俺たちは聖徳太子パイセンのことを見誤っていた②
前回の続きです。
我らが聖徳太子(太子パイセン)が、内憂外患だらけの日本を、超人的オペレーションでどう立て直したのかを紹介するシリーズの2回目。
今回は「内憂」です。当時の国内がどれほどマジヤバな状況だったかを紹介します。
そもそも太子パイセンの立ち位置って?
日本の「内憂」がどんなものだったのかを紹介する前に、まず太子パイセンの立ち位置を改めて確認しておきます👇
太子パイセンは第31代天皇「用明天皇」の長子です。現代でいえば「皇太子」的なポジションなんですよね一応。
改めてこの家系図を見ると、当時の日本の「内憂」はこの系図の中に凝縮されているような気もしますね。。。
では、当時の日本が抱えていた3つの「内憂」を1つずつ紹介します。
内憂①疫病が大流行
現代での日本もコロナウィルスが大流行し、多くの死者を出ましたが、当時の日本も疫病が大流行して死人が出まくっていました。
その病気とは「瘡(かさ)」、つまり「天然痘ウィルスによる感染症」です。
『日本書紀』の記述によると、瘡にかかった人達がそこらじゅうに溢れて「身を焼かれ、打ち砕かれるようだ」と泣きながら死んでいったそうですから、相当悲惨な状況だったことがわかります。
実はさきほどの家系図でいうと太子パイセンの叔父にあたる「第30代天皇 用明天皇」も天然痘にかかって亡くなっています。
当時はウィルスなんて概念は当然ありませんしワクチンや特効薬もありません。感染したら天皇であっても命を落とすという事実を目の当たりにして、一般ピープルにとっては「いつ死んでもおかしくない」という社会的パニックの状態にあったと考えられます。(2020年の日本もそんな感じでしたが)
内憂②排仏vs崇仏 社会的な分断が発生
当時の日本は、天皇がいるヤマト王権(大和朝廷)が政治の中枢であり日本の中心地ということになっていましたが、実際にヒトモノカネを動かせる権力を握っていたのは天皇ではなく豪族と呼ばれる人たちでした。
豪族とは、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち、一定の地域的支配権を持つ一族のことです。この時代の豪族は、自分たちが推戴した皇子が次の天皇になれば政治の実権を握ることができるので、あの手この手で皇子を擁立し、いかに天皇に即位させるかで権力争いをしていました。
中でもひときわ大きな勢力を誇っていた豪族が、古来より日本に住む物部氏と、大陸からの渡来人の末裔である蘇我氏でした。
物部氏は日本の伝統的価値観を重んじる保守的な一族で、とくに神道に篤い人たちです。一方、蘇我氏は大陸にルーツを持ち、先進的な技術や海外の情報を積極的に手に入れようとするグローバル志向の強い一族です。
仏教は日本人にとってあまりに斬新すぎた
物部氏と蘇我氏が権力争いをバチバチやっている頃、大陸から仏教がやってきました。日本に仏教が初めて伝来したのは538年、欽明天皇の時代とされています。
朝鮮半島の百済という国の聖明王が外交政策の一環で欽明天皇に「仏典と金ピカの仏像」が送られたのが日本の仏教のスタート地点です。
と個人的には思うところですが、記録が正しければ日本仏教の最初の最初はマジで仏像と仏典という現物だけが送られてきたようですw (もちろん、後に僧侶も来てますが)
「これが海外の神様やで!」
と言わんばかりに金色に輝くピカピカの仏像が突然やってきたわけですから、当時の人達はさぞビックリしたでしょうね。だって日本の八百万百の神々に金ピカの偶像なんてないですもん。あってもこんなんですし👇
そんなわけでセンセーショナルに登場した仏教は、当時の日本で「大陸の最先端思想」として紹介され、新しいもの好きの蘇我氏や欽明天皇は、この異国の神の教えに強く惹かれました。
ところが、仏教の思想があまりにトガり過ぎていたため、一部の人から「これは日本に入れたらアカン」と反発が起きました。仏教反対派の代表格が物部氏です。
日本書紀によると、仏教に強く関心を寄せていた欽明天皇に対し物部氏は
