ことばや好きや話すを振り返る(米津玄師の話の続きなど)
今日、偏愛マンダラ絵師のAKIEさんのスタエフラジオ『偏愛マンダラジオ』にて好きなものやことについてお話しさせていただいたのですが、その中でミュージシャンの米津玄師さん(以下敬称省)の扱うことばについて思うことを色々と話していて、でも今振り返ってふと思ったのは、私は彼のことばそのものではなく、彼のことばの身体性を見て、聴いていて、それがものすごく好きなのだ、ということでした。
ハッとしました。
自分はことばそのものが好きなのだとばかり思ってきたからです。でも、そうではないらしかった。そしてことばだけではなく全てにおいて私は、そのものが持つ身体性、というものに焦がれていたのだとわかりました。
なぜ突然そこに思い至ったかというと、やはりここ数日立て続けに、長年閉ざしていた「外に向かって声を発する」ということをしたからなのではないかと思うのです。相手を怒らせてしまうかもしれないとか、自分の話など聞いてもらえないかもしれないという恐れを排して声を発っし、対話をしたからなのではないかと思うのです。
私に向けられた相手の声の響きを聞き、そこに呼応して私も声を出し、それを音として同時に自分の耳から改めて聞いた事で、私が一体ことばの何が好きなのかをはっきりと理解できたのだと思います。ずっと一人で、頭の中の自分だけの世界でことばを書いているだけでは、きっとわからないことだったと思います。
そういえば米津玄師を初めて気にしたのは『LEMON』という曲のMVで、歌いながら頭を小刻みに振る動きが歌そのものの一部として、作り物でなく純粋にそこにあることに驚いたからです。彼の身体の内に深く内在する衝動のようなものが、自然に美しく表れているように見えました。その後発表された『Flamingo』という曲のMVで歩きながら踊る姿も同様で、動きは前に比べてずっと洗練されてはいましたが、やはり同じように彼の内側が発露していて、その発露の源が一体なんなのかを知りたくて繰り返しMVを見てしまいました。また『死神』という曲での噺家の所作やニヤリとしたときの口の歪みなどもやはり何度も見ましたし、つまり彼が動いているMVは飽きずに繰り返し見ました。
彼の歌は身体とともにある歌声と、歌詞と、彼自身のパーソナリティのようなものが余すことなく表現されていて、しかもそれが激しくても暴言を吐いていても哀しくても儚くてもとても優しく美しく存在していて、とにかくなんだか見ていたい、なぜか見てしまう何かがそこには常にありました。
その後も推しやファンと称されるような感じにヒートアップするでもなく淡々と、よくわからないままとりあえず米津玄師の歌を聴き、ラジオを聴き、番組を全部録画して見ているのは、とにかくその身体性の発露を見ていたいからです。それは思考や息遣いや沈黙、醸し出される彼という存在そのもののリズムとも言えます。
わたしが見ているのはおそらく全てにおいて、常に、そのリズムなのだと思います。
ことばにおいては、特に詩においては行間の、見えないところの隠されたリズムや空間や時間を聴いているように感じます。
もちろんことばそのものも好きですが、でも捉えているものはことばの内側、もしくはことばの外側にあります。
どうしてその認識をこれまで曖昧にして、盲目的に、ことばが好き!だと思い込んできたのかと考えると、とくにことばが好きな理由を深く考える機会が無かった、というのは大きな理由のひとつだと思いますが、それとは別に、もしかしたら私は〈ことばを好きな自分〉というものに固執し、執着しようとしていたのかもしれないな、と思いました。いつのまにか、そこに自分の存在意義を無理矢理見出そうとしていたのかもしれません。
ただ好きなこととそこに自分の存在意義を見出すことは何も悪くない、当たり前といえば当たり前ですが、そこに少しでもしがみついてしまえば、それはほんの少しの重みであったとしても、そのほんの少しの重みによるズレがずっと先ではもっと大きな変化となってしまい、絶望的なまでに取り返しのつかない、戻れない開きとなってしまうこともあるわけで、あ、これは結構危ういところだったな、と個人的には思いました。
何かをあてにして固執して自分を表そうとしていたらそれはもう情熱ではなく、自分を正当化する手段や方法になってしまうし、やがては自己顕示欲と執着になってしまっていたかもしれない。
別にそれは悪いことではないけれど、楽しかったことが苦しくなったりつまらなくなるのはすごく嫌だな、と思いました。
今回3人の方とスタエフでお話をさせていただいて、やっぱり人は一人では自分のことはわからないし、物事の理解や可能性の幅を狭めてしまうのだな、ということがとてもよくわかりました。
他者と関わること、それは一見不自由そうだし、面倒臭いことだけど、たぶん本来はとても自由で、清々しいことです。
だって、人はそういうものだから。
だから助け合ったり補い合うことは弱さでも甘えでもなんでもなくて、人ってそういうものだと、みんなでおおらかに生きていけるようになるといいなと思います。
「痛みを知るただ一人であれ」というのは米津玄師の『M87』という曲の最後の一行なのですが、おおらかに人と許し合って共に生きながら、それぞれが痛みを知るただ一人であること、我々でありながら我であることは相反することではなく、それこそが人と人とが共に生きるということの本当の意味であり、醍醐味であり、優しさであり、強さなのだと思いました。
改めて、今回声を発する機会を下さったAKIEさん、MISAさん、前田大樹さん、kiccoちゃん、のびたまごさんに心から感謝します。
ありがとうございました。
↓偏愛マンダラ絵師AKIEさんの『偏愛マンダラジオ』(私がお話しさせていただいた回は全4回です)
↓偏愛マンダラジオに繋いでくれたkiccoちゃんのチャンネル
kiccoちゃんの偏愛についても語られています!
↓のびフェスでMISAさんとお話しさせていただきました
↓のびフェスで前田さんとお話しさせていただきました
↓のびたまごさん主催の『のびフェス』についてなどなど
↓オマケ。ほぼ毎晩聴きながら寝落ち。最高。