俺たちは聖徳太子パイセンのことを見誤っていた④
前回の続きです。
これまでの内容を簡単におさらいしますと、聖徳太子が推古天皇の摂政に就いた時代(7世紀)の日本はこんな内憂外患を抱えていました👇
この難局を太子パイセンがどのような施策で乗り切ったのか、そしてそこから現代に活かせる教訓はなにか。個人的には政治家だけでなく、全ての日本人が知っておくべき大偉業だと私は思っています。
今日は「外患」に対して太子パイセンがとったオペレーションを紹介します。
聖徳太子パイセンの国家構想
日本の外患を取り除くために太子パイセンは数々の施策をやりましたが、各施策の背後には一つの通底した構想がありました。その構想を一言で表すとしたら、これに尽きます。
この構想は、現代の日本にも通じる考え方だと思います。
外交の基本は「インテリジェンス」にあり
まず、太子パイセンが日本の外患を解消するために最も重要視したものが「インテリジェンス」です。
「インテリジェンス」とは何でしょうか。Wikipediaの説明では以下のように表現されています。
「インテリジェンス」は「知能」とか「知性」とかフワっとした概念的なものではなく、分かりやすく言えば「諜報活動」です。例えばアメリカのCIAやFBI、イギリスのMI6は映画等でよく題材になるインテリジェンス組織ですよね。日本では公安がそれにあたります。日露戦争で言うなら明石元二郎的な活動ですかね。
もちろん「7世紀の日本にCIAや公安があった!」といいたいわけではありません。現代でイメージされるような組織化された諜報機関が存在したということでなく、太子パイセンは外交上の最大の脅威であった「隋」に対し「インテリジェンス」を駆使することで対応したということを言いたいのです。
情報ソースは仏僧・恵慈
推古3年(595年)、朝鮮から来日した1人の僧侶がいました。名を恵慈(えじ)といいます。彼は仏教の先生として日本に来たとされていますが、太子パイセンにとって恵慈はそれ以上の存在でした。太子パイセンにとって恵慈は「海外事情通の専門家」だったと考えられます。
太子パイセンは恵慈からどんな情報を得ていたのか。それはもちろん隋の情報です。当時、儒教の「五経」や「史記」といった書物は日本に伝わっていましたから、太子パイセンも中国という国がどんな国で、どんな歴史を持っているかの概要は把握していたことでしょう。
しかし、太子パイセンの摂政就任と同じ時期に中華統一した隋および皇帝の太祖については書物による情報は少なく、一次情報を持っている人から直接聞くほかありません。
実際、太子パイセンが恵慈と密にコミュニケーションを取っていたことが伺えるエピソードが残っている場所があります。それは日本有数の温泉地、道後温泉です。
上記サイトでも紹介されていますが、道後温泉には聖徳太子が訪れたというれっきとした記録が残っています。朝廷があった斑鳩(奈良)から道後温泉(愛媛)なんて相当の長旅ですが、恵慈はその旅に同行したことになります。長い時間を一緒に過ごして温泉にいくほどの仲なので、単に「仏教の先生と生徒」という関係を超えた間柄であったと言えます(別にそういう意味じゃないですよw いやまぁ真実はわかりませんけど。。。)。
旅の道中あるいは温泉に浸かりながら、隋のこと、朝鮮のこと、その他海外のこと、渡来人である恵慈から様々な情報を得ていたに違いありません。
こうして慧慈から得た一次情報を太子パイセンは遣隋使に活用します。
第1回遣隋使は黒歴史?
