(小説)異・世界革命 空港反対闘争で死んだ過激派が女神と聖女になって 07(完)
子供たちに引っぱられ、病人のいる場所に連れていかれた。死にかけた赤ん坊を抱いて泣いている母や、土木作業中に大怪我をして追い出された男らが大勢いた。病人の多くは、栄養失調からくるもので病気だけ治しても根本的な意味はなかった。それでも少しでも楽になるならばと、マリアは病者を癒した。
やがてマリアは、住人が逃げたか殺されたかして空き家になっていたスラム街の外れの少し大きな掘っ建て小屋を提供された。マリアは、それから殺されるまで七カ月間、ほとんどこの『癒しの小屋』から出ることなく、病気治しを続けた。
マリアがスラム街で癒しを始めたという噂は、すぐに大神殿に伝わった。意外なことに大神殿からの妨害や圧力は、ほとんどなかった。スラムの住人たちも、マリアが追放された神女であることをすぐに知った。でも、たまにカネをせびりにくるだけの神殿などより、マリアの方がよほどありがたかった。このころになるとファルールには、人間はおろかもう生物の姿さえ無くなっていた。
癒しの小屋の前には、長い列ができた。マリアは、寝なくても平気な身体になっていたので、眠らないでひたすら病者・傷者を癒し続けた。手伝いの人たちに少しは休むように忠告されたが、病気で苦しみ悶えている者や怪我で血を流し苦しんでいる者が黙って並んでいるのを見ると、とても休む気にならなかった。二十四時間ぶっ続けで働いても、百人を癒すのが限界だった。列は少しも短くならなかったが、それでもマリアは癒しを続けた。
手伝いの人たちには、聖女の凄まじい自己犠牲に見えた。なかにはこっそりマリアを拝む者までいた。しかし、子供たちは能天気で、よく癒しの小屋にやってきては、ひたすら働いているマリアの気を晴らしてくれた。癒しをしながら子供たちに読み書きを教えるのは、マリアの小さな楽しみだった。
さすがに文無しでは不自由だし、栄養失調の人にせめて一食くらいは渡したい。そう考えて、手伝いの人に頼んで底が抜けた大きな壷を拾ってきてもらい、穴をふさいで小屋の出口に置いた。常に飢餓線上にいるようなスラムの人たちからは無理だったが、隣接する貧困街から訪れた人はよく銅貨を入れてくれた。
神殿の時と同じように、貴族がやってきて今すぐに治療するように強要されたことがあった。チラと見るとぐったりした十二歳くらいの少女だった。弱っていたが直ちに命に関わるような症状ではなかったので、列の後ろに並んで順番を待つように言った。神殿の時と同様に、護衛騎士と名乗る者が剣を抜いて突きつけてきた。小屋の空気が凍りついたが、マリアは護衛騎士を一瞥もせず「邪魔です」と言って剣を払い、癒しを続けた。
生意気な女を少し脅かしてやろうと護衛騎士は、剣の刃をマリアの右頬に当てた。その時、手元が狂ってザックリ深くマリアの右頬を傷つけてしまった。大量の血が流れ、例の白い遮光カーテン製の服の右側が赤く染まった。沈黙に包まれた小屋の中で、立ちつくした護衛騎士を横において、それでもマリアは黙々と癒しをおこなっていた。
しばらくして、戸板に乗せられた急患がかつぎ込まれてきた。血だらけのマリアの姿を見て運んできた人たちが驚いて騒ぎ、患者を小屋に運びこむのに手間取り少し時間があいた。その間に、マリアが自らの右頬をなでると瞬時に傷が消えた。さらにその場で血でぐっしょり濡れた服を脱ぎだしたので、男どもはど胆を抜かれてしまった。女衆が飛んできてマリアを隣の小部屋に連れて行き、着替えさせた。少し学のある者が、「マリア様は赤子のように清らかな聖女なので、イヤらしい考えが無いのだ」と説明して、皆が納得した。
