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序・祈りのような夢



最近色々調べ物をしていて、そこに書いてあることがあまりにもわけがわからなくて泣いていたのですが、泣いていても仕方ないので、自分の脳の仕組みについて少し客観的に考えていました。

わたしは文を書くのが好きですが、文章があまり読めません。
読めるのは読めるけど、読めないのは読めない。
どんなに有名な作家さんでもです。
読めないとはどういうことかというと、紙面や画面の字が目に映って、私の目から脳内に入ってくるのですが、その先には何もない無重力の果てしない暗闇が広がっていて、その空間に先ほどまでは整列していた文字が、ばらばらになって浮かんで螺旋状に漂ってしまうため、一文字づつなんとか捕まえようと手を伸ばすのですが、一向に捕まえられず、文字は闇の中にさらに増え、あちこちに白く舞って、螺旋状に、放射線状に拡がっていき、その暗闇の中で無数の星のように散らばる文字に、どうしたらいいのかわからずに、オロオロと途方に暮れて、ぼんやりとする。
それがわたしの「読めない」です。
同様に、公的な書類や説明書と呼ばれるものがわからないというは、その、ふわふわと漂っている文字が捕まえられないから読むことができず「わからない」のであり、一般的にいうところの「内容を理解できない」という意味の「わからない」以前の問題なのかもしれないと思います。
(だから「わからないって、なにが、どこがわからないの?」と聞かれても「わからない、とにかく何もかもわからない。」としか答えられない。)
この私の脳内の説明が、果たして読んでくださっている方にリアルに伝わるものなのか、甚だ懐疑的ではありますが、もう少し書き進めます。

そんな私にも、読める文章というのがあります。それらに共通しているのは、文字の向こうに立ち現れる世界とわたしの五感が同期して、3Dもしくは4D、なんならVRのようにまるで現実そのものとして体感できるかどうか、つまり、《その世界》がはたしてリアルにそこにあり、わたしと同期、もしくは平和に侵食され得るか、ということだと感じます。それは何も、小説や詩に限った話ではなく、たとえ説明書であっても、《その世界》との融合度合いにより、わたしはその解説書を取り込むことが可能です。

わたしにとっての読むということは、確かな体感を伴った体験、もしくはいつかのわたしのリアルな過去(記憶にないものも含む)ないし未来の記憶との融合のようなものです。
これはほかに音楽や絵画など、芸術全般も同じです。

他の方はどうなのか、他の方にとっての例えば読書がどういうものであるのか知ってみたいですが、体験として比べることが出来ないのが残念です。なぜなら私たちはお互いがそれぞれの肉体におさまるお互いでしかないからです。

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チャミ山商店

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これまで更新されてきた彼方からの手紙シリーズ、その他日記エッセイ、散文など、その時々のことを書いています。

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