一般に「遣隋使」といえば小野妹子ですよね。でも小野妹子が参加したのは第2回遣隋使(607年)です。第2回があるのだから当然第1回もあるわけですが、なんと「第1回遣隋使」は日本書紀に書かれていません!じつは第1回遣隋使は日本の正史として無かったことになっています。
なぜ記録がないのに第1回遣隋使が存在したと言えるのかというと、これはカンタンな話で、隋側の歴史書(隋書)には西暦600年に起きた事実としてバッチリ記録が残っているからです。
では、なぜ日本の正式な歴史書である日本書紀に第1回遣隋使のことが書かれていないのか?一般的には「第1回遣隋使が失敗に終わったからだ」と考えられています。いわゆる黒歴史ってやつですね。そもそも遣隋使の目的は「日本と隋との対等な外交を樹立すること」です。しかし隋書の記録によれば、第1回遣隋使と謁見した当時の隋皇帝(太祖)は、使者から日本の政治体制について説明を聞いてこのように批評したそうです。
前回のポストでも紹介した通り、隋の行動原理は「中華思想」です。「中華思想」とは、天の代行者である皇帝陛下のもと、世界で最も文明が進んだ(という自負のある)中国が世界の中心にあって、中心から離れた場所にある周辺の未開地は野蛮であり、中国が教化してあげなくてはならないという考え方です。
当時の日本国内は「政治システム」と呼ぶにはほど遠い状況でした。当時の日本は蘇我氏が物部氏を武力で滅亡させた直後ですし、統一された法整備もなく、国家運営を担う朝廷の人材登用も豪族の世襲が横行しているような状況でした。
隋からすればそんな日本なんて
と思われても仕方ありません。なので第1回遣隋使はケチョンケチョンに馬鹿にされて外交樹立どころか何の成果もなく終わった・・・だから史実には書かれなかったのだろうと解釈されています。
しかし、第1回遣隋使は本当に成果がなかったのでしょうか?
第1回遣隋使は検証とフィードバック獲得の場
朝鮮出身で、隋の事情にも明るい恵慈法師から直接情報を得ていた太子パイセンが、第1回遣隋使でこういう結果になるのを予測できなかったとはとても思えません。隋がどういう経緯で成立した国であって、中華思想とはどういうもので、高祖がどういった人柄なのか。太子パイセンは事前に恵慈から得た情報を元に仮説を立て、第1回遣隋使でその検証をしたのではないでしょうか。
つまり「隋にバカにされるのは織り込み済み」であって、その上で「隋と対等と認められるため、今の日本に足りないものはなにか」「隋との付き合い方はどうするのがベストか」を見極め、隋の反応をフィードバックとして得て、次に繋げるために第1回遣隋使を企画したのではないでしょうか。
実際、第1回遣隋使で得たフィードバックがその後の太子パイセンの数々のオペレーションや第2回遣隋使に活かされています。
第1回遣隋使で太子パイセンが得た成果は大きく以下の3つがあったと考えられます。
隋と対等な関係を結ぶためには、少なくとも隋と同等の政治システムを導入する必要がある。
日本は中国に思想哲学の面で優位に立てる余地がありそう。
中国のメンツを潰さない範囲でガツンとかましてやった方が、結果的にうまく付き合える。
1~3についてもう少し詳しく説明します。
政治システムと思想哲学の融合
まず1.の「隋と同等の政治システム導入」ですが、これはもう言うまでもないですね。皆さんご存知の「冠位十二階制度」と「十七条憲法」のことです。
冠位十二階制度は603年、十七条の憲法は604年に制定されました。1回目遣隋使の後すぐです。
これらの制度は内政的にもたいへん革新的なものだったのですが、それは次回のポストで紹介するとして、ここではこれらの制度が外交的にどんな意味を持っていたのかを紹介します。
まず冠位十二階制度ですが、外交的に重要なのはその冠位名と冠位順です。
冠位十二階制度では以下の表のように冠位が高い順に「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」・・・と並びます。
問題は、これらの冠位名「徳、仁、礼、義、智」が何に由来しているかです。
と思った方、惜しいです!正解ではありません。
確かに儒教では「仁、義、礼、智」を徳目として挙げています。なので、これらの冠位順は「聖徳太子が大事だと思ってる儒教の徳目順に並べたんじゃないの?」と思われがちですが、この順序は儒教由来ではありません。
では何に由来しているかというと道教(というか五行思想)です。
五行思想は古代中国で生まれたもので、この世界(この宇宙)は木・火・土・金・水の5つの要素(エレメント)で成り立っているとする考え方です。
五行思想では、この世界のあらゆるもの(方角や色など)を5つの要素に置き換えて考えます。儒教の徳目(仁、義、礼、智)も同様に木火土金水の順に置き換えると仁、礼、義、智の順序になるわけです。
何が言いたいかと言うと、この冠位名の付け方と順番を見ただけで「分かる人には分かる」わけですね。