十七時間後に、貴族の少女の番になった。白血病だったが、数分で癒すことができた。例の護衛騎士が「お嬢様がここにいらしたことは、誰にも言ってはならない」などと脅しじみたことを言い残して去っていった。間の抜けたことに、『お嬢様』の名前なんか誰も知らない。それにマリアは、忙しかった。そんな言葉は完全に無視して、つぎの病者の癒しを始めていた。一部始終を見ていた子供が、「あんなやつ、治してやらなくていいのに!」と怒った。マリアは、なにも言わずしばらく静かに笑っていた。やがて、「つぎは、左の頬に⋯⋯」と、小さくつぶやいた。
数カ月後に銅貨が壷いっぱいに貯まった。マリアは、貧民学校を建てることにした。なにか事情があって貧民街に流れゴロゴロしていた教育のある若者が、マリアの働きに感動して教師を引き受けてくれた。
スラム街は、みんな不法占拠なのでいつか追い出されてしまうかもしれない。この銅貨で土地を買うことにした。癒しの小屋の近くのスラム街と貧民街の中間あたりに、ごく小さな校庭のあるミニ学校が建つくらいの土地を買った。持ち主が、『聖女マリア』に心服しており、壷の銅貨で格安で譲ってくれた。
校舎を建てる資金はもう無いので、スラムの人たちに頼んだ。彼らは喜んでどこからか廃材を集め、『スラム様式』とでも呼べそうな五十人ほどが入れる平屋の校舎を建ててくれた。とうとう完成したと聞くとマリアは五分ほど走って学校の前に行き、しばらく嬉しそうに眺め、また走って癒しの小屋に戻り、待たせたことを謝って、再び癒しをはじめた。
この学校が、マリアの死に場所になる。
マリアは、ここで子供に読み書き計算を教えれば、スラムから抜け出すことができると考えた。これはマルクスが批判した空想的社会主義の考えに近い。毎年五十人がスラムから抜け出しても、新しく五十人がスラムに流れてきたら同じことだ。スラムを生み出す社会を変えないと駄目なのだ。より正確に言うと、人間を飢餓線上に置いて、多くの人がしたがらない仕事を生存できるギリギリの賃金で働かせる『スラム』という『装置』。その搾取装置の存在が、不可欠な土台のひとつとして成り立っている社会。そんな社会を変える方法は力しかない。強制的に変えない限り、この小さな学校もいずれ泡のように消えてしまう。
もちろんマリア=嶺風には、そんなことは分かっていた。しかし、神殿を追放され奴隷堕ちまでしたマリアは、もう社会的には死んだも同然の存在だった。そんな力は無い。でも、すぐにくるだろう最後の時まで、できるだけのことはしようと考えていた。
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女神聖典 聖コマルによる福音書 聖女マリア伝より
第九章
①.女神セレン昇天聖日の深夜、聖女マリアは、癒しが終わったことを悟られた。癒しの小屋にいた者たちは、すべてが床に臥し倒れて眠り込んでいた。聖女マリアは、立ち上がられ、癒しの小屋から出られた。マルコスというひとりの少年が、聖女マリアが出て行かれることに気づいた。 ②.マルコスは、「深夜にどこへ行かれるのですか。外は暗いです」と言った。聖女マリアは、「女神セレンの御元へ帰る時がきたのです」と答えられた。そして「血と苦しみに会いにいく」とつぶやかれた。マルコスは驚き、眠っている皆を起こそうと試みた。しかし、ひとりも起きる者はいなかった。 ③.聖女マリアは、癒しの小屋から出て行かれた。マルコスは、後に続き「私はあなたを守る」と言った。聖女マリアは、振り返り「たたかってはいけない。隠れて全てを見ていなさい」と答えられた。聖女マリアは、しばらく聖都ルーマの貧しい者が多く住む町を歩かれた。とても苦しそうなご様子で、御顔から血の汗を流しておられた。 ④.聖女マリアは、貧しい小屋に囲まれた小さな学校の庭に入っていかれた。そこは、癒やされた者たちが寄付した銅貨を集め聖女マリアが建てられた学校だった。校庭の中央に立たれると、「ここは、ふさわしい」とおっしゃられた。