半生記
私、通名キヨシこと、本名吉井清は、1951年2月16日、本州で日本最大の広さを誇る関東平野を東西に流れる、坂東太郎とも呼ばれる利根川の支流の広瀬川が、街の西を南北に流れる、当時人口およそ8万人の群馬県伊勢崎市で、父親政男、母親あき夫妻の長男として生まれた。
生家は、東京都台東区の東武鉄道浅草駅を始発に、埼玉群馬両県を走る、東武伊勢崎線の終着駅と、群馬県高崎市の高崎駅を始発に、栃木県小山市が終着駅の、JR両毛線伊勢崎駅が一体となったイセサキ駅の南に広がる市街地の旧農家を住宅に改造した借家で、家の西側の通りを跨ぐと、本尊阿弥陀如来を祀る遍明山本光寺で、物心ついた頃から、毎月7日の縁日で香具師が仕切る綿飴、焼きそば、金魚ヨーヨー釣り、盆栽・植木、和式ポップコーンの突貫豆売りや、蛇使いの膏薬売りなどの露店が並び、8月には季節限定のお化け屋敷が出現する境内が遊び場だった。
当時我が家の生業は、伊勢崎市の東西南北の周辺に散在する、上州はカカア天下と空っ風と謳われた、冬吹き荒れる乾燥した季節風を防ぐ、竹の防風林を備えた裕福な百姓家が生産する米麦野菜以外で、換金が容易な、シルクの元となる繭から紡がれた絹糸から織られた、地場産業のリーズナブルな伊勢崎銘仙ブランドの絹織物をプロダクトする、祖父が社長の機屋で、父親の政男は、機師回りと呼ばれる、120ccのホンダ・ベンリーで、伊勢崎市周辺に散在する百姓家の繭の買付、繭から絹糸に紡ぐ紡績場、その糸の染色を担当する紺屋などの巡回が仕事だった。