「でも『けいおん』って実写版だったらむっちゃブスやで」という視点
大学生の頃に友人から告げられた衝撃の視座からくるアニメ解釈だった。アニメとは描写されないオリジナルが存在し、スクリーンに京都アニメーションが描写するそれは今で言う「インスタ映え」的な盛りに盛ったものを鑑賞しているに過ぎないというものである。それまで俺は作画こそが真実だと思っていたが、その背後には陰鬱なオリジナル素体が存在し、我々の眼下にはショーアップされた姿として投影されていたのである。
そう考えるとけいおんのメンバーがリアルな貴方の最寄りのブスに置き換えて見えるようになってしまった。確かにこんなに浮きまくっている軽音部がまともなビジュアルな訳がない。あの学校自体ほぼ平均的な美が向上されているだけなのである。こういった作品というのは基本誇張表現であり、リアルなオリジネーターが控えているのをメイクアップして切り取ったにすぎないという視点は今でも取れない。
唯は完全に主人公補正で美化されてるし、りっちゃんが実は1番現実化したときまともで後のメンバーは本当にヤバいみたいな解釈が何故か自分の周りでは定説だった。
特に現代学生もののアニメは特にその傾向が強く見えてしまう。氷菓なんてあの古典部のメンツなんて結構顔だけ考えたらヤバい方だと思えてしまう。途中で女帝みたいなポテンシャル高めのサブキャラが一瞬出てくるが、作画からしても相当ビジュアルだけは醜いのでは?と疑問が浮かぶぐらいだった。このメタ的な読みを前提にこの当時はアニメを楽しんでいたと思う。
たまこまーけっとは基本低所得だとか、変な偏見や裏設定を見出し、いかにそこを隠し描写されているかという無粋な遊びであった。確かにアニメーションのキャラクターというのはなんと言うかノリが根本的に共有できないのだ。もっと洋画の翻訳ぐらいの感じでいいのに、アニメアニメしい仕草や口調になってしまうのはジジイになっても何処かこそばゆいものを感じてしまうだろう。だから何か裏に直接描写されない真実(十字架)を背負わせることにより、現実から乖離した表現に説得性を立証しているのかもしれない。
凄い変な事を言っているようだが、俺はアニメや漫画のキャラは見えないもののオリジナルなイデアが存在していると思っている。ドラえもんは居るのだ。なんで藤子不二雄が書いたドラえもんは「藤子不二雄版」として解釈しているし、アニメのドラえもんも「アニメ版」として認識している。
実写化と原作という関係性の前に、イデアと描写という感覚である。ドラえもんはみんなの頭の中にいて藤子不二雄があの作画でキャッチアップしたに過ぎないのだ。だからあのドラえもんは美化というか彼の解釈版に過ぎないみたいな感覚である。
この感覚に1番近い表現をしているのが寄生獣の夢の中のミギーである。こう言う事を言いたかったんだと見事に描写してくれる。
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