と進言したとされています。朝廷内で重職に就いていた物部氏の忠告に欽明天皇は従わざるを得ず、金ピカの仏像や仏典を焼き捨て、自身も仏教に帰依することを諦めました。代わりに蘇我氏が私的に仏像を礼拝したり寺院を建てるといった仏教を広める行為は許可することにしたのでした。
これにより、仏教を日本に入れたくない「排仏派」代表の物部氏と、仏教を日本に広めたい「崇仏派」代表の蘇我氏という対立構造が、よりはっきりとしてきました。
でもこの対立って両氏に閉じた話じゃないんです。
疫病の大流行により一般ピープルはいつ死ぬかわからないという絶望的な状況にいたわけです。原因も治療法もわからないのですから、もし愛する家族や親しい人が罹患して亡くなったりしたら、その原因を何かに求めたくなるのは無理もありません。
ある人達は「仏像を焼き捨てたから仏様の怒りに触れてしまったのだ。これが疫病の原因に違いない!」と考えて仏教を崇拝するようになりましたし、またある人達は「仏教のような異国の神を信じたりするから、八百万の神々が怒って疫病が流行ったに違いない!」と考えて仏教を排斥するようになりました。こうして社会全体が「排仏 or 崇仏」で分断されていったわけです。
この分断って現代でもありませんか?マスクを付ける/付けない、ワクチンを打つ/打たないとか。
補足:なぜ仏教だけが特別扱いされたのか?
ところで、現代人の我々の感覚からすると「仏教が最先端」「仏教は危険思想」と言われてもイマイチピンとこないですよね。「仏教のいったいどこが最先端なの?」とか「キリスト教やイスラム教が来たわけじゃないんだし、そこまで過敏に拒否するものかね?」と思いませんか?
ここは「日本の内憂」の話からちょっと横道に逸れる話題ですが、排仏/崇仏の話は日本の思想史上、とても重要なターニングポイントだと思ってるのでもう少し詳しく掘り下げてみます。
先ほどいったように仏教は朝鮮の百済よりもたらされたのですが、そもそも仏教が興った発祥地はご存知の通りインドです。つまり仏教はインド~中国~朝鮮と大陸内を東へ東へと伝播し、最後に海を超えて日本に伝わったわけです。
これは仏教に限りません。じつは仏教が中国に伝わるずーっと前から、中国・朝鮮にも土着の思想がありました。それが道教(老荘思想)と儒教(儒家思想)です。
道教と儒教がどんな思想か説明しようとするとめっちゃ長くなるので、ものすごく超大雑把に一言でいうと、道教も儒教も自然崇拝を根底に敷いた「秩序と創造」の思想だといえます。いずれも紀元前の古代中国が発祥で、道教は4世紀頃に、儒教は5世紀頃に日本に伝わっています。つまり、外来の思想としては仏教より100~200年以上も前に日本に伝わっていたことになります。
一方、日本にも古来より受け継がれた土着の思想がありますよね。「神道」です。
「神道」は皆さんご存知の通り、あまりに分かりやすいほど「自然崇拝」の思想です。万物に神性が宿る「八百万百の神々」の存在が信仰がベースにあるので、自然の摂理を根底に敷いた道教や儒教の考え方というのはすんなり受け容れることができたはずです。さらに言うなら、例えば儒教と神道は「祖霊信仰」という点で共通していますし、道教と神道は死生観に相近いものがあります。そして何より、神道は産土神(うぶすなのかみ)といって創造性(クリエイティビティ)に満ちまくった思想です。宇宙の創造性を説く道教・儒教が肌に合わないわけがありません。
現代のIT機器で例えるなら、神道と道教・儒教はWindowsとMac、あるいはiOSとAndroidぐらいの差であって、使い勝手や細かいところは色々違うけど「まぁ、この程度の差は受け容れられるよね」ということで、軋轢や排斥を受けることなくすんなり日本人に浸透していきました。
しかし、仏教はそうはいきませんでした。仏教は道教や儒教とは明らかに異質な思想です。分かりやすいところでいうと例えば
現在の否定(この世は苦しみに満ちている)
過去、現在、未来を捉えた人生観 (輪廻転生が前提である)
超緻密な論理体系と形而上学的な世界観
独特の死生観(涅槃の境地に至ることが最終目的地だよ)
空の思想 (それ、本当は全部存在しないからね!)
