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俺たちは持統天皇のことを知らなすぎた(最終回)

前回の続きです。

持統天皇が「内憂外患」で窮地にあった日本を救うために行った政策は次の2つのキーワードに集約されます。

1.「創業垂統 (そうぎょうすいとう)」
2.「継体守文 (けいたいしゅぶん)」

前回の記事は「1.創業垂統」を紹介しました。最終回は「2.継体守文」を紹介します。

「継体守文」は、リーダーとして自分がいなくなった後でも組織が末永く存続していくためのヒントが詰まった考え方です。ここでいう組織とは「国家」とか「会社」とかスケールが大きなものだけではありません。「コミュニティ」や「サークル」など、どんな組織にも当てはまる話です。

組織のリーダーを新しく任されちゃった人は必見です😌


おさらい:創業垂統とはなにか

まず「創業垂統」をおさらいしておきます。前回の記事で書ききれなかったところも付け加えつつ。

創業垂統」とは読んで字の如く

創業=事出し
垂統=伝れる

ということです。

創業」という言葉は、現代だと経営者が新たに会社を作るときに使いますよね。「我が社は今年で創業○十年!」みたいに。

別に持統天皇が飛鳥時代に会社を作ったわけではないのですが、持統天皇がやったことは「日本という会社を再生した」と見ることもできるので、その意味で彼女は政治家というより「経営者」とも言えるかもしれません。

「日本」の経営者

前回も紹介した通り、この国の名前を「」から「日本」へと名称を変えたのは持統天皇です。

国の名称を変えるというのは、会社で例えるなら「社名変更」ですね。例えば「ソニー」は元々「東京通信工業」という名前でしたし、「パナソニック」も元は「松下電器」でした。他にも多くの事例がありますが、そこには深い理由と経営者の想いが込められます。

持統天皇は「日本」という会社の経営者としては第41代目にあたるのですが、彼女のスゴいところは「自分が41代目であるとはどういうことか?」を考え、

「この組織(国家)は、経営者を41代前まで遡ることができる」
「初代から続く歴代の経営者はこういう人である」

と、自組織の歴史を明らかにしたところにあります。これが「垂統」すなわち「伝統を垂れる」ということです。

その結果、アウトプットとして国内外に向けて「日本書紀」と「古事記」が編纂されました。会社で言えば「社史の編纂」にあたるでしょうか。

歴史書に書かれたことは「真実」か?

ここで一つ重要なことがあります。

それは「歴史書に書かれたことは必ずしも真実とは限らない」ということです。

「そもそも歴史において『真実』とはなにか?」

だなんて根源的な問い掛けをここでするつもりはないのですが…😂

私は、「歴史」とは常に誰かの視点で描かれた「物語」の1つでしかないと思っています。(このあたりの話はこちらもどうぞ👇)

何が言いたいかというと「日本書紀」も「古事記」も「これが我が国の歴史です!」と謳われている書物ではありますが、その中の記述には為政者の意図や思惑がたっぷり詰まっているということです。

身も蓋もない言い方をすれば

「我が国は、こういう歴史を経て今に至った・・・ということにする!」

と「恣意的に」書かれています。これは日本だけでなく、世界中のどの国のどの歴史書にも必ずあるものだと思いますが。

でもそれは「聖徳太子が実在したかどうか?」と同様に重要なことではありません。(もちろんアカデミックな文脈では重要ですが)。

歴史書に書かれたことが「フィクション」なのか、あるいは「事実」なのかを100%の精度で検証するのは不可能です。検証は考古学に任せて、わたしたちが学ぶべきなのは「それが歴史となったことで、どのような効用が生まれたのか?どのように世の中が変化したのか?」だと思います。

日本書紀」も「古事記」も主要なメッセージは

「この国が天照大神に連なる神代の時代から続く歴史を持つ国であり、天皇は初代から続く直系の子孫である」=皇祖証明

です。

持統天皇は、このメッセージとトップの名称を「天皇」に変更することで、国内を天皇中心の国家にまとめつつ、唐帝国の脅威から日本を守ろうとした、というのが前回紹介した内容です。

