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熱海の鄙びた温泉で

 清水の祖母の家に行った帰路で、熱海に立ち寄った。向かうは「日航亭」。昔ながらの日帰り温泉施設。源泉掛け流しの熱めの湯で、露天風呂もある。畳敷きの休憩所もあって、風呂上がりにビールを飲みながら雑誌をめくったりして、だらだら過ごすのにもうってつけのお気に入りの場所だ。

 その日は、雨が降っていた。ちょっと疲れていたこともあり、タクシー乗り場に行くと行列。ふと嫌な予感がしてスマホで営業を確認すると、なんと、「閉業」の文字……。しつこく何度も見直したけど、営業時間外ではなく、間違いなく閉業と書いてある。建物の老朽化に伴い、2023年の11月をもってその歴史に幕を下ろしたらしい。

 ショックだった。熱々の湯に浸かれないだけでなく、あの畳敷の休憩所でビールも飲めないし、うたた寝もできないのか。はぁ。夫に伝え、2人で意気消沈した。

 目的は失ったがせっかく駅を降りたので、喫茶店でコーヒーでも飲もうと、駅から坂を下り商店街を出たところにある小綺麗な喫茶店に入った。

 コーヒーを飲みながら、「あんなに良いところだったのにもったいないね」「市が運営すればいいのにね」などと話す。

 本当に名残惜しい。ただその日は寒かったので、私は「やっぱり温泉に浸かってから帰りたい!」という意思が強くなり、シブめの温泉施設かないか調べて、出てきたのが、「龍宮閣」。写真を見てすぐに、「あ、あそこか」と思った。それは熱海駅でも最も多くの人で賑わう土産屋が並ぶ駅前の商店街を出てすぐの場所にある鄙びた雰囲気の温泉宿で、熱海をぶらついたことがある人なら一度は通ったことがあるような立地にある。そっか日帰り温泉もやってるけど、入ったことがないな、と思った。

 龍宮閣は喫茶店から2分くらいの場所にあった。入ると、男性3人の先客がいたのだが、主人らしき人が、今空いている湯船は3人では狭いのでごめんなさいと断りを入れて、私達を先に通してくれた。

 建物は外から見ても中から見ても年季が入っており、期待通りの鄙びた感に風呂に入る前から満足しつつ、湯船がある地下へと薄暗い階段を下った。

 風呂場は、想像通り、こじんまりとした、やはり年季の入ったタイル貼りのお風呂。湯は源泉掛け流しで、大変よく身体が温まった。30分と時間が決められているし休憩所などはないので、さっさと着替えて出入り口がある一階へ戻った。と、受付から少し奥へ行ったところに芸能人のサインがたくさんあることに気づく。ここは昔からあって有名だろうし建物も趣あるし、テレビの取材とかも結構されてるのか。

 サインを眺めながら「あっ! 片桐はいりのサインだ!」と思った瞬間、主人に話しかけられた。

「あそこに菅田将暉のサインがあるよ」

 女子は菅田将暉が好きだろうというささやかな魂胆、いや親切心? で話しかけられた。

 そして主人の思惑通り、私は菅田将暉がなかなか好きだ。

「えっ! そうなんですか!? どこですか?」

「あそこあそこ」

 「本当だ!えっ、菅田将暉ここに来たんですか?」と聞くと、なんでも映画『火花』の撮影でやって来たらしい。龍宮閣の建物の脇が、急な階段の路地になっていて、そこで撮影をしていたらしい。龍宮閣はそのときに休憩所のような感じで使用されていたのだと。

 その後、主人に建物について聞くと、築年数はだいたい100年くらいだそう。温泉設備を維持するために、半年か年に一回は設備の一部や部品の交換が必要で大変だとか、日航亭の閉業などについてなど、しばしおしゃべり。

 話している感じで、ここが好きなんだろうな、というのがなんとなく伝わってきた。

 私は老舗の飲食店や古い建築物などが好きでよく足を運ぶ。これはまったくの自論なのだけど、そういった歴史のある類の場所の主人は二通りに分かれる。

 なりゆきで事業や店(や建物)を継いでいる(もしくは始めた)という感じで、歴史だの古さだのには興味はなく、あんまりそこに価値を感じていないタイプ。もう一つのタイプは、事業や建物自体に価値があると自覚しているタイプ。できるだけそれらを残していきたいと考えている人たちだ。

 良い悪いの話ではないのだけど、私は古いものが好きだし残って欲しいと思うので、後者のタイプの主人に会うと、嬉しいし、応援したい!と思う。龍宮閣の主人は後者だと感じた。

「日航亭には、もう行けないのか」と意気消沈していたけどその代わりに新たな場所との出会いがあったのが救い。龍宮閣は宿泊もできることだし、またゆっくり足を運びたい。

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