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内から湧き出る感動。

大阪に遊びに行った時のこと。

目の前に映る街並み。

パッとその情景を見たときに、心が揺さぶられた。
私の中で、感動している。
字の如く、感情が動いている。

側から見れば
ただの街並みに過ぎなず、日常では過ぎ去る一面なのかしれない。

なぜ心が動いているのだろう。

今、この瞬間に自身が感じているモノは何に対してなのだ。

新しい、初めてみる情景。
新鮮味を感じいるからだろうか。

都市という街並みに圧倒されているからだろうか。

真夏を感じさせる暑さと照りつける太陽の明るさ、爽快さを感じさせる青空に自然が生み出すものと街という人工物が上手く融合しているからだろうか。

記録に残したくて、スマホで写真を撮る。

見返すも…。

違う…!

今、自分が目の前で感じている感動が
写した画面上には無い。
無機質と感じる。

生を感じないっと言ったらいいのだろうか。

どう表現すればいいのだろう。

単純な言い方かも知れないけれど。

私は目に写っている情景が、

とにかく、ただただ美しいと感じている。

美しいだけなのだけど。
多くの意味合いを持ち合わせている。

想像なのか、妄想なのか。

私という人生、周りとの繋がり。
大切な仲間たちとの繋がりを持たせてもらい、仲間たちの物語(ナラティブ)を知り得てから見ている目の前の情景。

物語からの文脈を介して、私が感じているモノ。

ヴィクトール・E・フランクルの
「夜と霧」を思い出す。

想像を絶する強制収容所の日々の中で、

わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに_あるいはだからこそ_何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了された。
中略
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、誰かが言った。

「世界はどうしてこんなに美しんだ!」

ヴィクトール・E・フランクル
「夜と霧」


自分の人生と著者の人生とは雲泥の差があって、同じ様な取り扱いをしてはいけないのだけど。

私にとって、今を感じている瞬間は、
私が内から湧き出ている感動は、紛れもなく心を奪われていたのだ。

心踊る高揚感。
高揚ではあるが落ち着かせる安心感もある。

あー、私は大丈夫。
自分で自分を認めてあげる感じなのかな。

この内から感じる感覚は
以前から大事にしたいと思っている感覚。

何故なら
私が私でいられる感覚でもある。

他者に対しての尊敬や感謝への想いを紡ぐ感覚を担う部分でもあると私は思っている。

一瞬に感じる尊さ、今、その時にしかない生(せい)への奇跡を感じ、受け取ってしまった贈与を関わる人たちに送ることができればと願えれるのかも知れない。

そして、
理不尽なことが自身に起きたとしても、腐らず、驕らず、今の世界を愚直に正直に生きせてもらえるのだろう。

最後まで読んで頂きありがとうございます🙏💖

今日も関わらせて貰えた皆様に感謝です🙏✨

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