情報宗教と集団心理
ここ1年くらいずっと「情報宗教」というタイトルで1冊書けないかと思い続けてきた。
宗教には何段階かの変遷がある。
1)自然信仰
科学技術が発達していなかった昔、人が生きるためには自然を上手く利用する必要があった。土や水、草木、太陽の光と熱、自分たちが生きているこの自然環境を観察し、五感をフル動員させて自然の摂理を学び取り、どうしたら凍えないで済むか、食料を得られるかを考えなければいけなかった。
その中で、人は自分たちの能力の限界を知り、この世界は人知を超えた「何か」によって作られていると感じるようになる。生き物も土や石のような無生物も、その「何か」に含まれている一部である。逆に言えば、あらゆる物質には「何か」が作った秩序や美が内包されている。
その「何か」がどんなものかはいくら考えても分からない。だから「神」とでも呼んでおこう。「神」の秩序に逆らって生きることはできない。
……この段階の「宗教」が、世界の実相を素直に見ていて、邪念による加工がされていないという点では、最も優れた宗教だったのかもしれない。
2)思索宗教
人はなぜ生まれ、死ぬのか。この世界はどのようにして生まれたのか。時間の始まりと終わり、宇宙空間の果てはどうなっているのか。
誰もが抱く疑問への答えを模索する中で、様々な考え方を言葉にまとめていく者が現れる。ブッダはその代表だろう。
いわゆる哲学者と呼ばれる人たちの思想が「教え」としてまとめられていくと次の「創作宗教」につながり、信仰の対象にもなりえるが、それらは個人の思索が土台になっており、集団をコントロールすることを第一の目的とはしていない。
3)創作宗教
人はひとりでは生きづらい。集団を形成して仕事を分担したり、協力して大きな力を使ったほうが効率よく生活ができる。
家族が集まり、村が形成され、村が集まって地方組織が作られるようになると、人はひとりになることを恐れる。
構成員を統率するリーダーが必要になる。そのリーダーは権力を持ち、集団を動かさなければならない。
動かされる人々の間には能力や地位における格差が生じ、その不平等や不条理を巡って憎しみや争いが生じる。
そうした争いや混乱を収めるために強者が物理的な力で従わせるだけでは、物事が円滑に進まない。そこで、集団をまとめ上げる心理面で使える強力な道具としての宗教というものが作り出された。
不条理に苦しむ者たちは、現世での苦しみの向こうに永遠に続く平安があるという信仰によって苦痛を軽減し、行動原理を単純化していった。
これにより、権力者にとっては大衆の支配がしやすくなり、自分の権力を強化するために大衆を効率的に動かすこともできるようになった。
これらは人間が作った道具なので「創作宗教」とでも呼べるものだ。
創作宗教はより多くの信者を獲得することを目指して変異していくので、影響力は思索宗教の比ではなく大きい。
4)科学信仰
石油文明の時代になり、科学技術が急速に発展すると、その威力によって社会生活が激変した。
これこそが人間と他の生物を決定的に分けているものであると信じた人々は、科学的知識や技術によって説明できないものはない、説明できないのであればこれから発見すべきであるという「信仰」を持つようになった。
巨大化した創作宗教がどんどん世俗化し、その教えも陳腐化、劣化したこともあって、科学信仰は創作宗教の保守的価値観を徐々に突き崩していった。
5)情報宗教
通信メディアが発達すると、誰もがテレビなどを通して届けられる情報をすべて鵜呑みにするようになった。
メディアが巨大化すればするほど、新しい「社会常識」を作り出せる。
「常識」を作り出せる者たちは、従来の創作宗教や科学信仰ですでに証明されている人間のコントロール方法を駆使し、あたかも社会正義、社会倫理であるかのように大胆な嘘をつき、大規模な犯罪を実行することもできるようになった。
情報宗教における嘘は、高等教育を受けた者ほど見抜きにくい。自分は情報強者だと信じているからである。
また、情報宗教は創作宗教、科学信仰などとの親和性が高く、共存する。結果、現代では圧倒的な影響力を持つ。
……とまあ、こんな感じのことを一冊にまとめようとしているのだが、世の中の情勢がめまぐるしく変動し、それこそ情報を追いかけ、その真偽を見極める作業が大変なことになってきていて、追いつかない。
自分の脳みそも時間と共にどんどん劣化していくし……ねえ。