他にも挙げればキリがないですが、日本に馴染んだ「神道、道教、儒教」が包含する世界観・考え方からすると、仏教のそれは明らかに異質です。「これを社会にインストールしてしまったら混乱が起きかねない」と物部氏には映ったのでしょう。
現代で例えるなら、WindowsやMacでWordやExcelを使って仕事をしていた職場にある日突然「量子コンピュータ、ブロックチェーン、Chat GPTでDXしようぜ!」というノリの中途入社がやってきた、みたいな状況でしょうか。
ってなるのも無理はないですよねw
内憂③血なまぐさい内乱
社会全体が疫病の大流行でパニックになり、排仏 or 崇仏で社会の分断が進む中、いよいよ物部氏と蘇我市の対立は激化し戦争にまで発展しました。
先ほど紹介したように欽明天皇の次に即位した敏達天皇は天然痘で亡くなったのですが、敏達天皇の死後に即位した用明天皇(=太子パイセンのパパ)は仏教推し(崇仏派)だったのです。
排仏派の物部氏はこれに危機感を覚え、用明天皇の即位に不満を持っていた皇子(穴穂部皇子)を味方につけ、彼を次の天皇にしようと画策します。
ところが、物部氏の怪しい動きに気付いた蘇我氏は先手を打って皇子を暗殺します。さらに勢い止まらず、豪族をまとめ上げて激戦の末に物部氏を滅ぼしたのでした。
もしここで物部氏が蘇我氏に勝っていたら、日本の仏教は今のような状況にはなっていなかったはずです。なんせバッキバキの排仏派ですから。
物部氏を滅ぼした蘇我氏は、傀儡政権をつくる目的で崇峻天皇を擁立して即位させます。しかし崇峻天皇が自分の思い通りにならないとわかった途端、崇峻天皇も暗殺してしまいます。もうやりたい放題ですね。
今回は説明を省きましたが、蘇我氏は代々、自分の娘を天皇家に嫁がせて天皇家と姻戚関係になることでのし上がってきました。穴穂部皇子も崇峻天皇も蘇我氏にとっては親族なのですが、自らの権力のためにあっさり殺してしまう。日本の中心である天皇家がそんなボロボロの状態だったわけです。現代でいうなら、政権与党内で内輪揉めや内部告発が相次いでいるようなもんでしょうか。「もうそれふつうに政治とかできる状態じゃないよね常考」っていうレベル。
崇峻天皇が暗殺された後、即位したのが推古天皇です。そして推古天皇が摂政に指名したのが聖徳太子パイセンです👇
よく見ると推古天皇と太子パイセンは叔母と甥っ子の関係ですね。
まとめ
当時の日本が抱えていた3つの「内憂」を紹介しました。改めて、現代の日本の状況に似てませんか?疫病の大流行、社会の分断、政治家達の内ゲバ。
次回は「外患」です。当時の日本が抱えていた「外患」もなかなかシビれるヤバさですのでお楽しみ(?)に!
つづく。
謝辞
※本記事内の蘇我氏と物部氏のイラストは『時短だ(ジタンダ)』様の画像を使わせて貰っています。ありがとうございます!🙇
https://jitanda.com/