オホーツク・北海道の記憶から #211
オホーツクからメッセージをいただいて。
1度だけ行ったことがあったはず…と記憶を手繰り寄せてみると・・・
2000年の夏。
両親と当時小学生だった我が子と行った最後の家族旅行でした。
父が作ったアルバムが残っていました。
以前書いた記事「私が空を見上げるようになったのは…」
この時のきっかけとなる出来事があった、介護の仕事をしていた頃のことでした。だから、たぶんまだ意識して、空を見上げてはいなかったように思います。残念💦
アルバムを繰っていると、、、
これが、父の、ひとつの愛…だったんだな~と振り返ります。
旅行の費用は、いつも両親持ち。
私がひとりでは、子供たちを旅行へ連れていくのは難しいだろう…との
配慮と受け止めていました。両親も子供たちも楽しみにしていた旅行。
でもね…
私にとっては、行かなくちゃ!!の旅行でしかありませんでした。
子供たちも両親も楽しみにしているのだから、行かなくちゃ!!
当時の私の心は、すでに蝕まれていたと振り返ります。
伴侶を亡くしてある程度の年数が過ぎていたから、大丈夫なフリが定着していたように思います。でもフリだから、、、
母子3人でのくらしを成り立たせようと必死で、旅行を楽しむ…なんて気分にはなれなかった。でもみんなが楽しみにしているのだから、、、
北海道のすばらしい景色は、私のそんな心を癒してくれたのは、たしかだったと思います。
両親が、私を心配してくれていた事実もまたたしか…かもしれません。
出てきたアルバムが、それを主張しているようにも思えます。
でもチグハグだったんです。本当に、頓珍漢だったんです(:_;)
それは何故?
…と考えると、やはりそこには無戸籍児だった祖母の境遇からくるものとしか思えないのです。
父は自分の父親を知らないから、”父親”というものがどんな存在かがわからなかったのだと思います。そんな父にとって、年に1度家族を旅行へ連れていく。それが父としての役割のように思っていたように思えてなりません。
私が子供の頃も、近場でしたが、夏休みには必ず、父が働いていた会社の保養所を利用した旅行へ行っていました。
そんな父親の存在がない私達母子のため、父自身が、その代わりをしようとしてのことだったのだと思います。
祖母は、私の父に恥ずかしくない学歴やら世間体をつけるため、必死に働いていました。そのお陰で、ある程度お金には困らない環境で、私を含めたきょうだいは育つことができたのだと思っています。
父が子供時分、祖父母(父の)といたから、寂しかったか寂しくなかったかはわからないけれど、愛をまっすぐに受け取れる環境ではなかったのはたしかだと想像しています。
それ故に・・・
アルバムがひとつの愛だったとは思うのですが、、、
日常を、子供たちの心を、一緒に支えて欲しかった…
何が”ふつう”かは、本当に人それぞれだけれど、私にとっては、それが
”ふつう”で、私は、”ふつう”が欲しかったんです。
私の苦しい胸の内がわからなくても、そっと寄り添い見守っていて
欲しかったのです。
1冊のアルバムが
何もかもがチグハグだっただけなのだよ…
と伝えているようです。
いつかもう一度、今度は
まっすぐな心で、オホーツクブルー
見てみたいな…(*^^*)
最後までお読みいただきましてありがとうございましたm(__)m。