ここまでが「創業垂統」の振り返りです。長くなってしまった🥲

さて、ここから今日の本題です。

伝統を守るために再定義した場所

創業垂統」により、持統天皇が明らかにした・・・というか整備した「日本の歴史」ができあがったわけですが、次はこれを我が国の「伝統」として定着させ、自分がいなくなった後も組織の人間によって守り受け継がれていくように仕向けなくてはなりません。これが「継体守文」です。

では彼女は後世の日本人に何を守らせたいと考えたのか?

それは当然、コレですね👇(再掲)

「この国が天照大神に連なる神代の時代から続く歴史を持つ国であり、天皇は初代から続く直系の子孫である」=皇祖証明

国民のアイデンティティを掘り起こして天皇の元で一致団結させると同時に中国と対等に渡り合うために整備した「天照大神から続く歴史と血筋により統一された国家」という「伝統」を、後世の人たちが維持するようにするために持統天皇が活用したものこそが伊勢神宮です。

日本人の心のふるさと 伊勢神宮

誤解しないでほしいのですが、伊勢神宮はべつに持統天皇が建てたものではありません。現在の場所に伊勢神宮を建てたのは第11代垂仁天皇の皇女、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)とされています。3世紀~4世紀頃らしいので持統天皇がいた時代より数百年前の話ですね。

なお、「そもそも伊勢神宮がどういう経緯で建てられたのか?」という話はここでは割愛します。いま重要なのは「持統天皇が伊勢神宮をどのように扱ったか?」なので。

持統天皇は、伊勢神宮を次のような場所として「再定義」しました。

「みんな~!ここに皇室の祖である天照大神様が住んでるからね!😊」 (ってことにしよう)

もしかしたら

って思う方もいるしれません。

だって「伊勢神宮」って、日本の八百万の神々の頂点に立つ主神「天照大神」が祀ってある神社だからこそ別格なのであり、日本人の心のふるさとなのであり、皇室も参拝しているのではないのか?

持統天皇はそんな由緒ある伊勢神宮にただ乗っかっただけなのか?

逆です。

「持統天皇」が、
「伊勢神宮」を、
「天照大神が祀ってある場所」として、
「整備した」のです。

もともと伊勢神宮は、別に天照大神が祀ってある場所ではなく、皇室ゆかりの神社でもありませんでした。

持統天皇が「伊勢神宮」をこのような場所として「再定義」したのです。

さらに、この伊勢神宮に施した「再定義」の内容を日本の伝統として後世に継承させるために整備した文化が次の2つです。

「内宮/外宮」
「式年遷宮」

外宮/内宮

伊勢神宮には外宮(げくう)/内宮(ないくう)という2つのエリアがあります。

画像引用元:http://www.tabiilog.com/japan/isejingu

両者は車で15分ほど離れた場所にあり、天照大神が祀られている皇大神宮のことを「内宮」、衣食住の守り神である豊受大御神が祀られている豊受大神宮のことを「外宮」と呼びます。

「内宮」も「外宮」も元々の伊勢神宮にはなかったものです。(あったのは宝物を祀る「斎宮」のみ)。内容/外宮は持統天皇によって造られたものです。

さて、ここで気になってくるのは豊受大御神(とようけのおおみかみ)ですね。いったいお前は誰やねんと。

この神様は「衣食住」を司る神様なんですが、そうなると「それは誰のための衣食住か?」という話になります。

それは、内宮に住んでいる(ことになっている)天照大神のためです。

「内宮にはマジで天照大神さまが住んでるからね!」

という世界観(設定)にリアリティを持たせるため、そこに住まう主神の衣食住を世話する神を祀る場所まで新たに作っちゃったわけです。スゴイ構想力だと思いませんか?

