「東洋思想」っぽい生き方って何?
こんにちは。寒い日が続きますね❄
これまで東洋思想について学んできたことを、昨年末から少しずつ整理し始めています。振り返ってみると、やはり私は儒教(儒家思想)のインプットが多いようです。
残しているメモの量や蔵書量の比率はだいたいこんな感じでした👇
こうしてみると道教と神道が随分少ないんですよね。といっても、これらにピンポイントでフォーカスしたメモや本が少ないというだけで、部分的に老荘・神道に触れているものは多いのですが。自分で「東洋思想は万遍なく学ぶ方がいい」と言っておきながら少し偏ってきた気もするので、今年はバランスを改善しようと思います…😅
さて、本ポストのお題は
結局のところ「東洋思想っぽさ」の根源っていったい何なのさ?
です。
あくまで「現時点の私の解」であり、今後も変わる可能性はあります。「私の解」だなんて偉そうなことを言ってますが、基本的には田口先生の講義や本の中で学んだことを整理したものが下敷きにありますし、私が知らないだけでおそらく色んな方が同じようなことを言っているのだろうと思います。
ただ、表現(ことば)は私なりの理解を組み立てたものであり、決してどこかからコピペしたものではありません。その点において「私の解」としています。
「東洋思想っぽさ」とはなにか
そもそも一口に「東洋思想っぽさ」といっても、色んな切り口があります。例えば、人生論、経営論、あるいは組織論、創造論、etc・・・。
言い換えるなら
・「東洋思想っぽい生き方」とはどういう生き方か?
・「東洋思想的な経営」とはどういう経営か?
・「東洋思想流の組織運営」とはどういう組織運営か?
・「東洋思想に基づくイノベーション」とはどういうイノベーションか?
それぞれ本が一冊書けるぐらいのテーマですが、やはり「根源」というからには「生き方」から始めるのが良いと思います。
ということで、本ポストのテーマは
東洋思想っぽい「生き方」とはなにか?
になります。(いつも前置きが長くてすみません)。
先に結論から言いますと
私なりの「東洋思想っぽい生き方」とはズバリ
です。
「ハァ?”宇宙”?🤨」
ってなると思うので、順を追って説明します。
まず、ここで言う”宇宙”とは、いわゆる物理科学的な、ホーキング博士的な宇宙(≒大気圏外の宇宙空間≒space)のことではありません。
上記サイトの解説に従うなら英語でcosmosに近いですが、ここで言う"宇宙"とは「(この)世界の主宰者」のことです。
儒教ではこれを「天」と呼びます。
仏教(密教)ではこれを「法身」と呼びます。
禅ではこれを「仏」と呼びます。
道教(老荘)ではこれを「道(タオ)」と呼びます。
神道ではこれを「神」と呼びます。
ヒンズー教ではこれを「梵(ブラフマン)」と呼びます。
「遺伝子スイッチ」を発見した故・村上和雄博士はこれを「サムシング・グレート」と呼びます。
中二病界隈ではこれを「超越者」と呼びます。
呼び方は、その地域やその文脈によって違うので何でもいいです。
重要なのは、
「人智を超えた何らかの存在が、この世界を主宰しているのだ」という考え方が根底にあるということです。
あ、ちなみにこの時点で
と思われた方は、そっとこのページを閉じてください😅
西洋はどうなのか
じゃあ西洋はどうなのか?
じつは西洋も「人智を超えた何らかの存在が、この世界を主宰しているのだ」という考え方は東洋と全く同じです。
アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では、これを「神(God)」と呼びます。
科学技術がこれほど発達した21世紀においてもなお、この世には人智を超えた何者かがいることを想定せざるを得ない。この根底にある考え方は、洋の東西を問いません。
では西洋と東洋で何が違うかといえば「世界の主宰者」に対する認識です。その違いこそが東洋らしさ、つまり「東洋を東洋たらしめる根源」に繋がります。
先ほど書いたように、東洋における生き方とは
「”宇宙のあり方”を”自己のあり方”として生きようぜ!」
でした。
これに対比するならば、西洋の生き方は
「創造主に救われるように生きようぜ!」
になるでしょうか。
図にするとこんな感じ👇
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教における「生き方」とはすなわち「主宰者との契約履行」であると考えられます。罪を負った自分の魂が永遠に「救済」されるためには、主宰者(God)との契約を守って生きることが求められます。
もちろん、契約と履行の考え方はユダヤ教、キリスト教、イスラム教でも違いますし、同じキリスト教内、あるいはイスラム教内でもその考え方はバラバラです。そもそも現代のイスラム教を「西洋」の枠組みに入れて考えるのは強引ですが、根本を辿ればこうなるのかなと。
同じように東洋の
「”宇宙のあり方”を”自己のあり方”として生きようぜ!」
を図にするとこんな感じでしょうか👇
東洋には「主宰者との契約/履行」という考え方はありません。
重要なのは、私たち人間自身の中にも「主宰者」が存在すると考える点です。フラクタル構造みたいな。
これは「主宰者」を契約の主体であると考える西洋から見れば「考えられない」ことです。
西洋人が仏教や神道の考え方に触れて「オーマイガー!」と感じる点はここにあります。絶対的な超越者であるGODが、ちっぽけな存在である「人間」の中にある、偉大な神が「人間」と共に在るだなんて考え方は、あまりに不遜で、神への冒涜だと思うことでしょう。
余談ですが、西洋にも神が人間の中に内在するという考え方を持つ人はいます。エックハルトはその代表例で、西洋社会では異端扱いされていますが、私たち東洋人からすれば普通に受け止められる主張だと思います。
まとめ
「”宇宙のあり方”を”自己のあり方”として生きようぜ!」
という東洋思想の根底に流れる考え方は、儒教、仏教、禅、老荘、神道のどれかでも触れたことがある方には、何となく分かるんじゃないかと思います。
「宇宙のあり方を自己のあり方として生きる」とは具体的にどういう生き方なのか。自分は今までこれを儒教や仏教の古典を通して学んできたのだということがようやく最近分かりました。
儒教も仏教も禅も老荘も神道も、根本で主張していることは皆同じであり、「宇宙」をどのような観点で捉えるのかの違いだけです。
「儒教」と「老荘」は、『秩序と創造』を軸にして「宇宙」を社会モデルとして論じたものだと見ることができます。ここは別の記事でもう少し掘り下げて説明したいと思います。
「仏教」と「禅」は・・・うーん、何でしょうね🤔。少なくとも「意識の発達モデル」を論じている側面はあると思いますが、それは「宇宙(法身、仏性)」をどのように捉えたものなのか今の私には分かりません😅もっと学んでみる必要がありそうです。(もしこの点について見解を持っている方いたら是非ご教示ください)
「神道」は「宇宙」=「自然」=「カミ」ですから、いわゆる「かむながら(随神)の道」がそのまま「自己のあり方」になるんでしょうか。ここもまだまだ学びが足りなそうです😅
という事で、次は
「宇宙のあり方を自己のあり方として生きる」とはどういう事なのかを、儒教の世界観から解説してみます。
つづく。