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普通以外は規格外?

世の中に「普通」と言われることは多々ある。
でも、その「普通」、、、
自分には「普通」と思えないことがある。
そう感じた時点で私は「普通」ではない規格外なのだろうか。
「普通」とは一体なんだろうか?
すんなり「普通」と思える人もいて当然と言うことは逆に「普通」と思えない人間がいるのもまた「普通」ではないのだろうか?
なかなか理解されにくい考え方を持った人間は全て規格外なのか?
こんなことを考える自分についてまずは書いてみよう。
万人受けしないことはよく理解している。。。



何者?

まずは、私がどんな人間なのか知るための自己紹介は、もう一つのマガジンに以前書いたものがあるのでそれも合わせて読んでいただきそこに書かれていないその後のことや補足的なものを書こうと思う。
以前、書いたものは会社員を辞めた直前に書いていたのでその後のこと、現在のことを書いていく。
会社員を辞めてすぐ中国へ行き帰国したらコロナウイルス騒ぎになってしまった。
このコロナ禍で会社員を辞めてこの規格外?のような人間は一体どのように過ごしていたのかを書いていく。


2019年12月会社員を辞めて中国へ

私は、2019年11月に会社員を辞めた。
翌月12月に中国へ行った。
まずは、河北省の友達に会いに行った。
河北省の友達との出会いのきっかけは言わば出会い系アプリ。
もう1つのマガジンを見ていただければ分かる通り私のお得意分野である。
参考までに貼っておきます。

河北省の友達は、エンタメの仕事やCCTV(中国中央電視台)の映像制作の仕事などをしており私の前職と同じ業界だったことから話が盛り上がった。
彼はいつも日本のアーティストのライブを中国でやりたいと熱望していたのでそれなら協力できると話していた。
また、中国のアーティストや文化人の公演を日本で行いたいと言っていたこともありそれは私も興味があったのでその辺りも協力できると話をしていた。
そんな訳で実際に会ってみないと事も進まないってことで会社員を辞めてすぐに河北省へ向かった。
彼とは、1度、夏に北京へ行った時に河北省から北京まで来てくれて一緒に万里の長城まで行ったことがあるので今回が2回目。
初の河北省は、距離感が全然分からなかったけど北京首都国際空港まで彼の友達が迎えに来てくれた。(本人は仕事で来れず代わりに友達が来たってこと)
こんな感じわざわざプレートまで作って出迎えてくれたので嬉しい。

一生懸命日本語変換してくれたんだろう

空港まで車で来てくれたのでてっきり近いものなのかと思ったら全然遠くて車で6時間?もっとかな?とにかくめっちゃかかった!!
中国は広いので車で長時間の移動はとかは平気ですることをこの時に身を持って経験した。
北京首都国際空港付近は大渋滞でまずここを抜けるのに1時間はかかった?
こんなにかかると思っていなかったので疲労困憊って感じだったけど彼らは往復でわざわざ迎えに来てくれたので本当にありがたい。

石家荘市にようやく来た時


ちなみに帰りは新幹線を使用して北京まで戻ったが、車より遥かに早くて驚いたのであった。
到着したのがもう深夜だったけど中国は深夜営業している飲食店も多いので火鍋をみんなで食べた。

日本にも支店がある海底撈火鍋

ホテルは、友達がインターコンチネンタルホテル手配してくれてありがたかった。

一人には十分すぎる広さ

なぜ、ここ石家荘まで来たかと言うとここが彼の地元でありここで今回、中国でとても人気がある相声をする人達(日本で言う漫才みたいなもの)の公演があるのでぜひ見に来て欲しいと言われた。
この相声は、中国伝統的な話芸で話芸によって観客を笑わせると言うもので中国ではかなり人気が高くその中でもトップクラスの人達の公演の仕切りを友達がやっていた。
友達は、この相声の日本公演がしたいとのことでまずは観に来て欲しいとのことだった。
相声は、中国語と言っても中国語のレッスンなどで習うような中国語とは違いスラング的なものだったりもあり外国人にとっては聴き取るのは難解。
中国人でも理解できない人もいるくらい。
そもそも私は、リスニングもろくにできないので終始内容は分からなかったけど人気が高いとか熱量の凄みは感じた。
最後に楽屋に連れて行ってもらって一番人気の人達と写真撮影してもらったけど出待ちとかもいてアイドルみたいな存在だった。

貴重な経験をさせてもらってこれを持ち帰って日本で公演する準備をする気満々で帰国したがすぐにコロナウィルス騒ぎになった。
中国でマスク不足だとニュースが流れてその頃は、中国の友達に日本から送ろうか?なんて呑気にチャットしていたがすぐに日本にも影響がきて一気に日本でもマスク不足になってしまった。
年が明けて2020年になっても収まる気配がなく、中国と仕事をするぞと思っていたことがパーになり更にコロナ禍で無職。。。
そんな時に映像制作をしていた前職で付き合いのあった人から手伝って欲しいとタイミングよく声がかかり映像制作のプロデューサーをフリーランスとしてやることになった。

