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「さよなら絵梨」はクソ映画だったのか

 「チェンソーマン」「ルックバック」「ファイアパンチ」などで知られる藤本タツキ先生の新作読み切り「さよなら絵梨」が先日ジャンプ+にて公開された。その人気はすさまじく公開から2日足らずで200万PVを突破する勢いである。

 そんな注目の渦中にいる「さよなら絵梨」であるが、この作品の感想として「クソ映画だったわ」というものがTwitterなどでよく散見される。
(公開日の翌朝トレンドに「クソ映画」が入ったりもした)

 果たしてこの作品の感想を「クソ映画」の一言でまとめてしまっていいのだろうか。筆者はそこに疑問を抱き、今一度「さよなら絵梨」について考察をしていこうと思う。

 以下の考察には本編のネタバレを多く含みます。
 ご了承の上、閲覧よろしくお願いします。






主人公、優太の抱える「真の問題」とは何か。


 母の死ぬまでの記録を20分の映画に編集した劇中劇「デッドエクスプロージョンマザー」でバッシングを受け、一時は自殺しようとしていた優太。
 後に彼は自分の抱える問題は「映画をバカにされたこと」ではなく「母の死を撮らず逃げ出したこと」ではないかと考えた。

 しかし、彼は絵梨が死ぬまでの記録を編集した劇中劇「さよなら絵梨」を公開し「バカにしてきた奴らをブチ泣かし」「絵梨の死を逃げずに撮りきった」にもかかわらず部屋に引きこもり、「さよなら絵梨」の再編集にのめり込むようになってしまった。

 つまり、優太の抱える問題は上記の二つのうち、どちらでもなかったということだ。

 作中では引きこもった原因は「さよなら絵梨」に「ファンタジーがひとつまみ足りなかった」ためであると述べられ、今回我々の前に日の目を浴びた再編集版「さよなら絵梨」は爆発オチで幕を閉じる。

 さて、果たして本当にこれで優太の抱える問題は解決したのだろうか。

 筆者はこれに対し『』であると考える。

 そう考えた根拠をこれから述べていく。

〇本編で語られた優太の本音

「僕は目の前の問題を客観的に見てしまう癖がある」
本編169P

家族を事故で亡くした優太がカメラに向かって、自分の過去を振り返るシーン。そこで彼は上記の発言をしている。

 筆者はこの発言には優太が語った自身の問題点「母の死を撮らず逃げ出したこと」とは本心ではなく、自分の問題点を客観的に探したときに、そうでありそうと思った事柄なのではないかと考えた。

 だからこそ、「絵梨の死を逃げずに撮りきった」にもかかわらず心にわだかまりが出来てしまったのではないだろうか。


 では次に、彼が自分を客観視せずに本心がこぼれ出たシーンはどこかなかっただろうか探してみることにした。
 すると以下のシーンがそれに該当するのではないかと思われた。

「ラスト…ラストなんで爆発させた?」
「……最高だったでしょ?」
本編28P

 これは劇中劇「デッドエクスプロージョンマザー」の終幕に疑問を覚えた先生との会話である。

 これがもし優太が自身を客観視したうえでの発言だとするならば、会場が盛り上がっていなければ「最高」などとは言えないのではないだろうか。

 つまり、優太は自身の母が入院してる病院を爆発させることに対して、「最高」という感情が芽生えたということになる。

 では次に、この感情の起因となった事象は何かについて考える。

仮説1
ファンタジーをひとつまみした映画の結末に感情が高ぶった。

仮説2
虐待を行う母親を爆発させることでスカッとした。

仮説3
抑圧されてきた母親から自分の意思で逃げることが出来て、自由になれたと感じた。(爆発はその感情の比喩表現)

 上記3つの仮説を打ち立てたが、筆者は仮説3が優太の心境にあっているのではないかと考える。

 優太は抑圧から自力で脱出を果たし清々しい気分になれたことを周りに祝福されたかったのではないか?