やがて十人ほどの黒い服をまとった者たちが現れた。彼らは、聖女マリアを害そうと悪魔が入った不信心者たちであった。全員が剣を帯びていた。 ⑤.マルコスは、怖れて建物に逃れた。悪魔が入った者たちは、剣を抜き聖女マリアを指して言った。「この女は、偽りの癒しをおこない女神を汚した」。そして剣先で聖女マリアの左頬を傷つけた。傷から血が流れた。黒い者たちは、血を見てあざ笑って言った。「見ろ。女神ならば、血が流れるはずがない」。聖女マリアは、天を指して言われた。「女神セレンとすべての人びとに見てもらいましょう」 ⑥.聖女マリアの指先が輝き、女神の光があらわれた。銀色に光る球になって上り、屋根の高さで止まった。近くに住む者たちが、昼のように明るくなったことに驚き、窓や戸の隙間から覗いた。彼らは、聖女マリアと剣を持った黒い者たちを見た。悪魔が入った者は、「これこそ悪魔の業なのだ。おまえは死ななければならない」と叫んだ。⑦.聖女マリアは、「この地に流れる血は、女神セレンの血であり、私の血であり、癒した者たちの血でもある」と言われた。そして、自らの心臓を指差して「ここを貫きなさい」と言われた。悪魔の入った者が、獣の叫び声をあげ、剣で聖女マリアの心臓を貫いた。他の黒い者たちも獣の叫び声をあげ、何回も聖女マリアを刺した。⑧.聖女マリアは、「この血は、多くの不幸で購われるでしょう。血が河のように流れ、大勢の人たちが苦しむことが悲しい」と言われた。聖女マリアが死なないことを恐れた黒い者が、「悪魔よ、去れ」と叫んだ。何本もの剣に貫かれた聖女マリアは、天を仰ぎ「彼らは、自分がなにをしているか分からないのです」と言われた。恐怖にかられた黒い者は、悪魔の力を振るって聖女マリアの首を剣ではねた。 ⑨.聖女マリアの頭が地に落ちた瞬間、空に輝いていた女神の光が消え、周囲は暗闇になった。地鳴りとともに地面が揺れ、大神殿聖本堂の女神セレン像を覆った幕が二つに裂かれた。恐怖にかられた黒い者たちは、逃げ去った。マルコスが、聖遺骸にとりすがり「聖女マリアが死んだ」と叫び、激しく泣いた。 ⑩.おびえて隠れていた住人たちが、近くの小屋から出てきた。何人かはランプを持っていた。地に落ちている聖女マリアの頭を見た者が叫んだ。「大変だ。聖女マリア様が亡くなった」。その声を聞いて多くの者が集まり、聖遺骸の周りを囲んで泣いた。やがて荷車が運ばれてきた。人びとは、聖遺骸を載せて聖都ルーマ女神セレン大神殿聖本堂まで運んだ。大勢の女や子供たちが泣きながら聖遺骸の後についてきた。知らせを受けた大神殿は、すべての神官と神女が跪いて聖遺骸を迎えた。 ⑪.聖女マリアの聖遺骸は、柩に納められ女神セレン像の隣に安置された。やがて聖遺骸から芳香が漂う奇跡が起きた。あまりに多くの人たちが訪れたため大神殿に入ることができず、人びとは行列をつくって聖遺骸の前を通り、御姿を拝した。三日たっても行列は途切れなかった。四日目の早朝。行列している者や人びとの整理をしている者が、突然眠気に襲われ、全員が地に伏して眠った。 ⑫.人びとが目を覚ますと、すでに柩から聖遺骸が失われていた。柩には、聖血痕が遺されていた。ある者は、「殉教された聖女マリアは、女神セレン様の御手によって引き上げられ昇天されたのだ」と言った。別の者は、「女神セレン様は、聖女マリアを殺した人間をお赦しにならず、聖遺骸をおとりあげになったのだ」と言った。またある者は、「聖血痕が遺されたのは、人が聖女に血を流させたことを忘れさせない女神セレン様のお考えである」と語った。
聖女マリアが殉教された地には、聖マリア神殿が建てられた。
