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平川武治のノオトブログ"The LE PLI"  アーカイブー14 ;初稿/2006-05-28 記。

今回は、15年前の2006年5月に行われた、「東京コレクションの速報記」タイトルは、「JFWが主催した『’06~’07A/W 東京コレクション評論』」。

 今日のインデックス;
1)はじめに;<「東・コレ/’06~’07A/W」の”Le Pli”的眼差しは?>
2)「確実に、この東コレも新たな“主役”交代のシーズンを予測させた。」;
3)「東コレを所見してしまった、世界のトップジャーナリストの眼は」;
4)「”東コレ的ブランド”とは?あるいは、”東京デザインとは?”」;
5)「東コレで見る”カワイイ!”の進化とは?」;
6)「東京の路上に花咲く”自由さ”と言う”カワイイ!”が凄い。
   そのリアリティを感じろ!!」;
7)「そんな東京の”路上”を魅力とせず、海外へ飛び出した連中は?」;

1)はじめに;<「東・コレ/’06~’07A/W」の”Le Pli”的眼差しは?>
 一つの東京的ポイントとして、「カワイイ!!」の進化であろうか?
これを思い起こし、考えてみる必要がある、『カワイイ!!』という形容詞が現在のように、これ程までに日本人の日常語、尋常語となったのはいつ頃からだろうと。
 ファッションの世界の目線から思い起こすと、確か、‘92年に宝島社から『CUTE』が創刊。その1,2年前から、コムデギャルソンの”トリコ”が『カワイイ』のパイオニアたちを産み落とし、その後『CUTE』と共にこのような新しさを感じさせ始めた、二十歳前のトウキョウ娘たちへ、”ZUCCA”は時代のボキャブラリーになり始めたこの『カワイイ』をデザインし、ブランド化した。多分、これで『カワイイ』はそれまでの「ゴージャス」というバブりぃーな感嘆詞から完全にカッコいい響きとニュアンスを持った流行語として市民権を持った。そんな『カワイイ』は僕たちの日常生活の気分感を感じ解く、依然重要な『キーワード』なのだと再感する。
 外国で生活していると日本から訪れるその殆どの人たちが唯一、『カワイイ!』だけで殆どの感情表現を済ませていることが不可思議に、奇妙にさえ感じてしまう経験が多い。彼らたちの感情を表現する手段としての言語は”コミュニケーションの時代”なのにその実態としてのコミュニケーション・ボキャブラリーそのものが単一化し始めているという現実。あるいは『言語のユニフォーム化』現象の始まりなのか?
 今シーズンの”LE PLI”の眼差しは、この「『カワイイ』が日本のモードにどの様に影響を与えているのか、また与えられているのか?」、そして「どの様な感情表現のためのボキャブラリーとして使っているのか、又はその時感情は存在しているのか?」という『カワイイ!観』を今シーズンの”東コレ”で感じ、読んでみたい。/”Le Pli” 編集責任:平川武治:

2)「確実に、この東コレも新たな“主役”交代のシーズンを予測させた。」;  
<もう、これ見よがしなノリと派手、悪趣味・オミズ嗜好な、オツム空っぽファッションブランドは“二流”へ!!>

