パラスポーツの奥深い世界
この開会式のどこが賞賛される?
パラリンピック東京大会が始まっている。
開会式を見たが、あまりにもひどくてコメント不能だなぁ。
とにかく無意味に長い。グダグダ、ダラダラ、中身薄っぺら。ショーをやるなら、もっとカチッとしたものを淡々とやってほしい。
うわべだけの「多様性」とか「偏見や差別のない社会」とか、そういうのを詰め込もうとしているのだが、付け焼き刃、上滑りで、「ショー」としての質を高められないまま、時間切れでご披露しました、という感じ。
内容や演出のあちこちに「これを出しておけばOKだろ」的な安直さが透けて見えて、気持ちが悪かった。
そもそも「障碍」をここまで強調する演出が必要なのか? いろんな人が集まって、普通にやることでこそ「多様性」があたりまえ、という世界が近づくだろうに。
「片翼の飛行機少女」というのも、あまりにも前時代的、ステレオタイプな発想で、ネットなどで炎上するんじゃないかと思ったら、メディアには「一本筋が通っていて、コンセプトが明確だった」だのなんだのと持ち上げる記事があふれてて、駄目押しでやりきれなくなってしまった。
「思いやり」のなさにも腹が立った。頭にタケコプターつけた人たちはボランティアだと思うが、あの長時間、ずっと手を振り、身体をくねらせ続けて、なんたる苦行か、誰か倒れてしまうんじゃないかと心配になり、見ているだけで疲れてしまった。
ただ並んで、一様に手を振って踊れ、というのは、演出する側がな~んにも考えてない、ってことと同じ。踊ってる人たちも、言われたことをやらされているだけでは気持ちが込めにくいだろう。本当に気の毒だった。こういうことを平気でやらせる無神経さは、大量の弁当廃棄問題などにも通じていると感じる。
さらには、この人たちはボランティアとバイトが混じっているのかなあ……などということまで考えてしまう。これまで組織委が重ねてきた数え切れないほどの不始末・不誠実・無責任事件のせいで、素直に見られなくなってしまっているのだ。組織委の上層部や、彼らを引っかき回した政治家や企業は本当に罪深い。
参加者たちに「歓迎」の意を表すにしても、もっとやり方はいくらでもあるだろう。
例えば、入場してくる国・地域ごとに、その国・地域を応援したいと申し出た人とか、つながりのある人が1人あるいは数人で代表して、手作りの応援グッズを持って駆け寄り、一緒に行進するとか。
心の込め方はいくらでも工夫して見せることはできる。
中継放送したNHKのやる気のなさもひどかった。
長い時間かけて選手入場してくる際に、ほとんどの国に対して、どんな競技に参加しているのかとか、何も説明しない。 ギリシャなんか「ギリシャです」で終わり。
心がこもっていないのよ。ここに来るまで大変な努力をしてきた選手たちへの尊敬の念がない。
改めて考えさせられた「クラス分け」の難しさ
この「心のこもっていない入場行進中継」で、ひとつ「え?」と思ったことがあった。
「○○選手の1500mの記録はリオ五輪の優勝記録より速いんです」という一言解説が耳に入ったときだ。
トラック競技で、パラリンピックの記録がオリンピックの記録より速い? それはすごいではないか、と。
で、調べてみた。
9月11日に行われたリオデジャネイロ・パラリンピック、陸上男子1500メートルT13(視覚障碍のクラス)では、アルジェリアの双子ランナーであるアブデラティフ・バカ(Abdellatif Baka)がパラリンピック新記録で優勝した。しかし、このレースでは優勝タイムよりも話題になっているものがある。双子の弟で、4位入賞を果たしたフォーダ・バカ(Fouad Baka)までの4人が、リオデジャネイロ五輪で金メダルを獲得したマシュー・セントロウィッツ(Matthew Centrowitz、米国)を上回るタイムを記録したのだ。
(パラ陸上男子1500mで珍しい現象、4位までがリオ五輪優勝タイム上回る AFP BBニュース 2016/09/14)
↑どうやら、これのことらしい。
このときの映像がYouTubeにUPされていたので見てみた。⇒こちら
パラリンピックの陸上競技の上位4人が、同じ年の五輪の優勝者より速かったということで話題になったが、これは五輪のレースが極端な駆け引きレースで序盤が超スローペースになったための結果だから、障碍者選手が健常者選手より速いという話ではない。
それはそれとして、この動画を見て不思議に思ったのは、「ちゃんと見えてるよね」ということだ。
みんな普通に走っているし、ゴール後、バカ兄が国旗を渡されて受け取るシーンなども、なんの違和感もない。ちゃんと見えているようだ。
で、さらに調べると、このレースは「視覚障碍T13」というクラス。
T13の視覚障碍とは、
視力0.04以上0.1まで、または視野直径10度以上40度未満
だそうだ。
視力0.1というのは私の裸眼視力とほぼ同じだ。だから、私が眼鏡を外したときの状態はこのT13に該当するということだろうか。
であれば、あの違和感のない走り方やゴール後の普通の行動も頷ける。視界はぼやけてはいるが、十分に周囲の状況は確認できるからだ。
視力0.04~0.1よりも、視野が狭いほうがハンディとしてはきつそうだ。
優勝したバカ選手がどの程度の視覚障碍なのかはよく分からないが、「見える」ことには変わらない。
であれば、1500m 3分48秒29という記録は驚くようなものではない。
男子1500mの世界記録は3分26秒00(ヒシャム・エルゲルージ)で、これより22秒遅い。
女子の1500mの世界記録は3分50秒07(ゲンゼベ・ディババ)で、これといい勝負。
先日の東京五輪での女子1500mの優勝記録は3分53秒11(キピエゴン)で、8位入賞という快挙だった田中希実が準決勝で出した日本新記録が3分59秒19。
この記録がどのくらいすごいのかというのを体感するためにユーチューバーのたむじょーが37℃の猛暑の中を田中と同じラップを刻んで走ってみせた動画も見てみた。⇒こちら
たむじょーの1500m自己ベストは3分50秒00だそうだ。この動画では途中までピッタリ同じで走ってみせて、最後は田中の記録を上回る3分57秒でゴールした。男子選手としてのメンツを保ったたむじょーだが、バカ兄の3分48秒29というのは、このレベルの記録に近いということだ。
う~~~ん。どうなんだろう。
視力0.1の選手と一般の選手を「区別」する必要ってあるのだろうか?
