そうはいっても『鬼滅の刃』が好きです
※『鬼滅の刃』の最終話までのネタバレがあります。
一番好きな漫画は何かと聞かれたら、今の私はきっと『鬼滅の刃』と答える。もちろん、作品として批判されるべき点があるのもわかっている。これだけ売れたのは作品の力だけによらないのも、私は知っている。
ただ、私は『鬼滅の刃』と社会の関わり方に興味があるというより、自分の個人的な事情があって強くこの作品にこだわっている。
1:怒りを忘れないこと
弱者には何の権利も選択肢もない 悉く力で強者にねじ伏せられるのみ!!
これは家族を殺され、鬼になった妹の命乞いをする炭治郎に鬼殺隊の冨岡義勇がかけた言葉だ。私はこの言葉を読んだ瞬間、勝手ながら作者の吾峠呼世晴先生に共感を覚えた。
だってこの言葉は、苛烈に虐げられたことのある者だけが世間に対して言えるものだから。
そりゃ皆、権利も選択肢も与えられているはずなのだが、実際に渦中にいる人間にとっては「あなたには権利も選択肢もある」という言葉はあまりにも眩しい。その言葉をためらいなく投げかけることができるのは、求めれば与えられてきた者だけだ。
そして読み進めるうちに、作者がどのようにして自分の置かれた境遇を咀嚼し、自らの腑に落とし、日々を積み重ねてきたかがわかるような気がした。漫画を読みながら、私はそれにいちいち共感していたのだ。
まずひとつ。「怒り」を否定しないこと。
いつまでもそんなことに拘っていないで 日銭を稼いで静かに暮らせばいいだろう 殆どの人間がそうしている 何故お前たちはそうしない? 理由はひとつ 鬼狩りは異常者の集まりだからだ
(中略)
私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え
上記は、鬼の始祖である鬼舞辻無惨が鬼殺隊隊士に対して吐くセリフである。要するに、人間が何かしらの災難に遭うことは確率で決まっており、そこには何の意思も必然も存在しないわけなので大人しく傷を忘れて生きろ、それができない人間は異常だ、という内容だ。
かつて尊厳を破壊されるような災難に遭い、傷を負う私も、同じような言葉を言われたことが何度かある。「いつまでも過去について考えないほうがいいよ」「幸せな未来のことを考えろ」「完全な悪者はいないんだよ」――。
だけど…本当に?
本当に私が受けた傷はチャラになることがあるの?
本当にそれは「お互い様」で終わらせていいことだった?
本当に、許すことこそが人間の美徳で、「怒り」を忘れられない私は人間として異常なの?
そりゃあ、そういう考え方ができたら楽だろうとは重々承知している。世に完全な悪が存在しないことを理解しているくらいに私は社会を知っている。
ただ、だからと言って当事者である私がすべて許して忘却して生きるべき、とは絶対にならない。だって、私の傷はどんなことがあろうとも存在しなかったことにはならないから。忘れたつもりになってもその「火種」は私の中でくすぶり続け、いつか大火となって私を内側から焼き尽くすという強い確信がある。
だから、作品冒頭で「怒れ」と言われて私は安心したのだ。
怒れ 許せないという強く純粋な怒りは 手足を動かすための揺るぎない原動力になる
『鬼滅の刃』1巻 第1話
そして、この「怒り」は野蛮な感情の類ではない。
かつて自分を虐げた者に対し、何よりのリベンジになるのは自分が今幸せに生きること、だから怒りに身を任せるなみたいな言葉がよく言われる。そして、怒りの感情は野蛮であると。
しかし、それは不均衡にさらされた者の魂を殺す言説にもなりうるのではないか。だって、どうやって過去を忘れられようか?虐げた者は裁かれることもなく、過去にあったことを忘れて生きることもあるのに?