ここまでやれば、いつ中国から使節が見学に来ても「コイツら本気や…😰」としか思わないでしょう。

「外宮/内宮」で陰と陽のバランスを取っているあたりが易経マスター持統天皇らしいところでもあります。

ちなみに今でも伊勢神宮に仕える神職の方々は「外宮」で調理した料理を毎日「内宮」に運んでいるそうですよ。

式年遷宮

これは有名なのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

画像引用元:http://kyabimaru.blog.fc2.com/blog-entry-203.html

20年ごとに「外宮/内宮」にある正殿と社殿を造り替え、神座を遷す儀式のことです。要は20年おきに「神様の引っ越しをやる」という制度を整備したわけですね。

「こんなことをして一体何の意味があるのか?」

と思われるかもしれませんが、これは「組織」の伝統を後世に伝えていくという点でものすごく意義があることなんです。

式年遷宮の意義については色んな視点がありますが、一番わかりやすいのは「技術」の伝承です。

現代日本が世界に誇る伝統工芸には「木工」や「彫金」がありますが、それらの元になった「宮大工」や「神宝製作」の技術が1,300年間引き継がれてきた背後には間違いなく「式年遷宮」の存在があります。

なぜか?

だって「20年おきに神様の住む場所を建て替えなくてはならない」というわかりやすいマイルストーンがあると、それに携わる職人さんはそれに沿った人生設計ができるじゃないですか。

技術伝承の上から、宮大工や神宝製作の匠の技を伝えるにも、二十歳代で入門、四十で一人前、六十歳代で棟梁や指導者になる合理性である。現代でこそ平均寿命が八十歳にもなったが、ついこの間まで、人生わずか五十年、明示三十三年(1900)のそれは三十七歳であった。だから千三百年も昔はずっと低かったはずで、技術を正確に伝えるには精いっぱいの年限だったと思う。さらに私は、信仰を次の世代にバトンタッチするためにも最もふさわしい年限であると、最近つくづく実感する。二十年だから世代にを重ねて信仰、思想、文化が確実につたえられるのだ。(矢野慶一,伊勢神宮,ぎょうせいより)

当時は建築的図面が保存されていたとは思えない。体系的に建築所が残されはじめるのは十七世紀以降であり、それとて、図面は今日に比較すれば至って簡略化されたものである。天正期の造替で、先行建物が完全に崩壊して、手がかりがないなかで、大工の棟梁と事務方の禰宜がそれぞれ伝えられた文章による記録をつき合わせて、古い型の復元をこころみている。そのいきさつが文書にのこっていたのである。(磯崎新,建築における「日本的なもの」,新潮社より)

現代でも老舗の会社だと年中行事を継続しているところもあると思いますが、創業の精神と伝統を守るという目的に沿ってやるのであれば、とても理に叶っていると思います。

まとめ

持統天皇の偉業を「創業垂統」「継体守文」でまとめるとこんな感じでしょうか。

創業垂統」・・・伝統を明らかにすることによる日本の再定義
継体守文」・・・伝統を文化として継承させるための場としての伊勢神宮の再定義

新たに組織を率いることになった人、例えば事業承継などで経営の「アトツギ」を任された方は、先輩経営者として持統天皇の考え方を参考にしてみるのも良いかもしれません。

そして忘れちゃいけないのが、辣腕経営者ではない、持統天皇のもう一つの顔。

小倉百人一首 2番

春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 
衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

現代語訳
春が過ぎ、夏が来たようです。(夏の青葉に包まれた)天の香具山のあたりに、白い衣が干されていますね。

https://www.bou-tou.net/jitotenno-harusugite/
天香久山

初夏の青空に、青々とした香久山の姿、そこに白い衣が干されている。こんな色彩豊かな歌も残せる稀代の経営者って、ちょっと出来過ぎじゃないですかね。うののさららさん😅

おわり。





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