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マリアがスラムに流れてから七カ月ほどたった深夜、いよいよ自分が死ぬ時がきたことを悟った。剣を持った十人ほどの男たちが、癒しの小屋を囲んでいた。このままでは関係ない人まで皆殺しにされ、小屋に火を放たれるだろう。マリアは、女神の光を発現させ全員眠らせ小屋から出ることにした。自分が突然消えたら問題になるのではと考え、はしっこいマルコス少年についてきてもらうことにした。死にざまを見て記録に残してもらいたい気持ちもあった。
小屋を出る時に癒しの順番を待っていた病者が地に伏して眠っているのを見て、申し訳ない気持ちがした。しかし、もう時間が無かった。
人を巻き込まないで殺される場所はないか、と思案した。すぐにあの貧民学校が思い浮かんだ。マルコス少年を連れて小さな校庭に入った。
マリアがこの貧民学校の中に入ったのは、これが初めてだった。なにか懐かしいような、やるせないような、不思議な気持ちがした。「ここは、ふさわしい」と、小さくつぶやいた。
マルコス少年に、校舎に隠れているように強く命令した。
しばらく校庭の中で待ち、考えていた。「自分は、この世界でなにかを少しでも変えることができただろうか?」。
マリアは、白血病の少女を治した。両膝から血を流している少年を癒した。それでなにかが変わり、なにかが良くなっただろうか? 病気が治ったという利益を、個人に手渡しただけで終わったのではなかろうか?
やがて、抜き身の太刀を下げた全身黒衣の男たちが現れた。殺し慣れした殺気を放っている。
囲まれたマリアは、『女神の光』で四周を照らした。左頬から血を流し、自らの心臓を指差し、「ここを貫きなさい」と言った。
バロバ大神殿長は、深夜に叩き起こされた。スラム街で元聖女のマリアが殺されたという知らせである。マリアは、とっくに実家に帰ったとばかり思っていたバロバは、仰天した。それになによりも、マリアの死が悲しかった。大神殿長という立場から離れれば、バロバは、マリアのきれいで真っ直ぐな心を愛していた。
マリアが、スラムに拠点を構えて二万近い人たちを癒したと聞かされ、戦慄した。大神殿の神女時の癒しを加えると三万を超える重病人が、マリアに救われている。聖都ルーマの人口は約百万だ。貧民ばかりとはいえ、親族や友人がマリアに救われた者は多い。
大神殿は、女神に遣わされた聖女の神女服をはぎ取って破門したのだ。昇天された女神セレンに代わって神殿が人びとを救い導く使命を担い、そのために不動の権威を保持せねばならないと確信していたバロバにとって、神殿と聖女が対立していた事実は大問題である。
住人たちが、マリアの死体を大神殿に運んでいるという連絡がきた。受け入れるか追い払うか、バロバに選択の余地はなかった。すべての神官と神女を起こし、マリアの『聖遺骸』を迎える準備をさせることにした。その間に古参の有力神官を集め、マリアの破門は「無かった」という決議をした。マリアの処刑を主張していた神官も含めて、反対する者は、ひとりもいなかった。神殿の権威に逆らい正義ヅラしていた小生意気なマリアは、どうせ死んでいるのだ。せいぜい死体を見世物にしてやろう。
みすぼらしい荷車が、大神殿の前に到着した。数百の貧乏人が、泣きながら後についてきていた。粗末な服をまとったマリアの『聖遺骸』は、めちゃめちゃだった。二十カ所近くもめった刺しに貫かれ、頭を斬り落とされていた。
いい加減なねぎらいの言葉をかけ、貧乏人どもを追い払った。粗末な服はハサミで切って捨て、神官どもによって聖遺骸は仔細に点検された。マリアが処女ではなかったことは、マリアを憎んでいた者も含め多くの神官を驚かせた。幾人かは、唇に薄い笑いを浮かべていた⋯⋯。
どうせマリアが非処女だったことはバレやしないが、聖女の頭と胴体が離れていては、さすがにマズい。裁縫道具をつかって大急ぎで縫い合わせた。あわてていたため、少しズレて変な感じに首がねじれた。首のあたりを高価な花で埋め、死体に襟の長い立派な神女服を着させて、どうにかこうにかごまかした。