 だからこそ、感想が母親の死に寄り添ったバッシングの嵐だったことが精神的に辛く自殺をしようと考えたのではないだろうか。

 そんな中、絵梨だけは彼の映画をバッシングしなかった。
それどころか、以下のような感想も発している。

「あの映画では良い話の様に進んでたけど
 中学生の息子に死ぬ所を撮らせようとするなんて残酷なことじゃない?」
「だから優太が病院から逃げて爆発したときにスカッとした」
本編80P

 時系列は前後するが優太が自殺を思いとどまったのは、自分のことを理解してくれる絵梨がいると気付いたからなのではないだろうか。
 だから優太は絵梨に惚れたのではないだろうか。

 さて、今の考察を読んで時系列が前後することに異を唱えたい者もいるだろう。それに対しては作中に映った「絵梨」という人物について考えることで補完しようと思う。

〇作中に映された「絵梨」という人物

「あのさ……」
「絵梨ってさメガネかけてたよね?」
本編156P

 これは劇中劇「さよなら絵梨」公開後、優太と絵梨の共通の友人から投げかけられた言葉である。また、この後にも劇中劇に映った「絵梨」と現実の絵梨には大きく乖離があることが明かされる。

 さらにこの事実が明かされるのが、映画公開後であったことから、普段の学校生活ではここで語られるように「眼鏡をかけて歯の矯正をした自己中な嫌な女」であったと察することが可能だ。

 このことから、劇中で映された「絵梨」という人物は全てフィクションの中の人物であることが分かる。

では劇中劇「さよなら絵梨」とは「誰が何のために」撮影したものなのだろうか。

 これは、作中で語られていたように、「記憶を定期的に消去することで永らえる吸血鬼の絵梨が理想の自分を残すため」に撮影されたものだと思われる。

 劇中劇「さよなら絵梨」では優太がシナリオを考えたように書かれていたが、果たしてそれも事実なのだろうか?
 自己中ですぐキレる絵梨の指示でそういう演技をしていたにすぎないのではないだろうか?
 ここに関しては明確に判断できる材料がないため、深堀はしないことにする。

 筆者の考えとしては、全体のプロットを絵梨が作成し、実際にお互いが感じたことをセリフに落とし込んで作られたモキュメンタリー作品なのではないかと考える。

ここから先の考察でも上記の考えが正しいと仮定して話を進めていく。


さて、では一旦ここで今回の考察における絵梨と優太の関係を時系列順に並べてみることにする。

「デッドエクスプロージョンマザー」公開。

(ここから推測)

バッシングの嵐に自殺も考える優太であったが、絵梨からは好評を得ることができ、踏みとどまる。

上記の出来事から優太が絵梨に好意を持ち、告白するもフラれる。

絵梨が自分の死期を悟る。

絵梨が優太に私を主人公にした映画を撮るように言う。

(ここまで推測)

劇中劇「さよなら絵梨」撮影。

 上記のように時系列順に並べ、実生活の絵梨の性格を理解すると、1つデジャブに似た感覚を覚える箇所はないだろうか。

死期を悟り動画を撮って欲しいと優太に頼む。
 自分の映りに異様なこだわりがある。
 自己中心的な嫌な女。


 もう皆様お気づきの事だろう、

絵梨と優太の母親は性格、行動ともにとても似通っているのである。

 絵梨という人物は劇中では優太を救う可憐なヒロインとして映されていたが、その実、優太の人生を狂わせた母親の焼き直しに他ならないのである。

 だからこそ、優太が劇中劇「さよなら絵梨」で「絵梨の死を逃げずに撮りきった」という事実は、「デッドエクスプロージョンマザー」で「母の死を撮らず逃げ出したこと」という問題を完全に乗り越えたに等しい。

 しかし、それを持ってしても優太は引きこもってしまった。

 このことからも、優太の抱える真の問題が「死を撮らず逃げ出したこと」ではないということが分かる。

 では次に、「真の問題」とは何なのか、長くなってしまったが、ようやく底に踏み込んでいこうと思う。

○優太の「真の問題」そして…

「映画の中のお母さんは…!」
「綺麗な部分しか見えなくて…」
「良いお母さんだった…」
本編129P
「あの絵梨さ……ちょっと美化しすぎ」
「うん」
「だけど……私これからあの絵梨を思い出す」
「ありがとう」
本編158-159P

 上記の二つは「デッドエクスプロージョンマザー」を見た父親の感想と劇中劇「さよなら絵梨」を見た共通の友人からの感想である。

 この二つの共通点として、「故人の良いところも悪いところも知っている」というのがある。
 それを踏まえたうえで、両人とも「良いところだけを抜き出した」映画に対して感謝を述べている。