 15年程が過ぎたこの国民的「カワイイ!!」も時代と共に変質変貌し始めた今シーズン。等身大的人間のおおらかさを伸びやかに謳歌し始めた新たな[カワイイ!!]が登場。これは今シーズンの東コレの本質的な新しさの一つでしょう。結論を言ってしまえば、『その大半が、ニュアンスの表現が幼稚で大味な作り手に成り下がってしまった。』具体的には、細部のディーテールのデザイン・バランスが大味で無意味に取って付けた程度のバランスデザインそして、固まりとしてのアイディアに頼った無粋な表現、または成金悪趣味的な所謂、デザイナーたち個人の”お水っぽい”感情表現の日常化が、彼らレベルの美意識(?)での”着せ替え人形ゴッコ”、即ち”それぞれの「バービー人形」化”しただけの表層的なるデザイン・コレクションが大半であった。これは”メディア-ウケ”を狙い、メディアに左右された所でのそれらに対する形容詞がお決まりの全て、『カワイイ!!』語で処理してしまえるまでの、ある種無責任なデザインと観客。いつの間にか、個人の大切な感情表現を「カワイイ」の一言で済ませてしまっている我々、日本人の多くがもしかしたらそれぞれが持ち得た感情のニュアンスを表現出来ずに、又は感じることに億劫さと複雑さそして、無表情さや臆病ささえを持ちえてしまった現代の国民性なのではないだろうか?とまで言えるような疑問をやはり、この”東コレ”のデザイナーたちの発表コレクションからも伺えてしまう。当然なんでも『カワイイ!』環境の基に生活しているのは何も消費者だけではなく、作り手でもあるデザイナーと称される人たちの環境と日常性も同じである。結果、かれら達が『それぞれのバービー人形』での着せ替えゴッコとして表現した今シーズン。そして、幾つかの大きなブロックに分かれてしまった、所詮彼らたちレベルでの『バービー人形』志向の『カワイイ!』観の現われでしかなかった”東コレ”。
 イメージの上塗り作業、CADによって誰でもが作れる(?)美意識の低い過剰意識における成金的な品性なき装飾性の『カワイイ!』と、自己満足によるアイディアだけで先走ってしまったちょっと捻った『カワイイ!』。それに、まるっきり無節操にマーケットのみを意識した日本の上得意であるO.L向けは「デパ・コレ」派『カワイイ!』。そして、流行としてのリメイクものでカッコいいと煽っている『カワイイ!』元ウラ原系から古着屋系まで。
 今後、注目されてくるだろう”ポジティフ・オタク”な、ちょっと文化系な「カワイイ!!」。そんな幾つかの『カワイイ!』を素材にスタイリストが加わって、これを見て下さいと言わんばかりの時代への問題意識たるや希薄なスタイリング・ショーが今シーズンの東コレの結論。結果、”東コレ、9つの原罪”は先シーズンと殆ど変らず、「時代先取り観なし。知的さは殆どなく、アート観なく、エモーション少なく、従って、自由さが感じられず,文化の香りは間違っても感じられず、現実味が無く従って全体が面白味も無く、それでいて上代が高すぎる。」これらの幾つかを既に、"スタンダード"として持ってしまっている"育ち"しか見えなかったメゾンが多かったに過ぎないこのシーズンの「東京コレクション」でした。結果、確実にこの東コレも新たな“主役”交代のシーズンを予測させた結果でもありました。

3)「東コレを所見してしまった、世界のトップジャーナリストの目線とは?」;
 これは今シーズン主催者側が招待してインターナショナル・ヘラルドトレビューン紙の世界のトップファッション記者、スージー・メンケス女史に見てもらったら良い評論を書いてもらえるかもという悲しい性の元、JFWサイドが今シーズンのトリに据えた”ドレスキャンプ”の彼女のレポートに的確に見られたから面白い。この短い文をご紹介しておこう。
「Dress camp's wild show followed in John Galliano's footprints.」
「本物」を見て知ってしまった人、何がモードかを知っている人たちにとっては所詮、”まやかしゴッコはまやかしゴッコ”。これが現在、東コレの世界レベルの眼差しでしょう。彼女も精一杯に旨くそつない単語を使って書いています。”日本メディアが騒ぐ、無理な集客力があるでも、やはりコピーはコピーの世界。”と言うモードを見る彼女の気骨。ジョン・ガリアーノは知的センスと途方も無い自由さの発想力による創造性がスタンダードに在って世界観である。表層を追っかける所謂、日本的オカ•サーファー(時代に乗っかるだけ)或いは、ファッションD.J.レベルでは教養も品ある贅沢さも感じられない、全くの桁違い。『スージーさん、今シーズンはジョン・ガリだったかもしれませんが、先シーズンはヴェルサーチェだといっていたフランス人が居ましたよ。その前にはサン・ローランもやった事が在りますよ!!古い、器用なデザイナーなのでしょうね。』
 この彼女の3月28日付けのインターナショナルヘラルド・トレビューン紙では今までの彼女の経験と関係事実から”一生グループ”のA・ポックとCdGの新人ブランドのTAOを大きく取り上げ、コレクション関係では”YAM YAM”はパトリックがロンドン出身のためもあってだろうか。あとは
”THEATER PRODUCTS”を評論記事的に書いたのみ。さすがにこの英国人モード評論家の冒険心と反骨精神と問題意識を美的に刺激するまでの”東京生まれの東京育ち”東コレ・ブランドは皆無だったのだろうか? (彼女が取り上げたのはいずれも、ロンドン絡み。よく調査している(?)St.Martin校に月謝を収めたデザイナーが選ばれると言うそつの無さと強かさ。)もう、彼女が好きなあのUNDERCOVERがパリコレで見せているレベルの魅力的挑発的反骨精神を持ち備えた後発デザイナーは見つけられなかったのだろう。
バイヤーたちは売れるものを嗅ぎ付けて買うのが仕事だから其れなりの物を探しに何処へでも行くし、来たとしても当たり前。しかし、海外のジャーナリストたちはわざわざ自分たちのコストを使ってまでも”この地へ”、このコレクションを見には来ないであろう。見に来る必然性や興味が、余りにもそして、全てに「Far East」 過ぎるからである。旅費、ホテル代食事代全てを招待されてこれだけのリアクションしかないのが現実の”東コレ”レベル。