神殿は大混乱だった。神官たちが駆け回っていた。だれかが聖本堂の女神セレン像の前で転び、覆っていた幕を破いてしまうありさまだった。忙しいので破れた幕を放置していたら、だれかが「女神セレン様の奇跡だ」と言い出し、「この幕は聖遺物だ」ということになった。
聖女マリアが殺されたという噂が広がり、夜明け前には大神殿前広場に、群衆がつめかけてきた。聖遺骸は、聖本堂の女神セレン像の横に安置することになった。ついでに破けた幕も女神の奇跡を顕現した聖遺物として展示することにした。
公開法論の時に、殴られ引きずられていくマリアを歓呼の拍手喝采で見送った民衆。そんな仕打ちを受けたマリアから、その死の直前まで尽くされ病を癒された三万人の人びと。その民衆が、マリア殺害にどんな態度をとるだろうか? 大神殿を焼き討ちされるのではあるまいか? バロバら高位神官どもは、生きた心地がしなかった。
聖本堂を開扉すると人びとは、聖遺骸に殺到した。高価な花のたぐいで飾りたてられた死体の前で、多くの人たちが泣いたり叫んだりしていた。
自らの過去の所業を忘却したこの愚かしい姿をバロバは、空虚な気持ちでながめた。「やはり神殿が導かないと駄目なのだ」。
四日目の朝に、聖遺骸が消えた。神界から女神セレンが、ご覧になっているのだろう。しかし、同じことだ。
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クラーニオの丘とは、髑髏の丘という意味だ。この奇妙な丘の下に、十六万人以上の死体が埋まっているらしい。聖都ルーマの人口は、およそ百万人だ。
聡明なジュスティーヌは、瞬時に悟った。「普通の亡くなり方ではないのでしょう。殺されたのだわ。でも、なぜ? だれに?」。
レオンが、バロバにというよりも、自分につぶやくように言った。
「最初のファルールの地獄は、怒りからでした。ところが、この二度目の地獄は、後悔と恐怖が引き起こしたように思います。⋯⋯でも、死体の数がちょっと少ないですね。残りは海に?」
バロバが答えた。自嘲的な声だ。
「ええ、最初は⋯⋯。しかし、海が穢れるという苦情がきましてね。この丘は、我々が造ったのです。こんな墓場を造ることになって初めて気づくとは。神殿が民衆を導くなど、愚かでした」
前世はマリアでもあったレオンには、是非バロバに聞きたいことがあった。返答次第では、バロバを殺していたかもしれない。
「もし、マリアのいう通りに、神殿がファルールの地獄を全力で止めていたら、どうなっていたでしょうね? 二度目の地獄は避けられたでしょうか?」
バロバは、肩を落とした。それは、眠れない夜に何度となく考えてきたことなのだ。
「狂った民衆に、神殿が引きずられていました。無理です。止めていたら私もマリア同様に殺されていたでしょう。二度目の地獄も同じです。マリアには、かわいそうなことをしてしまった⋯⋯」
その時、バロバが気づくと、レオンが丘の入口を眺めている。そして、ニヤと笑った。
「ファルールから、お迎えがきたようです。フフ⋯。マリアを殺った時と同じ格好してらぁ。黒ニンジャ衣装か! あっ、もう抜いてやがる。殺る気満々だ」
異様な黒衣の集団が、クラーニオの丘の入口にいる。全員が抜き身の剣を持ち、殺気を放っていた。隊長のラヴィラント伯爵が、フランセワ王国の護衛団に号令する。
「全員、武装を確認しろっ!」
うろたえた声が帰ってきた。
「なっ無い!」
「剣がありません!」
「武器はどこだっ?」
「しまったっ! 神官に渡したままだっ!」
ラヴィラント隊長が激怒している。
「馬鹿者っ! なにをやっておるかっ! 武人が剣を手離してどうするっ!」
