現世利益について(4)阿弥陀様に見つめられ、己をみつめる。実は結構厳しい教え。
南無阿弥陀仏をとなえたからって交換条件で利益が得られるか、そういうことじゃない(そう読み違える人は多いですが)。
たとえ私が望もうが望むまいが、阿弥陀様は全ての人を救わんとして、御自ら私に利益をもたらしてくださる。食事がおぼつかない子供の口に、親が食べさせてあげるように。
「この私の名(南無阿弥陀仏)をたとえ10回でも称えてくれたら、私はあなたを救わずにおかぬぞ」というのが、阿弥陀様の立てた四十八の願いの中の第十八番目、
第十八願という一番重要な誓いです。
「称える」すら方便であって、実態は「とにかく阿弥陀様の事を心において願い行ってくれ」という事です。「口に出して称える」が条件であったならば、失語症の方は救われないのかという事になりますからね。
話を戻しますが、実はこれ 私はとても厳しい教えだと味わうことです。
先程の例えで言うと、体に良いものも食べさせてくれます。子供が野菜嫌だーとわがままを言っても、子供にギャン泣きされようと、親心ゆえに、子供のために。
お念仏は、阿弥陀様に守られている自分と向き合うって事なんですよ。
お仏壇の前には、阿弥陀様にみつめられている自分がいる。
自分を見つめられる、つまり擬似的に自分をみつめることで、自分の中のくらいものが様々明らかにされていくのです。
自分の嫌なところを誰よりも解っているのは、他ならぬ自分自身ですからね。
自分のくらい部分に自己嫌悪に陥る、ピーマンのような苦味。
自分を振り返った時、鏡で見た時「俺かっけー!美しい!」なんて一言目に出てくる人、います?
いたとしたら、それはちょっとどうかしている。ナルシストですよ。
本気でそう思ってる人は、自己肯定感が高すぎるんじゃないかな、、、
自分の暗い部分が明らかになるということは、改善点って目標、希望が見つかったってことでもあります。
見つかったなら、補う努力をしたらいいんじゃないですかね。
でも自分で努力しても、なかなか一朝一夕では補えないものだけど。
「わかっちゃいるけどやめられない」。その人の素質にもよるでしょうが、変わろうとしても変われない、どうしようもない私の欠落。そんな救いがたい私をも、阿弥陀様はみつめて救わずにおれない、ありがたい仏様なのです。
そこで、自分という存在は、その足りない部分を多くの方に補ってもらって、助けてもらって生きていることが明らかになる。
悩みは自分ひとりで抱え込まず、誰かに相談することです。