 果たして、この感想は優太にとって嬉しいものだったのだろうか。

 優太の自殺を思いとどまらせた絵梨の感想は、
ただ映像を撮影している舞台装置の一部であるはずの「優太」に対するものであった。

 それに対し、この二人の感想は、
優太を映像を撮影する舞台装置の一部とし、「故人」に対するもの
である。

 この対比こそ優太の抱える「真の問題」を浮きぼらせる重要なファクターなのではないだろうか。

 また、共通の友人から上記引用の感想を告げられた次のページでは、
「優太の母のカット」が差し込まれ、その後「悲しい表情を浮かべた優太」の姿が描かれている。

 このことより、優太は「死を撮らず逃げ出したこと」を選んでも、
「死を逃げずに撮りきること」を選んでも、
自分は「被写体を美しく表すカメラマンに過ぎない」ことを、
悟ったのではないだろうか。

「映画のタイトルは母親なのに一番魅力的だったのは優太だった」
本編80P

ただ、絵梨だけが優太のことを見ていたのだ。


 このことから、優太が抱える「真の問題」とは、

「映像を撮影する者としてではなく、自分に注目して欲しい」
という何とも幼い願望を自分の中に押さえ込んでしまっていることではないだろうか。

 そう思ってみてみると「デッドエクスプロージョンマザー」の幕引きを爆発を背景に優太が画面に走り寄ってくるという構図もまた違って見えるのではないだろうか。

 だから、好評を博した劇中劇「さよなら絵梨」の映画に何か足りないものを感じてしまったのではないだろうか。

 しかし、劇中劇「さよなら絵梨」をいくら再編集しても自分に注目が集まるように作るのにはカットが足りなさ過ぎたのだ。

 初めて自分のことを注目してくれた「眼鏡をかけて歯の矯正をした自己中な絵梨」もそのフィルムには映っていないのだ。

「前の私がどういう人間か…映画が教えてくれた」
本編187P

 そして、その「眼鏡をかけて歯の矯正をした自己中な絵梨」というのはもう二度と会えない存在になってしまった。

 上記のセリフを蘇った絵梨が告げた後、優太は俯き気味に暗い表情を浮かべる。それまでの表情は「驚き」が主だったにもかかわらずにだ。

 そして、そんな絶望に暮れる優太に蘇った絵梨は追い打ちのようにこう続けた。

「前の絵梨はきっと絶望していたと思う…でも大丈夫」
「私にはこの映画があるから」
「見る度に貴方に会える…
 私が何度あなたを忘れても何度でもまた思い出す」
「それって素敵なことじゃない?」
本編190-192P

 あの時、好きだった絵梨はもう二度と現れる機会を失い、
何度再編集しても自分が主人公になれない映画を見て新たな作り物の絵梨は転生する。
 そこに映る優太は、ただの撮影者に過ぎないのに。

 だから、優太は絵梨と映画を見るのを拒否したのだろう。

 だから、「さよなら……」なのだろう。

 だから、優太と絵梨が会うことはないのだろう。

 そこにもう自分を見てくれる人はいないから。

 だがしかし、蘇った絵梨は一つの救いを優太に授けていた。
それこそが「ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?」という助言だ。

 自分を客観視してしまい、自分の本心にも気づけない優太にとってこの一言は自己をアピールする免罪符になりえたのだ

 その免罪符を使って再編集した作品、

 爆発する廃墟を背景にこちらに歩を進める優太、

 それこそが、今回我々が見た「さよなら絵梨」に隠された全貌なのではないだろうか。


 最後にタイトルにつけた
『「さよなら絵梨」はクソ映画だったのか』について筆者なりの回答を残してこの記事を締めくくりたいと思う。

 確かにこの作品を一見すると、
爆発オチだし、そんな長々とページを取ってまですることか?と
思ってしまうかもしれない。
その思い込みから「クソ映画」という単語を結び付け、発信するのは簡単だ。
 だがしかし、登場人物の表情や機微、映されていない箇所にまで目を向けたとき、そこにあるのは果たして本当に「クソ映画」だったのだろうか?

 今回のこの記事を読んで、
本編を見返してやっぱり「クソ映画」じゃないなと思った方がいたのなら、
是非その時の気持ちを文字に起こして発信してみて欲しい。

 なぜなら、優太の問題はいまだ未解決であり、
この作品はまだ完結していないとも言えるからだ。

 きっと、優太は今もまだ、感想の中に

「映画のタイトルは絵梨なのに一番魅力的だったのは優太だった」

というものを探しているはずだからだ。

 終幕———・・・!


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