4)「”東コレ的ブランド”とは?あるいは、”東京デザインとは?”」;
 <”客入りがいいから、ノリがいい、オミズ系とその筋の芸能人が来る”だけで今シーズンのトリになってしまう”ブランド???。>
 「東コレ的ブランド」とは、客入りがいいから、ノリがいい、オミズ系とその筋の芸能人が来るだけで今シーズンのトリになってしまった”DC” が余計に惨めにも見えてしまう。誘うほうの思惑もそのレベルなら、誘われる方も大いなる勘違いとケチな下心だけでやってしまうまでの、品格の無さはこれも現在の東コレを象徴しているだけ。彼らを大いなる勘違いへ、”豚もおだてられれば木に登る”までに勘違いをさせたのは2年前の『毎日ファッション新人賞』であろう。この年ではこのブランドが貰っていい賞は”モネシャンドン賞”で十分だったはず。自分たちの本業である、プリント素材をプロパガンダする為のある種の不純さとヒネ具合を持ってスタートしたテキスタイルデザイナー、10年来のブランド暦であり既に、其れなりの企業形態になってしまっていたこのブランドはこの”新人賞”受賞後、すぐに三井物産との資本提携をもくろみ見事に成功してしまった、この世界での一つの”サクセスストーリーブランド”と化した。他に、苦労して小さな未企業形態で1枚のカラーコピーも思うままにならないで自分たちの世界観を丁寧に上質に創造しようと励んでいたインテレクチュアルな小規模なブランドも多々あったはずであろうが???ここでは、日本の「ファッションメディア」と称する人種たちの未熟さとでも言おうか、センスのなさしか窺えないお粗末さであろうか。
 例えば、この審査をした女性審査関係者たちは実際にこのD.C.の服を試着して審査をしたのであろうか? 何故かと言うと、このブランドはこの時期まで完全に着る女性たちを美しく見せるための「分量のデザイン」即ち、「バランスをデザイン」する事が殆ど皆無であったはず。このデザイナーの育ちが90年代初めに文化服装のメンズ科を卒業。従って、パターンメイキン
グが出来ない。卒業後、同窓生6人で合同ショーをしている。当時、呼んで貰って行った僕の目では彼の作品は只のスタイリストショーに過ぎなかったのを憶えている。以後、プリントデザイナー、即ち平面CADデザイナーでしかなかったこと。従って、いつもヴィジュアル的な発想でしか服が作れて居なかった。自社のプリント素材とフリルと厚手素材の足し算でバランスを逃げた見た目のデザイン。だから、ショー時がこのブランドレベルの最高表層
イメージの世界。(その多くは芸能人向け御手軽撮影にそのレベルのスタイリストたちが”派手・見栄えする”が故に、使ってメディアうけしただけ。)
 実際に、このデザイナーの服を買って女性が試着すると”品あるバランス”が取れたデザインが出来ていなかった。これが僕の理由である。又、現状ではこの賞、『毎日ファッション新人賞』自体も、今後継続して行くのならその在り方を再考しなければ、余計に、かなりの無理があるだろう。
 ここから確実に、日本の現実の”東コレ・レベル”が「ノリと観客動員数とオミズ的芸能界志向へ。」そう、水の流れと同じように、『高きから、低くきへ流れるまま』になってしまった現実を感じてしまうのは筆者のみか?