『鬼滅の刃』では鬼舞辻無惨が、鬼殺隊当主の産屋敷に以下のように勝ち誇る場面がある。
私には何の天罰も下っていない 何百何千という人間を殺しても私は許されている
この場面を読んだ瞬間、ああそう、そうだよね…、そうだった…世の中には不正義が放置されてうず高く積み上げられてるんだったと思った。許せない、許せるわけがない、どうやったら心から悔いてもらえるか、それが不可能だと知りつつも地団駄を踏むしかない。でも私がその人を許せないのも、どうか心の底から自分のやったことを実感して反省してほしいという願いもまた不正義なのではないかとぐるぐる考えがめぐりだす。
しかし、産屋敷は次のように返す。
この千年間鬼殺隊は無くならなかった 可哀想な子供たちは大勢死んだが 決して無くならなかった
(中略)
君は誰にも許されていない この千年間一度も
その罪が裁かれていないからこそ、私が許さないでいることが大事なのだと私は実感した。
そして、繰り返し読むうちに、それは単なる復讐心と全く同一ではないと納得することになる。炭治郎が鬼の響凱を倒したあと、響凱に「小生の…血鬼術は………凄いか………」と聞かれたときの返答でわかったのだ。
………凄かった でも 人を殺したことは許さない
響凱を認めつつ、彼の行動だけを許さない炭治郎の心の持ち方に、私が許さないから、ずっと「怒り」を忘れないからといって、復讐心に呑まれるわけではないのだと私は知った。
*主に1章の内容について掘り下げている批評がこちら*
2:愚か者の生存戦略
次に、共感している点ふたつめ「愚か者の生存戦略」である。
さてさて、「怒り」を肯定されただけではどうやって生きていけばいいのかわからない。私は「権利と選択肢」を手に入れるために、自分の人生を取り戻していかないといけなかったここまでの道のりを振り返る。
苦しい記憶を夢ではなく事実として認め、そして自分が虐げられたことに対する「怒り」を持ち始めてからの人生は、まさにのたうち回るという言葉がぴったりだ。ありとあらゆる扉をたたきまくり、自分の居場所を作るのに必死だった。というか、今ものたうち回っていると思う。そして結果的に、会社員と批評の両立という道を歩んでいる。
正直、ただでさえ血反吐が出そうな過酷な道だ。しかも、私は社会に出るにあたり、一度は破壊された心をありていに言えば”人並み”に持っていかないといけないという切迫感があった。しかし、あがく私の足元には闇のような泥沼が広がっていて、つねに私を引きずり込もうとしている。
私が感じている無力感は、『鬼滅の刃』では鬼と比べたときの人間のどうしようもない弱さに通じるものがあった。たとえば、人間を眠らせて夢を見させる血鬼術を使う鬼の魘夢は、次のように人間を蔑んでいた。
人間の心なんてみんな同じ 硝子細工みたいに脆くて弱いんだから
そして魘夢は「幸せな夢や都合のいい夢を見ていたいっていう人間の欲求は凄まじいのにな」とも言っている。その魘夢は、「幸せな夢や都合のいい夢を見ていたい」人間たちの感情を利用し、彼らを使い捨ての駒として扱っていた。
さらに、鬼殺隊炎柱の煉獄杏寿郎(※「煉」は作中では「糸」へんに「東」。以降同様)がまだ鬼殺隊としての歴が浅いときの前日譚「煉獄零話」でも同じような描写が見られる。この「煉獄零話」で煉獄は、笛の音色で人間の神経を狂わせる鬼と戦っている。その笛の罠に気づかずに死んでいった隊士たちの屍を前に、その鬼は以下のように煉獄に語り勝ち誇る。
不自由なものよなァ
(中略)
お前たち人間が日々重ねてきた鍛錬も 儂の笛の音ひとつで全て無駄 ひっくり返された虫けらのように狼狽えておる内に 犬に喰われて死ぬとは喃
このように、鬼と比べて人間は弱い。そして、それは身体的な弱さに限らず、積み上げてきた努力を強者に一瞬にして壊されうろたえるしかないような「愚鈍」という言葉でも表せるものだ。
そう、私は自分のことをずっと「愚鈍」だと思っている。だって、こんなに惨めにも這いずり回って、世間の「普通」とされている人たちに「いつまでも過去について考えないほうがいいよ」「幸せな未来のことを考えろ」って軽蔑されたのだ。私がどれだけ世界から自分の居場所を削り出すために切実に取り組んでいる批評だって、夢を見がちな女性のたわごとのように思われていたかもしれない。そんな愚かな私はいつか、どこかで「ひっくり返された虫けらのように」くたばって朽ちているかもしれない。
でも、炭治郎は魘夢に殺されなかった。彼は生き延びた。
それは魘夢が炭治郎に見せている夢の中で、現実に戻って戦う方法を彼が思いつけたからだ。その方法は「もう俺は失った!! 戻ることはできない!!」と夢の中で幸せな過去を振り切り、魘夢に昏倒させられるたびに何度も自らの頸を切って自害することだった。その炭治郎と同じように「煉獄零話」の煉獄は自ら耳を強打し、己の鼓膜を破ることで鬼の笛を無効化し、最後は鬼の頸を切った。
この世界で「愚か者」として道を切り開いて生きていくためには、自分の身や心を切る必要があるように私は思う。与えられる選択肢が少ないだけでなく、持てる「手」が限られているからこそ、その貴重な選択肢を掴むために手放さないといけないものが多い。
人生は選ぶことの繰り返し けれども選択肢は無限にあるわけではなく 考える時間も無限にあるわけではない 刹那で選び取ったものがその人を形作っていく
(中略)
どうしてもそうせずにはいられなかっただけ その瞬間に選んだことが 自分の魂の叫びだっただけ
これは笛の鬼と戦っている最中に煉獄が心の中でつぶやいていたセリフである。この煉獄の言葉を読んだとき、私は批評でまだ何の賞にも引っかかっておらず、その傍らで必死に会社員として社会に適応する日々を送っていた。読んだとき、私は「煉獄零話」が画面に出ている携帯電話を握りしめながら泣いた。今まで「自分の魂の叫び」に従って「その瞬間に選んだこと」によって手放さなければならなかったものたちを思って泣いた。そして、その言葉を人間を見下す鬼へのカウンターとして述べ、最後に煉獄が鬼の頸を切る描写でしめくくったことに私は打ち震えた。
そして、煉獄杏寿郎との戦いから逃げる鬼の猗窩座に炭治郎が言ったセリフは、自分の喉奥から出てくる叫びのような気がした。
いつだって鬼殺隊はお前らに有利な夜の闇の中で戦っているんだ!! 生身の人間がだ!! 傷だって簡単には塞がらない!! 失った手足が戻ることもない!!
