新時代におけるドヤ街と数学屋の心象

多様化の進み入った世界の中にも、ドヤと呼ばれる場所は存在した。
というのは、現在は多くの価値観が存在することで、生き方や働き方についても多様になったため、生活形式にもその影響が徐々に現れ、ついには、住処という形で露呈していった。

ゆえに、私が住むこの街にもその余波は生じており、住むということ自体が、人間の自然な生活を超えて、一つの表現の形式となったのだ。
そのため、人々は何かを訴え、ゴミを無造作に道に棄て去り、腐ったみかんの上に、文学書が積み上がっていたり、あるいは、看板に「新世界」と筆のようなもので書かれた落書きが跋扈していたりする。

それは、社会構造から必然的にそうなったこれまでのドヤというわけではなく、一つの人々価値観の形式として生じていた。
しかし、いかんせんそのような場所なので、必然何でもあり、のような状態になり、様々な妙なサービスが拡散したりし始め、これまでのドヤと似た部分も合わせ持った独特の世界を誇示することとなる。

私はというと、単純に自分の持つお金の総量が非常に少ないため、この街の一角に住むこととなった。
私には、確固とした主張はないのだ。
そのようなものも、無論この街にはたくさんいる。

今日も今日とて、滄浪とした面持ちで、眼前の世界は、真なりか?否、偽なりか?義を見てせざるは勇無きなりか?と、誰ともいわず、問うていた。
ただただ、問うていたのだ。

豆腐屋が、笛を吹きながら歩いている。
吹きさらしに、ゴミ箱からカンカンがぶっ飛んで、カラコロカラコロと音を立てている。
世界とは、果たして何であろうか?

あー、蝶よ花よで、花嫁さんがぁ、
頬を紅染め、手を引かれぇ
揺らぐ世間の人ーばーかりぃ♪
あ、そーれ!あ、そーれ!
あ、それそれソーレソーレ!

三味をかき鳴らした、おっさんが妙な歌をうたっていたが、それが何故か心に残った。

今日、頬を紅染めなどということは、聞いたことがない。
ワケがわからなかった。
けれど、何故か、大事なうたのような気がして、おっさんの歌うのを聞いていた。

すると、近くのコインランドリーから、なにやら喧騒が聞こえてきて、突如として、音から意識を遮断された。

刹那、短パンに、タンクトップという出で立ちの、おっさんが、吹っ飛ばされてきた。
でっかいゴミ袋もその後に投げ出され、中身が散乱し、道路はたちまちゴミ箱と化した。

おっさんはというと
「チクショゥ、このやろうぅ、テメェ!おらぁ、この地区に来て、23年になるが、ペッ!!こら、初めての味だばい。こら。23年の積年が、この味だばい。」

などと、全く意味不明のことをのたまっていた。
喧嘩だろうか、とその先を見るに、不死鳥のフェニックスの絵が描いていある服を着た、ピンク髪の女が洗濯機にカードをかざしていた。

「ピッ!30分でよろしいですか?ピッ!300円になります。ピロロローン!」

「こらぁ、あまぁ!聞いとんのかぁ!23年にも増してこらぁ!」

吹っ飛ばされたおっさんはなおも路上で喚いていたが、女はガン無視である。

「よう、アンタ。辛いのわかるけども、しょうがねぇ。これ、ほら。」

飲んでいた、ビール缶を差し出したところ、おっさん、ひとまずこちらを見上げ、数秒たった後、泣き出した。

「おま、、23年で、おま、、初めてだよ、、、、あんた、、え?おま、、」

おっさん、ビールを掴み取って、ググッと一息に煽り切れば、何故か先に聞いていた三味の男が、べべん!と一発やりだした。

「あーあー、蝶よ、花よで、オナゴさんがぁ!!
君のためにと、ゆめの箱ぉ!
汚れたモノを、洗いさスゥ!
あ、そーれっ!あ、そーれッ!
あ、それそれソーレソーレ!」

気づけば、ワケわからんおっさんが、あ、ソーレソーレそーれそーれ!!と三人で大合唱していた。

それを見ていた件のフェニックス女子が出てきて、路上に転がってる吹っ飛ばしたおっさんを軽く蹴った。
「あたいの番、横取りしなぁ、そんなことせんよ。」
と、少しはにかみながら言った。
着ている不死鳥のあまりに主張の激しい、おどろおどろしい絵とは、真反対の、困ったような笑顔であった。

「おま、、、すまん、、、。23年でこんなに優しくされたの初めてや。。。」
吹っ飛ばされた、タンクトップがまたワケわからんことを言いつつも、ゴミ袋に丸め切った洗濯物をかき集めていた。

「終わるまでに30分や、次洗えばいいやん。」
という話になったが、どうやら、そのおっさんお金がないために、お金を投入したところに横入りして自分の洗濯物をぶち込もうとしたようなのだ。

すると、誰とも言わず、三味の男が、帽子に入った小銭を渡した。
私も100円を渡し、フェニックスの彼女も100円を手渡していた。

なんとも、しょーもなかったが、ここいらは一事が万事この有様なのだ。

けれど、不思議とみんな生きていた。

ワケのわからない摩擦もあるけれど、不思議と殺人などの大事件は起きず、ただただ生きていた。

私は、かつて自分が数学をやっていたことを思い出していた。
あれは、もう何年前のことだろうか。

技術的特異点の到来だ!
AI時代が到来して、いくばくか経ち、それは現実となった。

その中で、純粋数学の現実社会における応用に頭を悩ませていた私は、ふと、目の前の世界が、果たして本当に人間にとって良いものであろうか?という問いを持つこととなる。

それは何故かというと、技術の統治が進んだ社会は、およそ理路整然としており、あらゆる面で物事が整頓されていったのだ。
すると、街の区画整理も時を追うごとに進んでいった。
反対運動も初期の頃には盛んであったが、より効率的に、見た目も綺麗になるという合理を追求した理由から、街の空間造形に対してさえ、最適解を求める声が強まった。

それは、一つの多様化の形に留まっていたはずだけれど、時の政府は、およそ多くの点で、人間生活を刷新してしまい、人が本来持つ「余剰」が入り込む余地がなくなってしまった。

諸自然科学は、常に実験の精度や成否によって結果が右往左往し、理論と実験の併進によって、徐々に真理が明らかにされていく。
しかし、数学という学問は、証明が正しいとわかれば、それは普遍の真理である。

その真理というものを敬愛していた自分だが、果たして、この無秩序さが徐々になくなり、人が、エネルギーを少し失ってしまったかのような様をみると、あるいは、その非効率的な部分が人間の本質に迫る何かを構成しているのではないか?と考えるようになったのだ。
また、当初、私は人の世界がより良くなることを信じて研究を行っていたはずであった。
しかし、今の現状はどうであろう?と、自分の行為に疑いをもってしまった。

それからは、あまり数学が進まなくなり、反対に人の心の変化する様を見たくなった。

ゆえに、私は今ここにる。

決して、数学が嫌いになったわけではなく、今でも嗜んでいる。

しかし、私は、まだ生の人間を見ていたかった。

(もしかしたら、続きを書くかもしれません。)


実験道具を買うのに使います。目指せ!高性能オシロスコープ!