5)「東コレで見る”カワイイ!”の進化とは?」;
 最後に結果、ニュアンスのデザインが大雑把になってしまったデザイナーたちや、彼らたちが作りましたと見せる東コレでの新しさは、やはりこの時代になっての[カワイイ!!]が新陳代謝し始めて来ている事である。多分15年程が過ぎたこの[カワイイ!!]も時代と共に変質変貌し始めたのも今シーズンの東コレの本質的な新しさでもあろう。
 ”POTTO”,”mercibeaucoup”,”Ne-net”,”MINTdesigns”それに、
”myein”などがこの「トウキョウ・新・カワイイ!!」ムーブメントの起爆ブランドだろう。彼らたちのデザインの中から読み取れるコードは、[スタンダードが備わった人間としての、自由さ、おおらかさ、それに、ナイーフさも忘れてはいけないし、ユーモア、アイロニーそれに、周りに振り回されないつよい自我と自分たちらしいリアリティとゆとり、それらをポジティフに組み立て構築して行くデザイナーの等身大的知的さとニュアンスでデザインされている、ポジティフ・オタクなコーディネートファッション]である。
 ”TRICO”,”ZUCCA”,”JUNYA”,”TUMORI”,”I.S.”、”TOGA”,”MINA”等の先輩デザイナーたちのルーツがここにあることを忘れてはいけない。

6)「東京の路上に花咲く”自由さ”と言う”カワイイ!”が凄い。そのリアリティを感じろ!!」;
 終わりに、デザイナーと称する人たちによって作られた服が大味になってくれば、路上を闊歩する彼女たち所謂、”年頃の眼差し”、真剣なおしゃれに対する心と自由さのニュアンスが「カワイイ!」着こなしに伺えるのが多分、一番の「トウキョウ・ファッション・リアリティ」であろう。彼女たちは日本発のファッションカタログ誌で毎日毎日学習して来た賜物であろう。また10数年前に初めて、この彼女たちの学習結果を堂々と紙面に組み込み「街・スナ」という造語を生み出すまでの、ストリートでのナマのおしゃれ感度をページ化し編集し紙面化したファッション誌[CUTIE]や、以降のトウキョウ・ファッション・メディアが敢行した独自性の”マチ・スナップ”と称される「功」も忘れてはいけない。街角で出会う、重ね着を一生懸命、上手に自分流にスタイリングしコーディネートして十分に楽しんでいる彼女たちの等身大的リアリティを東コレ・デザイナーたちはどの様に学んでいるのだろうか?実際には、いつも東コレ・デザイナーの先を走っているのが彼女たちの”トウキョウ・リアリティ”でしかない。この現実を読み、学び、謙虚さが見られないデザイナーたちはもう、既に終っているだろう。

7)「そんな東京の”路上”を魅力とせず、海外へ飛び出した連中は?」;
 今シーズン、気が付いたことは海外で好きなファッションを学んだ人たち、帰国デザイナーの幾人かは地味だが、確実な彼らたちの世界の進歩は、今後の日本のモードをどの様に本当の意味での『インターナショナル』なレベルへと進化さすか面白みを持っていた。
 彼らたちはコンセプトが作れる。それを然りとした自分の作品に3Dデザインし、そのコンセプトからのイメージングでインテレクチュアルでよりエモーショナルなプレゼンテーションが出来ていることが彼らの強み。後はどれだけ”着てもらえる服”がデザイン出来るか?
 本来の創造性には”東京的なる芸能界的小さな嘘の上塗り”或いは”まやかし”は不要な世界を目指し、彼ら、例えばアントワープからの瀬尾英樹君(現在、日本人初のA・アライアの所でスタージュ)セントマーチンそして、イェール フエスティバルからの”インダストリアル・カテゴリー”の
横塚和幸君、そして10年住み慣れた巴里より帰国して群馬県の実家でデザイン活動を始め、自分たちのルーツを再確認し始めた、”TAGO”などには気をつけよう。
 <これは『Le Pli 2006春号』より抜粋。今回のLe Pliは5月末発売予定。各メゾンのコレクション時評は本誌でお楽しみください。>
文責;平川武治:
初稿/2006-05-28記/一部追記/2021-01:

#東コレ現状 #カワイイの進化#辛口評論#平川武治#taque#LE PLI

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