いま、日本人がほんとうに学ぶべきこと③
1回目の記事では「日本人は、世界で最も勉強しない人たちである」という衝撃的なレポートを紹介したうえで「社会人が『業務と関係ないこと』を勉強することの意義」について考えてみた。
2回目(前回)の記事では、仕事に関係ないことを勉強する意義は「無意識のうちに身に付いてしまった『偏ったモノの見かた』から、自分を解放すること」にあり、「偏ったモノの見かた」の具体例をいくつか挙げてみた。
そして3回目、ようやく本題に辿り着いた🤣
どうやったら「偏ったモノの見かた」から解放できるのか?だ。
(もともとコレが書きたかったのだが、前置きに2回も使ってしまった😂)
無意識のうちに身に付いてしまった「偏ったモノの見かた」から自分を解放する方法は大きく2つあるように思う。
以下、それぞれ説明する。
1. 強制的に、急激に見かたを変える方法
この方法は「変える」というより「リセットする」と表現した方が正しいかもしれない。この方法により、自分の「世界の見かた」はガラリとリセットされると思われる。「思われる」と曖昧に書いたのは、私自身が体験してないからだ。でもそれは私が『恵まれている証』でもある。
どういうことか、強制的に見かたを変える方法の具体例を説明する。
①戦争を体験する
いま、ロシアとウクライナは戦争の真っ最中だ。パレスチナとイスラエルも戦争の真っ最中だ。これらの戦争の当事者(政治家、軍関係者、市民)にとって、戦争が始まる前と後で世界の見え方はどのように変わったであろうか。例えばウクライナのゼレンスキー大統領は戦争が始まって数か月の間にまるで別人のように顔つきが変わってしまったことが知られている👇
(※ゼレンスキー大統領は元々テレビに出て俳優やコメディアンをしていた)
戦争で家族、友人、家、故郷を奪われた子供達は、不条理な暴力や人間の醜さ、平和の尊さについて経験しない人よりも身をもって知ったはずだ。この悲惨で強烈な体験を通じて「世界は平和であるべきだ」という強い信念が宿り、平穏に過ごせた他国の同世代の子どもと比べて将来政治家や起業家として活躍する可能性は高い。日本で言えば戦後の焼野原から復興した昭和の名経営者がこれにあたる。
②自然の猛威を体験する
震災や豪雨災害等で家や家族を失った人、避難所で不自由な生活を余儀なくされた人は、大自然の猛威の前では「人間の知識ではどうにもならないことがある」という認識を改めて持つことだろう。あるいは、何の罪もない善良な家族や友人の尊い命が一瞬で奪われたことで「死生観」や「無常観」について新たな見方が芽生えたかもしれない。実際に被災した人にしか分からないことがあるはずだ。
③大病を患う体験
大病を患うと「なぜ、自分だけがこんな目に?」という不条理への怒り、これまで遠い存在だった「死」を身近な存在として意識せざるを得ない恐怖、懸命に治療や介護にあたってくれる周囲の人への感謝など、強制的に【非日常】へと切り離されることで、これまで見えなかった色んなものが見えるようになるそうだ。
他にも「大切な人を事故で亡くした」とか「愛する人が理不尽に傷つけられた」とかいろんなケースが考えられるが「1. 強制的に、一気に変える方法」は総じてネガティブな原体験を伴う。
そしてこういった体験は「こういう目に遭わないに越したことはない」のが特徴だ。幸いなことに私たちが住む日本は戦争や紛争に巻き込まれていない(色んな火種に囲まれてはいるが・・・)し、自然災害の被害も最小限のレベルで抑えられていると言ってよいだろう。戦争、自然災害、大病など「自分ではどうにもならないコトで世界観が強制リセットされる人たち」が大勢いる中で、そうならずに済んでいる幸運を私たちはもっと喜ぶべきではないか。
2. 段階的に、緩やかに見かたを変える方法
さて、こちらが本題だ。
自分でコントロールできる範囲内で「世界の見かた」を少しずつアップデートする方法は存在する。
ズバリ「古典と歴史を勉強すること」だ。
教養を身に着け、偏った見方から解放されるための手段として挙げたのが古典だの歴史だの『月並みな答えだな🤨』と思った方もいるだろう。
と思った方はぜひコチラも見てほしい👇
(オッサンは古典と歴史が好きになりがちな生き物なので許してほしい)
あるいは
と思った方もいるかもしれない。
そういう考え方もあるのを承知で、敢えて断言しよう。
私たちのような幸福な凡人が教養を身に着ける最短の道は、ぶっちゃけコレ(古典と歴史)しかない。
これが(主に東洋の)古典と歴史を8年間継続して学んできた私の結論だ。
ではなぜ古典を読むと「世界の見かた」が偏らなくなるのか。
それはすごくシンプルで、古典には「原理原則」しか書いてないからだ。
「原理原則」とは例えば以下のようなコトだ。
・世界とはなにか?
・人間とはなにか?
・道理とはなにか?
・生きるとはどういうことか?
どうかご安心いただきたい。
古典が古典と呼ばれるには理由がある。
古典とは、ガチで頭のいい天才(もしくは天才たち)が、生涯をかけて、あるテーマについて、色んな角度から、世界を観察し、検証し、議論し、考えて考えて考え抜いた結晶だ。この結晶を創る過程で「偏り」はおのずと除去される。正しくは「偏らなかったものだけが残った(淘汰されなかった)」というべきだろうか。
例えばアリストテレスの「ニコマコス倫理学」。これは紀元前に書かれたものだ。「論語」や「史記」も紀元前の書物だ。
100年とか200年の単位ではない。古典は2000年以上前から途絶えることなく現代まで引き継がれているのだ。過去から現代まで多くの人の手に渡り「これは後世の人のため、後世の社会のためにゼッタイ残しておいた方がいいやつ認定」されたからこそ、ネットもない時代に自分の子孫や友人、知り合いにオススメされ続けて今ここにあるのだ。現代のような手軽な複写、印刷、保管ができない期間の方が圧倒的に長いのだから、現代まで残るには膨大な手間とコストが掛けられている。そんな奇跡のコンテンツが古典なのだ。よほど本質的で普遍的で魅力的な内容が書かれてないと、そもそも現代まで残るはずがない。
効率厨の私からすれば、先人達の膨大な努力とコストの結晶の上澄みだけを今こうしてお手軽に享受できてしまうので
と、著者が存命なら投げ銭したくなるほど超優良コンテンツなのだ。
そして、ここからがとても重要なところだが、
そんな古典を世界で最も活用できるポテンシャルを持っているのが、実は「世界で最も勉強をしない」と言われている日本人である、といったら信じられるだろうか。
次回は、古典をどうやって勉強すべきかについて解説する。
つづく。