折り返しじゃなくて、中間地点のわたし|42歳 人材育成職
そろそろ章が変わる時だなと思っている。
そう思うようになったのは、数年前から。いつかは帰ろう、と思っていたそのいつかは、私が動かないことには少しも近づいてこないと気付いたから。
英語を生活言語として使い始めて、15年になる今年。気付いたら42歳。何をしてもしなくても、誰と過ごしても過ごさなくても、寝ても寝なくても、笑っても笑わなくても、毎年確実に月日は過ぎて行って、私も家族も誰もが平等に、分け隔てなく年齢を重ねていく。小学生になった娘の縄跳びが連続100回を超えたと思えば、日本の両親は団地の階段の上り下りがそろそろきつくなってきたのよと言っている。出来ることが増える一方で、出来ないことも増えていく。抗えない自然の変化を感じるたびに、いつもどこか遠くに浮遊してた事実が、特にこの数年で、現実としてずしんと足元に落ちてきた。
月日は淡々と過ぎていく。
じゃあどうする?このままでいい?どうしたい?
家族を連れて、日本に帰ろう。
* * * * * *
20代だった時。たまたま留学中だったニューヨークで911を経験し、一瞬にして愛国主義とともに、他の人間に対しての憎悪が吹き出すところを体感した。イラク戦争が始まって、毎日流れる非人道的な画像に苦しくなって、理解し合えない人間の様子を見て心が痛んだ。日本に永住する外国人の友人たちが、居心地の悪い経験をしたり、自覚のない差別的発言や行動を受ける事実に憤りを感じていた。いろいろなことが無視できなくて、抱え込んでいった。私には、何ができるの?
一日を振り返る通勤電車の中、日本でもっと多様な人たちが共存できる優しい社会を作りたいと、心底思った。だけど、自分には知識も経験もまだまだ。そう思った私は当時の仕事を退職して、アメリカに勉強しに行くことにした。自分の出来ることはその後に見えてくるはずだから、とりあえず行ってみようと思った。
優しい社会を。それぞれの持ち味が生かされる日本の社会を。
その思いはアメリカに来た15年前から、何一つ変わっていない。
むしろその想いがあったからこそ、成長の機会を見つけては飛び込み、学位を取り、NPOや教育機関で仕事をし、資格を取って、少しずつ経験をためてきた。自分の道具箱に、いろいろな物が揃ってきた感覚がある。それは20代の時にはなかったもの。そろそろ準備はできてきたのかもしれない。ここで出来ることは、十分にやれた感覚がある。
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そして、私には日本に老齢の両親がいる。
9歳年上の姉がいる私の両親は、まわりの友達の両親より軽く一世代は年上だった。小学校の時、当時の校長先生が自分の父よりも若くて驚いた。と同時に、自分の家庭が他と違うことにはじめて気づいた。家庭内でのルールや読む本、食事、しつけや門限など、周りとかなり違っていたと思う。だけどとても良く育ててくれた、そんな両親という二人の人間に、私は心から感謝している。
突然海を渡っていってしまった娘に、毎月日本の食料や本、生活用品を送り続けてくれた。子供が生まれると、日本製ならではの便利な子育てグッズや、仕事に育児にと、毎日生きるのが精いっぱいな私に「気分転換しないと大変だからね」と言って、馴染みの雑誌やお茶菓子がぎっしり詰められて送られてきた。今まで本当にサポートしかしてもらってきていない、その両親に恩返しがしたい。そんなことを考えたり、ここに書くだけで、積もり積もった感謝からなのか、まだ頼りない自分の至らなさからなのか、自分も親になって涙腺が緩んだせいなのか、なぜだか涙が出てくる。
* * * * * *
数年後の今頃は、アメリカ出身の夫と娘と、東京西部の実家近くの古い団地に住んでるかもなあと思う。今住んでいる緑に囲まれた、暖炉のある一軒家の暮らしはとっても素敵。でも、古い住宅地にある団地暮らしを考えると私はわくわくする。華やかではないけれど、今の自分の家族と共に、日本の家族の近くで暮らし、お互い買い物を分け合ったり、どこどこのお店が新しくなったとか、あそこのパンが美味しいとか話している。娘はじじとばばとの時間を楽しみ、たまの週末には両親と姉を誘い、一緒に家族全員で食卓を囲む。私の仕事はもらうか自分で作るかしながら、社会における自分の役割を果たそうと頑張っている。
素朴な生活だけど、ルーツに戻る安心感。土地に根付くアイデンティティの再確認。そして、自分の家族と日本に住むという、新鮮で冒険的な感覚。
そう考えながらも「せっかくアメリカに住んでるのに」とか「家まで建てたのに」とか「日本に帰ってもしょうがないよ」っていう、誰ともない声が頭の中に響いてくる。
だけど、だけど。
自分にとって大切なもの、幸せになる材料は、他人が思うそれとはまったく違っていて、自分を知れば知るほどに、そこに対して無視はできなくなる。私は私の大切なものに正直でいたいし、見て見ないふりをして生きていくことを選びたくない。アメリカに来て、自分と対峙することが増えたからこそ気付いたこと。
だから、素直に従って生きようと思う。
日本に自分を引き戻してくれる安定した職が待ってるわけでもない。アメリカ育ちの家族を連れて行くからこそ、日本がルーツの私が主導で生活を引っ張っていかないと、という責任感は山盛り。だけど、気持ちは変わらない。
そして私にとっては日本に「帰る」だけど、夫と娘にとっては日本に「行く」ことになる、そんなことになるにも関わらず、私のこの気持ちを全面サポートしてくれる家族も本当にすごいと思う。彼らはかなり勇気ある冒険家だ。
* * * * * *
先日、同い年の友達に私はこう言っていた。
「まあ、こんなもんかなあっていうところで、落ち着きたくないんだよね。」
子供の頃40代っていったら、レンガのようなしっかりした確実なものにしっかり固められて安定しているっていうイメージだった。でも、実際の私はまだまだ変化と冒険の人生。住む場所だって変えたいし、仕事だってもっと広げたいし、何なら子育てが落ち着いたら、今度は違う大陸に留学したいって本気で思ってる。人生の折り返し地点に来てるというより、中間地点にいるという感覚。
安定って書かれているドアを横目でちょっと羨ましく眺めながらも、本能的に変化っていうドアを選んで進んできた。私の人生はそういう感じ。安定の反対語は不安定でなくて変化。今までも、これからも。
はっきり言って具体的な近い将来ってほとんど見えない。でも夢も、描いてるビジョンもたくさんある。変化や冒険の道を選ぶと必ずついてくる不安感。だからこそ仲間が必要。何度も子どもに読み聞かせした桃太郎だって、私の大好きなオズの魔法使いだって、冒険には仲間がつきものだって教えてくれた。だからTapestoryをやってるのだと思う。
分からないことも見えないことも山積みだけど、でも手元にある大切にしたいことさえ握ってたら、その不透明さも何とかなるさ、って思えてくる。濃い霧だって遠くから見たら全然向こう側が見えないけれど、足を踏み入れてみると意外に見通しは悪くなかったりする。
だから、いまは見えてるところだけを見ながら、大切なものを抱えて一歩ずつ進んでいこうと思う。いつかは自分次第で、いつかじゃなくなるから。
まだまだ、これからよ。
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