タヌキの親子見聞録 ~萩往還編~ 外伝 参 藍場川散策
萩往還第4弾 明木市~唐樋札場跡 の時に、歩くのが精いっぱいで、よく見ることができなかった藍場川を散策してみた。
藍場川とは、18世紀半ば 6代藩主毛利宗広が、参勤の折に岡山城下に立ち寄った際、岡山城下で瀬戸内海に注ぐ吉井川から、城下へ倉安川という大きな溝を掘って水を引き入れ、生活に活用されていたのを真似て、延享元年(1744)、農業用水路程度であったものを川舟が通れるように大きく開削したもので、2.6キロメートルにわたり市内を縫うように流れている。
萩市では、大川(松本川)より水を引いたので、それに対して溝川と呼ばれ、農業用水をはじめ防火用水、川舟による物資の運搬や水害時の水はけに利用された。その後、藩営の藍玉座が設営され、そのため川が藍色に染まり、いつの間にか藍場川と呼ばれるようになったといわれている。
桂太郎は、弘化4年(1847)萩城下平安古に生まれ、3歳の時に藍場川沿いの家へ移り住んだ。藩校明倫館に学び、戊辰戦争では参謀として活躍。明治維新後は陸軍に入り、明治31年(1898)に陸軍大臣となった。明治33年(1900)には現在の拓殖大学を創設し、国際社会で活躍できる人材の育成にも力を注いだ。明治34年(1901)以来、3度にわたって首相を務め、大正2年(1913)に67歳で没した。
現存する旧宅は、少年時代を過ごした地に、明治42年(1909)に新築されたものである。この家は、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために作られている。藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園には桂太郎公銅像が建っている。また、縁側には水琴窟(すいきんくつ)があり、澄んだ音色を楽しむことができるということだ。
ゆっくり萩を歩くと、猛暑の中でも涼を感じることができ、騒がしい日常から離れて、静かに風情のある時間を過ごせることがわかった。