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わたしは分断を許さない、を観てきた話

友人と映画を観てきた。
堀潤さんの「わたしは分断を許さない」。

観たのは3月上旬。
内容が、濃厚すぎて、全然消化できなくて、今もまだ言葉にできない。
でも、できないなりに吐き出してみる。

『わたし』は誰?

私は分断を許さない。
いろいろと引っ掻いてくるタイトル。
この映画の冒頭では、
「大きな主語をやめよう」「もっと主語を小さくしよう」
という言葉が何度か発せられている。
だから、最小の主語、『わたし』がタイトルにもなっている。

と思っていたのだけれど。

でも、この映画ではたくさんの『わたし』が出てくる。

去年の香港の騒乱。
震災後の福島。
中東各国の紛争。
沖縄の基地問題。

イデオロギーや国家を背負うことなく、それぞれの視点で語られる『わたし』が何度も何度もシーンを変えて、シチュエーションを変えて映し出される。

だから、観ているうちに、迷子になる。

映画のタイトルになっている、『わたし』は誰のこと?


分断を起こしているのは?

香港で、福島で、中東で、沖縄で、たくさんの分断が映し出される。
国家を背負う警官と自由を謳う国民。
福島に今もいる人々と、離れざるを得なかった人々と。
紛争で多くを失った子ども、奪う大人。
国防を掲げる人と、侵犯だと声を挙げる人。

主語が大きくなればなるほど、不透明になっていく個人が映し出されるように、私には見えていた。
そうしてある瞬間ふいに、
「でも、自分が対峙している相手もまた自分と同じ『個』だ」
ということが分かることで、分断が浮き彫りにされる。

分断に対峙して向かい合う私もあなたも、どちらも『わたし』のはずなのに、主語が大きくなると、見えなくなる『わたし』。

見えないから、分断が起きるのか。
知らないから、分断に繋がるのか。
なら、偏った情報が、分断を起こしている?

そういうこと??
いや、なんか違うような…


大きくなる主語と、見えなくなる『わたし』

偏った情報は、確かに分断の引き金になると思う。
特に、日本という国ではマスメディアの偏向報道なるものが取りざたされて久しい。
でも、じゃあ分断は、マスメディアのせいなの?
マスメディアが悪い、という表現もまた、大きな主語じゃない?
報道や情報番組制作に関わる人たちだって、その立ち位置は様々だ。
これも結局、『わたし』が見えない言葉。

主語が大きくなるほど『わたし』が見えなくなると、どうなる?
相手の実像が見えなくなるのかな。
実像が見えないなら、良くも悪くも対峙した相手を一個人として見なくていい。
一個人として見なくていいから、躊躇なく傷つけることができる?

じゃあ、分断を引き起こしているのは、大きすぎる主語?

だから、主語を小さくしようって、何度も口にしていたのかな。


主語は小さく、対話をしよう。

何かを話す時に、国家だとか、イデオロギーとか、そういう大きなものを背負って話をするのは快感かもしれない。
でもそれって、結局「あなたは」「わたしは」どう思ってるの?が置き去りになるのだと思う。

だとしたら、主語は小さく、『わたし』という個人でお話ししようよ。
対話しようよ。

そういうことなのかな、と鑑賞から1か月経って思うなど。






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