大道芸小論
(タウン誌「うえの」No.642 2012年10月号 への寄稿)
注)括弧〔 〕はフリガナの指定。
大道芸『人間美術館』の、「ゲルニカ」の中に仕込〔しこ〕んでおいたキリスト像役の男性を、最後の最後に高く担〔かつ〕ぎあげたとき、ちょうど近くの教会の鐘が鳴り始めるということが、ヨーロッパの街では起こる。 こういう時のヨーロッパ人観客たちの特別な喝采〔かっさい〕を、残念ながら日本の路上で経験することはない。でも例えば、俵屋宗達〔たわらや そうたつ〕 の「風神雷神図」を演じるとき、ちょうど天候が急変し、風が吹き雷が鳴り出すことがあるとしたら…。
これは大道芸の奥義〔おうぎ〕にふれる。
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大道芸は、劇場という抽象的な空間、壁で仕切られた「何もない空間」の中で一から構想、構築される演劇ではない。すでに物や出来事に満ち満ちてしまっている空間、そしてこれから何が起こるかも分からない「豊饒〔ほうじょう〕な空間」に、大道芸人と観客たちが集〔つど〕う。世界と歴史の真〔ま〕っ只〔ただ〕中、自然と宇宙の真っ只中で、そこにその都度の新しい演劇を織りあげようとしている。
この世界をすべて味方につける技法があったらよいと思うのだが…。
ムンクの「叫び」は、台から降りて客を置き、どこか遠景、高所に走り去る。そうして全世界を背景に、全世界の真っ只中に伸び上がるのが定石〔じょうせき〕。坂道の途中。道路の向こうの電話ボックスの上。マンションの階段の踊り場…。
その返り道、「叫び」が通行人の跡〔あと〕つけ(ミーム・ス イヴール)をして見せる。これは、大道芸ならではのクラウン(道化)の技法。跡つけされた子供が振り向き、驚く。幾分〔いくぶん〕あざといやり口。大人が 色を作〔な〕すこともある。やや危険でもある。でも、これらが全部、演劇でもあるのだ。
クラウンの技法とは、演技の概念、演劇の秩序をあえてはみ出す、壊す仕掛〔しか〕け、と定義する。舞台を降りる、演者と客との区別がなくなる、ときに演者と客とが入れ替わる。劇場の外にも飛び出す、世界と演劇、虚構と現実との見境〔みさか〕いがなくなる。クラウンの技法は大道芸の基本の技法、基本の姿勢のひとつでもある。
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本当は、仕掛けではなく、偶然をすべて味方につける技法があったらよいと思う。
『美術館』に風が吹き、枯れ葉が舞い、ときに雲間から陽〔ひ〕が差す。それがまた展示の一部であってもいいではないか。ハトが遊んでいる。彫刻が目をやり、手を差し伸べると、臆病〔おくびょう〕なハトは逃げていく。そのハトがまた作品であってもいいではないか。
鸚鵡〔おうむ〕を連れた散歩客が、悪戯〔いたずら〕に、彫刻 の肩にその鸚鵡を乗せてくれる。扱いに、戸惑う。戸惑いが、そのまま演技であってもいいではないか。この際、散歩客が演出家であってもいいではないか。そこで鸚鵡が科白〔せりふ〕を喋〔しゃべ〕り出してもいいではないか。
台本も、演出も、演技も何もプランがないのを、大道芸の究極の理想と考えてみる。予〔あらかじ〕め何を起こすか分からないし、何が起きるかも分からない。
たぶん、自分たちの身の回りの世界全部に対する十二分の注意力と愛情が、大道芸人にも、そして実は大道芸の観客たちにも求められるのだ。この点で、二十一世紀の東京の、日本の大道芸文化のあり方、成り立ち方に、僕は不満を持つ。
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二十一世紀の東京の大道芸の特徴は、例えば、絶え間ないワイヤレスマイクでのお喋り、また過剰な音楽。専〔もっぱ〕ら周〔まわ〕りの世界を圧倒し、世界を塗りつぶす、かき消す技法。そこで構築される大道芸は、結局、予定調和を理想とする。大道芸の近代演劇への後退。イベント業界で売り買いされるウェルメイドな商品としては都合〔つごう〕 が良いが、もう大道芸である必要、理由がないと思うのだ。
「弥勒菩薩〔みろくぼさつ〕」にお布施〔ふせ〕をくれたお客の背中に、右手で十字を切ってあげる。客の目に入らない演技というのがあってもよいと思う。
(2012年8月27日脱稿)
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