私はいつもこの叫びを世界に向かって投げつけながら、愚か者なりの生存戦略――「自分の魂の叫び」に従って瞬間瞬間に選択を重ねること――をしている。
3:対抗としての身体の摩耗
最後のポイントが「対抗としての身体の摩耗」だ。「摩耗」であって「消費」ではない。前回と違ってちょっとフェミニズムの内容だ。
され、私は「怒り」を忘れずに、この世界から居場所を削り出すことを選んだ。先ほど書いたように、そんな私は大馬鹿者だと思う。それに、自分がどんどん浮世離れしていくのもわかる。結婚でもして誰かの特別という居場所でも作ればよかっただろうか。でも私はその生き方は選ばなかった。
なぜなら私は弱者は弱者でも、誇り高き弱者だからだ。
なんで私の手はこんなに小さいのかなあ なんでもっと身長が伸びなかったのかなあ あとほんの少しでも 体が大きかったら 鬼の頸を斬って倒せたのかなあ
これは、鬼殺隊の「柱」のなかで唯一鬼の頸が斬れない蟲柱胡蝶しのぶのセリフだ。彼女はかつて自分の両親を鬼に殺された経験から鬼殺隊に入っているが、体が小さすぎて鬼の頸が斬れないために鬼を殺す毒に特化した隊士だ。
このような「弱い」女の子を食い物にするやつがいるのだ。
えらい!! 頑張ったね!! 俺は感動したよ!! こんな弱い女の子がここまでやれるなんて 姉さんより才も無いのによく鬼狩りをやってこれたよ 今まで死ななかったことが奇跡だ
これは胡蝶しのぶが最後に戦った鬼である童磨の言葉だ。童磨は彼女の鬼殺隊としての技量にどうやら割と本気で感動し、自分を突き刺しにきた胡蝶しのぶの身体を抱きしめながら先ほどのセリフを言うのだ。そしてしのぶは自分が喰うにはふさわしい人間だと言い、もうボロボロになってしまったしのぶの身体を吸収しはじめる。
実際、可哀想な女の子の過去を食い物にし、可哀想だねえと言い、グルーミングをしてつけこもうとする男が少ない数でいるのを私は知っている。私も実際に「可哀想」「よく生きてこれたねぇ」と涙ながらに言われたことがある。このような男性は一瞬、かなりいい人に見えることがある。
しかし、個人的には勝手にこちらの過去に同情することで自分自身に存在価値を与えて己が何者かであるような錯覚をするのはご容赦願いたいのである。私よりずっと選べるものも多かった男性が、つねに下駄を履かされている男性が、その領域に軸足を置いたままで遊び半分でこちら側に同情するのは本当に失礼なことだ。私は男性の自己肯定感を上げるために生きているわけではない。
だから、しのぶが最期まで誇り高くいたことに私は共感を覚えたし、深く納得した。彼女は最期、いつもは穏やかに微笑んでいたのと打って変わって、般若のような顔をしながら次のように童磨に言い放った。
地獄に堕ちろ
正直、代わりに言ってくれてありがとうしのぶさん、という感じである。あの世で童磨とふたたび邂逅したときにまた彼女は童磨にかなり本気で口説かれ、一緒に地獄に行こうと言われるのだが、そのときも改めて「とっととくたばれ糞野郎」と罵るのだ。
そんな可哀想がる男性を退けるしのぶの戦い方は、自分の身体をまるごと毒にして鬼に喰わせることだった。「女の子なんだから身体を大事にしなさい」という世間で流布する言い草をガン無視する彼女の戦法、社会を維持するためではなく自分の実存のために女である自分の身体を摩耗させるしのぶの生き様にしびれた。そしてこれを少年漫画で描いた吾峠先生の執念を感じ、私も私で好きに生きて、世界への対抗として自分の身体を思う存分使い古してやろうと決意したのだった。
4:終わりに
と、私がそうはいっても『鬼滅の刃』が好きな理由を3つ挙げたが、まだまだ他にも好きなシーンがある。鬼の黒死牟に磔にされた時透無一郎がぜえぜえ息を切らしながら刀を自分の身から引き抜くシーン、そしてそれに続く壮絶な戦闘シーン。甘露寺蜜璃の居場所の見つけ方。煉獄杏寿郎が最期に見せた少年らしい笑顔。冨岡義勇の持つサバイバーズ・ギルト。鬼を囲うことで金銭を得る家に生まれた伊黒小芭内の屈折――。
しかし、それはまた別の機会に送る。もう少し言語を介さない領域で向き合いたい。それが終わったらまた『鬼滅の刃』について書こうと思う。
*主に1章の内容について掘り下げている批評がこちら*
角野桃花