2020年コロナ禍でも大忙し

コロナ禍になりZoomでリモートワークが可能となりわざわざ東京まで通勤の必要がなくなったのは正直、本当に良かった。
(会社員時代に毎日、長時間通勤をしていたのでこの通勤時間ってなくなればいいのにとずっと思っていたのである意味現実化した。)
そして、映像制作(Youtube)やライブ配信と行った需要が一気に増えた。
テレビ制作の話も入りコロナ禍でもありがたいことに仕事が沢山ありむしろ全国に撮影で向かうと言う外出禁止とか言っていられない世間とは真逆の生活となった。
お陰で空いている各地観光地を満喫できたのは良かった。


この大忙しの背景には、会社と言う組織で動いてしまうと万が一感染者やクラスターを出してしまった場合に世間から一斉に叩かれると言う風潮だったので逆に業務委託など私のようにフリーの外部の人間に現場を任せてしまえと言う流れもあった。(大切な社員は犠牲にできないので外部の人間を使い捨てのコマのような扱う感じ)
良くも悪くも常に最前線に立たされて撮影では、今までと違い感染対策だったりが導入され一筋縄ではいかない撮影現場も多々あった。
これも今となっては、色々な経験として必要なプロセスだったのだと思える。
少し脱線するが、この年は仕事で福岡に数回行く機会があった中でコロナ禍と言えどもありがたいことに友達がたくさんできた!
大人になってからも友達ができるってのは嬉しい。(万人受けしない自分を受け入れてくれるのはありがたい)
福岡で出会った友達とこの年の年末に長崎で合流して一緒に旅行する機会を作った。(コロナ禍とは思えないほどあちこちへ行きまくっていた)
軍艦島にもちゃっかり上陸を果たす。

長崎で福岡の友達と行動したのは1日だけであとは一人で過ごした。
長崎でたまたま入った美味しいおでん屋さんにまた行きたいと思い最終日の夜にまた一人で行ってみた。
そのお店は人気店でいつも満席なんだけどタイミングよくカウンターに1席だけ空きがあり座ることができた。

その時、たまたま隣に座ることになったのが神戸で塗料の卸会社をする社長さんだった。
なんの仕事しているのか?と聞かれて映像制作とかメディア系の仕事ですとざくり話てフリーランスになってから作ったちょっとふざけた名刺ではあるけどそれを渡した。
これが後々、仕事に発展するとは思っていなかった。

2021年縁切りと新たなスタート

無職の私に声をかけてくれて仕事をくれたことについては非常に感謝はしていたが、一緒に仕事をしていく上で許せないことが多々続き、自分の大切な人脈まで悪い影響が及びそうだったのでついにはブチギレてしまった。
お金の面なども疑問に思うことが多くこうなるともう一緒に仕事ができな状態にまで関係性が悪化してしまい年明け1月までの仕事が終わったら縁を切ろうと決めていた。
そのタイミングでまた別の映像制作の仕事の相談が丁度良く入ってきた。
なので2月からの仕事も見つかり1月まで抱えていた仕事が終わった段階で2020年に関わっていた人物とは完全に縁を切りLINEやSNSもブロックまでするくらい心底嫌いになって2020年の仕事をやり切った。
2月からは、以前転職活動でお世話になった会社の自社案件の業務委託をすることになった。
この会社は、2019年に会社員を辞める際に少し転職活動をしたときにお世話になったエージェント。
映像業界の人材派遣などの老舗の会社で2019年の時は、結局イマイチいい会社に巡り会えず転職活動もやめてフリーになりますと告げてから連絡を取っていなかった。
たまたま別の映像制作派遣のサイトに登録してみたらそのサイトもその会社が運営しているサイトだったらしく丁度、新たに立ち上げるプロジェクトで私のような人材を探していたのでと声をかけてくれてた。
面白い縁だ。そして、このナイスタイミング!
私は、やっぱり昔から持ってるなと思ったのである。
新たに立ち上げたプロジェクトも地方企業の撮影がちょこちょこ入ってくる仕事だったり他にも某ニュースメディアのライブ配信や映像制作の仕事だった。

最初の地方出張は徳島

映像制作の仕事は好きだし楽しかった。
早朝、深夜など時間関係なく仕事をすることも多々ある業界だけど好きだから全然苦とは思わず続けていた。
もう一つ、2月に長崎で出会った塗料の社長さんから仕事の相談があると連
絡が入った!
3月に打ち合わせすることになりそれからWeb、SNS運用コンサルなどでお手伝いすることになった。
この頃は、まだWebやSNSのからの集客のイメージがないようなのでじっくり育てていくような動きから始まったので大きな動きはなく細々とやっていた内容だった。
そんな訳で映像制作の仕事とコンサルの仕事をすることになったのが2021年だった。

少々長くなったので昨年2022年から現在までは次の記事にしようと思う。


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