例えば、眼鏡をかけると視力1.0だが、外すと0.1になる選手が眼鏡を外して走れば、T13クラスのレース相当になるのだろうか? その場合、眼鏡をかけて走ったときよりも記録が遅くなるのだろうか?
考えれば考えるほど、う~~ん、となってしまう。
何か他に特別な理由があるのなら、ぜひ知りたい。
そのへんが詳しく説明されることがないのも、なんだかタブーになっているような感じもあって、モヤモヤする。
義足の威力?で8m62??
陸上競技の場合、車椅子やスポーツ義足などの装具によって一般の選手よりもいい記録を出すという現象がある。
車椅子マラソンの世界記録は1時間20分14秒で、キプチョゲ選手のマラソン世界記録(2時間1分39秒)より40分も速い。
走り幅跳びでは、ドイツのマルクス・レーム選手(片脚が義足)が持つ世界記録は8m62で、2021年6月1日パラ陸上ヨーロッパ選手権で出した。
これはその2か月後に行われた東京五輪の走り幅跳び優勝記録8m41をしのいでいる。
レームは健常者と同じようにオリンピックや世界陸上に出場させろと訴えているが、認められていない。
かつて、両脚義足のオスカー・ピストリウス(南アフリカ)がロンドン五輪に出場した例がある。
ピストリウスの自己ベスト記録は、
100m 10秒91(2007年)
200m 21秒30(2012年)
400m 45秒07(2011年)
だ。
ロンドン五輪前の北京五輪のときは、400mで出場を目指していたが、国際陸上競技連盟(IAAF)が義足が有利に働くとして認めず、その後、スポーツ仲裁裁判所(CAS)はIAAFの判断を覆して認めた。ただ、このときは参加標準記録を破れずに出場できなかった。
ピストリウスはその後、殺人容疑で逮捕されたり、ドーピング疑惑が持ち上がったり、とにかく話題を提供するのにいとまがなかった。
で、走り幅跳びのレームだが、今回の東京五輪では出場が認められなかったわけだが、出ていれば優勝していた可能性は高く、これまた議論を呼び起こしただろう。
国際陸連は厚底シューズの規定も厳格に決めて、用具による不公平をなくそうとしている。バネそのもののような義足をつけた選手の記録を一般の記録と同列には見られないというのは仕方のないことだ。
このレベルになると、そもそも「スポーツ選手の頂点」とはなんだろうという疑問にぶち当たる。
柔道やレスリング、重量挙げなどは体重別のクラス分けがあるが、陸上にはない。脚の長さ別のクラス分けなんてあれば、ずいぶん印象が変わるのだろうが、そうなると興味が薄れてしまう面もあるだろう。陸上競技は体格なども含めて「超人」を見てみたいという興味で観戦するファンが多いから。
そういえば、走り高跳びを「身長差」で競ったら……というのも、誰もが思うけれど、あまり真剣に議論されないなあ。
それをヒントにして小説を書いたこともあったっけ。
両手両脚に欠損がありながら100m自由型1分21秒58
かと思うと、水泳競技ではまたずいぶんと印象が変わる。 今回のパラリンピック東京大会水泳で、自由型100m S4(運動機能障碍)クラスで2008年北京大会以来13年ぶりに優勝した鈴木孝幸選手は、生まれつき四肢が欠損している。
右腕は肘から先がなく、左手はあるが指は3本(うち1本は短い)、右足は根本付近からなく、左足は膝上からない。パッと見、左手一本だけで泳いでいるように見える。
最後まで競り合った2位のイタリアの選手は、映像で見る限り、両脚は動いていないが、長い両手でしっかり水をかいているので、この2人が同じハンディでいいのかな、とも思ってしまう。
水泳でのクラス分けは、Sは自由型、背泳ぎ、バタフライ。SBは平泳ぎ、SMは個人メドレーで、運動機能障碍は1~10まであり、数字が小さいほど障碍が重い。
4は「体幹と両下肢の動きに重度の障碍があり、両手にも障碍があるかまたは手足の欠損がある」というクラスだそうだ。
両肩で大部分の力を出して推進力に変える、ということなのだが、これで100mを1分21秒58で泳ぎ切るのだから驚くしかない。
障碍者「専用」の競技?
水泳競技は装具なども使わないから、純粋にハンディを負った人が健常者と同じ種目に挑戦する、という性格のものだ。
一方で、ボッチャやシッティングバレーボールのように、障碍者のために考案された競技もある。
こうした競技の場合、健常者が同じことをやって障碍者に負けることはいくらでもありえるだろう。実際にそうした「交流戦」的なものは普通に行われているのだろうか?
また、アーチェリーなどは、一般のアーチェリー競技のほうに「シッティング(座って矢を射る)」という種目を追加すれば、健常者と車椅子選手が一緒に競い合うことができるはずだ。
そういう方向にも進んでいけたらいいのに、と思う。
……とまあ、こんな風に、パラスポーツというのも、少し考えただけでも、いろいろ複雑で、奥深い問題を含んでいるのだなあ……ということが分かったことが、今回の収穫だろうか。
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