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『瀬尾英樹くんが夭折した。 其の参。 "知覚のノスタルジアノオト-瀬尾英樹の作品を感じる前に、彼を想うために知って欲しい事”−3。』
文責/ 平川武治:
初稿/ 2024年09月21日:
写真/ At Mali by Taque.:
「現実を書くことだ。そして、叶わぬ理想を妄想しよう。」
<其の参>
「彼もまた、”生まれも、育ちも隠されたファッション・ディレクター”としてのPieter Mulier」
新たなファッション界に必要な"寵児"として、"師匠"のラフくん同様に、見事にその役割を
果たしたとってもお利口さんのピーターくん。
もう、再び現れない見事なモード・マジシャンであった現代モード界のマニエストロ、Azzedine Alaïaが創作し、生み残した遺産である、彼のアーカイブがすべて使える立場を
与えて貰って、初めての"独り舞台"で”仕事”をし始めた、”生も育ち、”もラフくんから
離れられない、「ファッション・DJ」としてセンスの良いお利口さんが僕の彼の認識である。
そのPieter MulierはRaf Jan Simonsの初代ブランド「Raf Simons/ラフ・シモンズ」の
立ち上げコレクションになった、’95年A/Wからこの世界に”見様見真似”で加わっていた。
それまではラフ君と同様、デザイン学校中退のアントワープのストリートボーイだった。
その後、この”ラフ・シモンズ”オリジナルブランドは在庫過多によってラフくん自身が
自分のブランドを一旦休止した。
思い出すのは、この時期に僕は一度、ラフくんに友人の”エド・ツワキ”が東京で手掛けて
いたメンズブランド”nakEd bunch”とのコラボレーションでT-シャツのデザイン依頼をした。
そして、僕が彼と再会したのは2003年のスイス・テキスタイル主催の”GWAND”コンテストで審査委員長をした時だった。この時、既に彼、ラフくんは自分のブランドが潰れそうだと
いう実情の”泣き”をやはり、審査をしていたiDマガジンに話していた事も覚えている。
そして、2005年からの"ジル・サンダー"への初めての"就職。
当然、ウイーン工科大学のファッション科の先生をしていたラフくんは優秀な先生たちと
チームを組み勿論、”二人三脚”だったPieter Mulierもミラノへ行くことになり以後、彼ら二人はファッションメディアによって承知の”ビッグメゾン・クルージング”が始まった。
「同じ、アントワープをその発端にしている二人。」
2001年に瀬尾英樹はアントワープ王立学校に入学し、2004年に卒業。
この時、彼はAzzedine AlaïaとCarla Sozzaniに初めて出会った。
従って、瀬尾英樹がアカデミー在学中の2004年までは同じ小さな田舎町、アントワープにPieter Mulierも居た。
人生の不平等さあるいは、不条理はここにも在った。
瀬尾英樹は、京都市立芸術大学のグラフィック科を卒業し更に、アントワープ王立大学の
ファッション科を首席で卒業し18年間、”メゾン Azzedine Alaïa"でファーストアシスタントを務め、享年49歳で夭折した。
Pieter Mulierはストリート・ボーイ時代のラフ・シモンズとの友情の絆の結果として、「Azzedine亡き"メゾン Azzedine Alaïa"」のファッション・ディレクターとして2021年に
起用されやっと、独り立ちデビューが果たせた。
「”親父/パパ”だったAzzedine Alaïaさんが呼び込んだのかも知れない。」
実際、”コロナ禍”の3年半ほどを僕は、全く瀬尾くんへ不義理をしてしまっていました。
彼らの幾つかの悩みと苦悩を僕なりに知り尽くしていたので当時、自由に動けない僕は
それらを彼らたち自身へ委ねて、少し距離を取ってしまっていたためでした。
それに、僕は彼が"舌癌"を患ってしまわれていたことを知らなかったことも、
この僕の身勝手さと浅はかさに悔やみと寂しさに苛まされたこの半年でした。
彼の迷いや悩みをたくさん伺った僕が結局は何も出来なかったという後悔ばかりですが、
しかし、思いも寄らない事故が原因で先に旅立って逝かれた”パパ” だった、Alaïaさんは
自分の死後の「モシ、モシ」にも十分に気遣って、この様な彼の現実の苦悩と迷いを深く、
読み尽くしていらっしゃたのではないだろうか(?)
「”モシ、モシ”、もうそろそろ、僕のそばに来ないかい?」と
”パパ”Alaïaさんの声が"HIDAKI"に届き、聞こえたのだろう。
きっと、あちらの世界で二人のチャーミングな笑顔が重なり「あ・うんの呼吸」で
ワインを飲み交わしながら、手仕事を愉しんでいらっしゃるのだろう。
「最後に、惨めに感じたこと、来なくてはならないそれなりの後輩たちの顔は皆無だった。」
ある時期の、”アントワープ校”の後輩たちのアントワープで瀬尾くんにお世話になった
それなりの輩を知っていますが、彼らたちは福山での瀬尾くんの葬儀式には
誰一人の参列がなかった、どうしてだったのか?
彼らたちが帰国後の日本のメディアに擦り寄っての「なりすまし」状況を知れば、
「一時が万事」あるいは、その彼らたちの実ビジネスを見れば、所詮「一目瞭然」、
出身学校名が必ず入った「コピ・ペ+OEM+パクリ」の”上書きコレクション”でしかなく、
この”ブランド校”を限りなく利用して、”御用メディ”へ立ち回りよく虚飾、虚言によって、
「なりすましデザイナー」と化した、人格品性亡き”自己肯定タイプ”の輩たちが蠢く世界の
住民になりすましている。
故に、「僕はブランドデザイナーにはなりたくありません。」と18年前に既に、見抜き、
感じ取り、自らの立ち居場所を告げていた瀬尾英樹君。
「本当に大好きだったAlaïaさんの元で、おおらかに伸びやかに瀬尾くんらしく
どうか、Alaïaさんと素晴らしい笑顔あふれる世界を創造してください。
そして、ご一緒におおらかにご成仏ください。
ありがとう、いい旅を!瀬尾英樹くん。
ありがとう、瀬尾美希さま。」
合掌。
<完>
文責/ 平川武治。
初稿/ 2024年09月21日。
参考サイト/