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「君たちはどう生きるか」に対する答え

「君たちはどう生きるか」
 私はこのタイトルに惹かれて、映画館に足を運びました。どう生きればいいのか、その答えの提示を期待していました。ですが、見終わっても答えは見つからず、よく分からないままモヤモヤとした日々を過ごしました。
 しかし、太宰治の随筆「ア、秋」をたまたま読み、この映画タイトルの問いに対する発見があったので皆様と共有したいと思います。(映画に対する若干のネタバレを含みます。あくまで個人的な解釈であるということもご了承下さい。)

 突然ですが、皆様は「秋」をどう表現しますか?秋の意味を辞書で調べると、『夏と冬の間で日本では9・10・11月をいう。』と出てきます。ですが、それだけでは物足りない、「秋」を全て表せていないように感じますよね?

 太宰の随筆「ア、秋」では、自分(太宰)の頭の中にある辞書で「秋」を調べると

 トンボ。スキトオル。と書いてある。
秋になると、蜻蛉も、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子。蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。
……
 コスモス、無残。と書いてある。
いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢うと、私は、それと同じ痛苦を感じます。秋の朝顔も、コスモスと同じくらいに私を瞬時窒息させます。
 秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。..(以下略)

太宰治「ア、秋」

と書かれているとしています。

 つまり「秋」という言葉は、枠組みや輪郭に過ぎない、見出し語のようなものと言えるのです。人間が理解しやすいよう分かりやすくまとめられた、パッケージのようなものです。そして、『「トンボ。スキトオル。」「コスモス、無残。」「秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。」』もまた、その中にある見出し語や目次のようなものと言えます。

 映画の話に戻りますが、宮﨑駿監督は「秋(どう生きるか)」を映画で表現する際に、縦に深く、つまり一つの要素である「トンボ。スキトオル。」を深掘りして説明していく(随筆では「秋になると、蜻蛉も~」の部分)のではなく、横に広く、『「トンボ。スキトオル。」「コスモス、無残。」「秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。」』の部分をまとめて表現した方が「秋(どう生きるか)」をより正確に伝えられる、表現出来ると考えたのではないでしょうか。
 これはピカソの作品「泣く女」で用いられた表現方法、キュビズムに近いと感じます。キュビズムは被写体を複数の視点や面から描く手法で、抽象化された形で異なる視点や時間の経過を同時に表現出来ます。
 つまり、大まかに言えば横の要素を繋げて一つの物語にした作品が「君たちはどう生きるか」ではないかと考えます。宮﨑駿監督自身の中では、その横の要素一つ一つが、深い縦の要素と結びついて理解されているのだと思います。一つ一つを経験や物語を通じて、文脈として理解しているということです。
 または、理解は出来ていないが、感覚として存在しているものもあるのかも知れません。太宰の随筆「ア、秋」の続きでも次のような文章が出てきます。

 怪談ヨロシ。アンマ。モシ、モシ。
 マネク、ススキ。アノ裏ニハキット墓地ガアリマス。
 路問エバ、オンナ唖ナリ、枯野原。
よく意味のわからぬことが、いろいろ書いてある。何かのメモのつもりであろうが、僕自身にも書いた動機が、よくわからぬ。
……
 芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ。 
ちっとも秋に関係ない、そんな言葉まで、書かれてあるが、或いはこれも、「季節の思想」といったようなわけのものかも知れない。

太宰治「ア、秋」

 映画のラストでは、主人公は石を持って帰ります。これは、その石が「どう生きるか」を構成する横の要素の一つであると捉えることが出来ます。つまり、第三者目線で見ればただの石ですが、主人公(眞人)からすれば、深い縦の解釈と結びついている訳です。それは人間が発達した脳を持つ、考える葦であることを表していると思います。外側の世界で物理的な現実として存在している石に、内的世界で意味づけをしながら生きている。それが人間ならではの性質であり、どう生きるかを考えてしまう理由でもあります。考える葦であるからこそ、善悪が存在し、喜びや悲しみも感じるのです。

 まとめると、この映画は宮﨑駿監督にとっての「どう生きるか」、「生きること」を表したものではないでしょうか。それは、太宰治が「ア、秋」で「秋」に対する捉え方を表したように。そして「どう生きるか」、「生きること」は広く深い解釈によって浮かび上がってくるということです。それらは経験や知識によって育まれます。映画や物語もその中の一つになるのではないでしょうか。

 私はこの映画を見て、太宰の随筆を読んで、「どう生きるか」について一つの答えを求めたり、一つの答えに囚われるのではなく、多様な経験や知識、映画や物語などを通じて、心の畑を豊かに耕し、自分なりの芽を育てていくことが大切だと思いました。

 主題歌である米津玄師さんの「地球儀」は、宮﨑駿監督のことを歌っている曲なのかも知れません。地球儀を回すように、それは世界のことを深く考えるように、思いを馳せていく。自分が感じてきたことを描いていく。あらゆる物事について考える手間暇を惜しまない生き様、人間は考える葦である、ということへの讃歌のように聞こえました。

(太宰治の随筆「ア、秋」は5分以内で読める作品ですのでぜひ読んでみてください。青空文庫で無料で読めます。)

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