収録の都合などもあったようです。こういうとき、こちらの大道芸観客は、ものを言いにくい僕の代わりに警官を取り巻いて抗議したり、質問攻めにしたりしてくれるのですが、全身紺色づくめの制服の、ちょっと目には軍人のようなフランス国家警察は、絶対に譲ってくれようとしません。こうして「大臣」のために、フェスティバルのプログラムに広く紹介もされ、事実人々に愛されてもいる演目がついにひとつふいになったわけで、これでは大臣というのが何のためにやって来たのか、本当にフェスティバルのためにやって来たのか……。

 僕がここで本当に問題にしたいのは、しかし大臣のことではありません。〈in〉の演目の多少の都合のためには〈off〉の演目は犠牲にされても構わない、さらに〈out〉の大道芸など知ったことではないという、芸術や芸術家たちを様々にランク付け、選別・差別、ときには排除さえしてしまおうとするものの考え方です。これは、長年アヴィニョンの大道化を愛し、支えて来てくれた、大道芸観客に対する差別でもあります。芸術や芸術家たちに甲乙のレッテルを貼る考え方はもともと芸術の側から出てきた考え方ではなく、「芸術」をタネにして商売をしようとする芸能産業の側から出てきた考え方に違いありません。とくに、巨額のお金を動かすためには、ごく一握りの名高い「芸術家」がいればこと足りるのです。他はあまり重要ではない、ときには邪魔なことさえある。また芸能産業にとっては、チケット代を払って劇場に入場してくる人たち以外は「観客」ではない、「演劇ファン」ではない、演劇が、芸術が万人のものである必要など少しもないのです。芸能産業のこういう要求は、ときに本当に優れた芸術、芸能を寸法の合わない興業の枠〔わく〕の上に放り出し、或いは枠の中に押し込み、一方、観客の方も、こういう興行に対し熱心に拍手をしたり、カーテンコールをしたりするように仕向けられ、躾〔しつ〕けられている向きがあります(大衆操作というのは可能なのです!)。

 僕はこういうものの考え方、感じ方をやめようと決意して大道芸を始め、今もこういう考え方、感じ方と闘いつつ大道芸をやり続けている、実は、そういう経緯があるのです。このことは、ここで中途半端な書き方をしたくない、後ほど書き改めるつもりです。僕が大道芸を始めたわけは? きっかけは? というM君の質問に、改めてお答えしようと思います[第十二章、第十六章、第十七章]。

 とにかく僕はこういう決意ですから、今年offに登録していても、気持ちはoutでい続けようと思っています。例えば他の芸人が僕のやる場所やその周辺でやりたいと言って来れば、時間や場所の割り振りについて、対等な立場で話し合わねばなりません。もともと路上での権利というのは万人に平等にひらかれているべきもので、路上には路上商や似顔絵画家たちもいます、ジプシー音楽家たちや浮浪者たちもたむろします。アヴィニョンの路上をにぎわしているのは大道芸人たちだけではないのです。もちろん、一般歩行者や観光客のことも配慮しなくてはなりません。街頭演劇をやる劇団や、劇場公演をやる劇団の街頭宣伝隊との間でも摩擦が起こりがちです。プログラムに演目・時間・場所が書いてあっても、それとは別に、毎日できるだけ早く現場に赴いて「優先権」のようなものを押さえておく必要も生じます。他の劇団や芸人と話し合い、折り合いがつかなければ、ときには芸と芸とをぶつけ合い、力づくで観客を闘い取らなければならないことも起こります。

 このように、今年のアヴィニョンで、僕はかたちの上ではフェスティバルに正式参加しているように見えますが、実情はoutの大道芸人、フェスティバル部外者とほとんど変わらないのです。ひとくちにフェスティバルといっても、その趣がシャーロンやオーリヤックとはずいぶん違います。フェスティバルのプログラムには『アントニオ物語』の開演時間が書いてありません。上演時間:四十五分間、場所:プチパレ広場 Place du petit palais〔プラス・デュ・プチ・パレ〕、協賛:国際協力基金など、一見体裁が整ってはいますが、肝心の開演時間を決めて、書きこんでしまうと、そのときどきの警察の動き、その他に対応できないのです。もともと僕はoutの大道芸人です。プログラムに開演時間が書いてなくても、自分の観客ぐらい、その都度〔つど〕自力で調達出来なくてはなりません。

 ところで、このアヴィニョン滞在中に、次の年のアヴィニョン以外の様々なフェスティバルの話が持ちかけられます。この場合は大道芸専門のフェスティバルの話で、そして今度こそフェスティバル〈in〉、つまり宿も食事も出演料も全部そろった話です(同じことが、オーリヤックやシャーロンでもあったわけです)。自分たちのフェスティバルに招くに好ましい大道芸人たちを捜しに、フランスの各地から、さらに北はポーランド、スウェーデンから、南はチュニジアから、東はイスラエルやシンガポールなどから、オルガナイザー(フェスティバルの企画者たち)がアヴィニョンに集まって来ているのです。

 しかし、例えばそういう話がひと夏に十本持ちかけられたとしても、帰国後に東京から手紙のやりとり等をして出演交渉をするのが実にたいへんで、僕一人の力では、今までひと夏に二本ぐらいしかまとめることができなかったのです。そういうこともあって、僕の海外での活動は、フェスティバルではなく日常の街頭での大道芸を基本にせざるを得なかったのです。

 収入の内訳、海外の場合です。

 これも、年ごとに参加するフェスティバルの性格、契約などがまちまちなうえ、赴く各国の通貨の価値や物価が異なり単純計算できないので、ごくごく大雑把な数字をあげてみます。

 僕の海外での四ヶ月間の収入のうち、大道芸フェスティバル〈in〉の仕事の出演料収入が【七パーセント】、大道芸フェスティバル〈in〉及び〈off〉での投げ銭収入が【三パーセント】、これと別枠で計算して、アヴィニョン演劇祭(及びその前後)約一ヶ月間の投げ銭収入が【四十パーセント】、残る【五十パーセント】がアメリカとヨーロッパの諸都市の日常の街頭での投げ銭収入、以上です。

《私の経歴、大道芸を始めたわけ、大道芸とは何か 一九九五年・夏 ⑤/十分割》に続く。


〈大道芸人雪竹太郎文庫〉目次、に戻る。
https://note.com/tarafu/n/n6db2a3425e5c

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