儒教も道教も古代中国で生まれた思想哲学であり、道教は4世紀、儒教は5世紀に日本に伝わっていますが、その内容を熟知した上で政治システムに応用するなど、よほどこれらに精通していないとできません。
続いて十七条の憲法です。
太子パイセンの儒教・道教の精通ぶりは、冠位十二階だけでなく十七条の憲法にも現れています。十七条の憲法の各条文には、儒教経典(五経)から引用したと思われる文言が多く登場します。
また、十七条の憲法で最も有名な以下の一文についても、
「和」を「わ」と読むのではなく「やわらぎ」と読む読み方があります。「やわらぎ」とはすなわち「柔軟」ということです。
道教(老荘思想)では
という言葉があります。武力で現状を変えようとする剛強な大国・中国に対し、小国である日本はヤナギのような柔弱(しなやかさ、したたかさ)で対抗するのだ、という意思が十七条の憲法には込められています。
中華思想を相対化する「仏教推し」
そして太子パイセンの凄さが際立つのは何といっても、冠位十二階で「仁」よりもさらに上の冠位として「徳」を配置したことです。
この「徳」は儒教・道教 << 仏教を意識したものです。
恵慈から隋の太祖が大の「仏教推し」であることを聞いていた太子パイセンは、国を挙げて「仏教推し」のスタンスを示すことで、隋に対して対等どころか優位性を取りに行っています。
そもそも「中華思想」自体が、儒教の世界観に基づくものです。「天の代行者」である皇帝が治める中国こそが世界の中心だ、というのが中華思想の基本ですが、仏教の世界観では天子なんて眼中にありません。仏教の世界観では須弥山が宇宙の中心あり、その世界観では中国も日本も東方の地域に過ぎません。絶対的な中華思想が、仏教の世界観の中では相対化されてしまうわけです。「徳」が「仁」より上の人材登用の最高位とすることで、日本が「仏教推し」の国であることを強調したわけです。これができたのも、言うまでもなく太子パイセンが儒教、道教だけでなく仏教にも深く精通していたからですね。(恵慈は仏教の先生ですし)
ちなみに太子パイセンが日本の対中外交戦略で武器にした「仏教推し」という姿勢は、同時に当時の日本が抱えていた様々な内政問題の解消にもつながっていて、このあたりは「お見事!」というほかありません。詳しくは次回の投稿で。
礼儀正しくガツンとかます作戦
恵慈からの情報と第1回遣隋使で太子パイセンが得た洞察は「中国はメンツさえ保たれていれば、こちらが押せば引き、こちらが引けば押してくるような国だ」ということです。だから皇帝が代替わりしたら、最初に強く一発ガツンとかまして、その後は「まぁ、仲良くやろうや」と持っていくのがよいと考えました。そうして第2回遣隋使で実行されたのが有名な「日出処の天子・・・」の書簡です。
第2回遣隋使で小野妹子から渡された書簡を読んだ隋の煬帝は激怒したと言われています。それは、書簡に書かれた内容がまるで「階段の一段上にいる者から、一段下にいる者に対するもの」だったからです。常に相手を跪かせてきた煬帝にとってはさぞショックであったことでしょう。一方で、その文面は漢文としての完成度が実に見事で、よほど典籍(中国の古典)に精通していないと書けない名文であったと言われています。
これまで武力で屈服させてきた朝鮮の国からこんな反応を受けたことは一度もなかったのに、日本だけはこんなメッセージを書面で送ってきて「我々は対等だ」と言い放ち、その上で自分自身も推す「仏教を学びたい」というわけですね。これが二度三度と繰り返して「日本のほうが中国よりも格上だ」なんて言われたらメンツが丸つぶれですが、最初の1回だけやるなら効果てきめんでした。これには隋の皇帝も「ぐぬぬ・・・なかなかやりおるわ」となったのでしょう。実際、これ以後日本と隋の外交が正式に始まり、隋からの侵略を受けることはなかったのですからね。
まとめ
今回は当時の日本で外交上の脅威だった隋に対し、太子パイセンがどのような戦略とオペレーションで乗り切ったのかを見てきました。
冒頭に紹介した
という構想がよく分かりますよね。武力で現状を変えることを厭わない隣国に資源や人口で劣る私達が同じ土俵で戦って勝てるわけがありません。太子パイセンは「インテリジェンス」と「思想哲学」を駆使することで、相手に対等な関係を認めさせることに成功したわけです。実にしたたかだと思いませんか?
さて、こんなしたたかな外交ができる政治家が今の日本にいるでしょうか?
中国の習近平、北朝鮮の金正恩、ロシアのプーチンを相手に、こんなしたたかな打ち手が取れる政治家がいるでしょうか?インテリジェンスどころか自国の思想哲学すら語れる人がいそうにありませんが・・・
次回は最終回です。内政の問題を太子パイセンがどうやって解消したかを紹介します!
表紙の画像は道後温泉の公式サイトで配布されている写真をもらいました。
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