この丘には、棒切れひとつ、石ころ一個も落ちていない。
「すっ、素手で戦います!」
ここで動転していないのは、レオンだけだ。
「やるなぁ。柵の中に追い込んでウサギ狩りか。味方で武装してるのは? オレ、ラヴィラント隊長、ジルベール君。⋯⋯三人だけか。死ぬかな?」
さすがは代々王家に仕える忠誠なラヴィラント伯爵家の騎士だ。気を取り直したラヴィラント隊長が指揮をとる。元々有能な人なので的確だ。
「なんとしても王女殿下をお護りするっ! 殿下を中心に人の壁を作れ。我らが倒れたら剣を拾って戦え。敵が迫ったら数人がかりで素手で武器を奪え。ジュスティーヌ様を必ずフランセワにお帰しするのだ!」
面白そうに黒衣の刺客を見ていたレオンが状況を説明した。
「敵は、東西の入口から五人ずつです。強いですよ。ラヴィラントさんとジルベールは、ここから離れないで東の五人を防いで下さい。オレは西の五人を殺りに行きます」
突然戦闘が始まりそうで、神官たちがオロオロしている。
「バロバさん! 大神殿に敵がいるようですよ。護衛のみんなは、剣を巻き上げられました。じゃあ、黒服のやつらをお迎えしてきます!」
人垣の中からジュスティーヌが声をかけてきた。顔は見えない。
「おねがいです。死なないで、ください」
あの野郎ども。敵の武装を解除して、逃げ場の無い見通しのよい場所で、はさみ撃ちかぁ。戦い慣れしてやがるなぁ!
ベルトに差している剣をひっくり返し、刃を上に向けた。わざと平静に走り、手を振って見せたりする。降伏の使者か潜入させていたスパイとでも思ってくれればありがたい。剣は抜かず、敵意を見せずに近づく。十メートル⋯五メートル⋯三メートル⋯⋯。
間合いに入った瞬間、抜き打ちで逆袈裟に斬り上げた。黒装束が滝のように血を噴き出し斃れる。さすがに驚いて敵の動きが一瞬止まった。返す刀で、
「だっ!」
もう一人、黒装束の手首を叩き斬った。
だが、強い。強いというより、殺し慣れしている。二人が倒れても全くひるまず、残った三人が一斉に剣で突いてきた。貴族の剣法なら突くだけだが、こいつらは、突いてから薙いでくる。身体に少しでも刃が触れれば、結構な傷を負う。三対一でも油断せず、そうやって戦闘力を削いでいって、弱ったところを血祭りに上げるつもりだ。⋯⋯強い。
このままでは、いずれ殺られる。しゃがんでクラーニオの丘の毒土をつかみ、顔面に投げてやった。ひるんだ隙に、仰向けになって死んでる袈裟斬り野郎の剣を拾って、背を向けて走って逃げた。ジュスティーヌのところへだから、「戻った」というべきなのか。
駆けて追いすがってきてくれれば、拾った剣を投げるなり、振り向きざまに斬り返すなりできるのだが、追ってこない。
⋯⋯目を洗ってやがる。どうせ袋のネズミなのだから、リスクを最小にして、確実に殺っていくつもりだ。こいつらは、『ファルール帰り』だ。ずいぶん殺してるんだろう。現在のセレンティアは、二十年前の大量死のため壮年が少なく、代わりに子供や若者の数が多い。最初のファルールで五百万人、二度目のファルールの地獄で四千万人が死んだ。この世界では、百人くらい殺したやつなんてゴロゴロいる。
ジュスティーヌを囲んで護っている『人間饅頭』にたどり着いた。ジュスティーヌは、中の『アンコ』になってアリーヌと抱き合っている。マリアンヌは、『饅頭』の皮になり表に出ている。目を合わせると、小さくうなずいた。⋯⋯よし。
チラと見るとジルベール君の顔面が真っ赤だ。血が目に入ったら視力が失われ、戦闘力が無くなる。よく支えてくれているが、このままでは斬られるのは時間の問題だろう。
ぶん捕った剣を地面に突き立てた。
「エレノア! ジルベールを支援しろ」
王宮でガラス瓶を投げつけた時に見張っていた女騎士だ。今回は、彼氏と離れジュスティーヌの護衛任務についていた。この娘は強い。
「はっ! しかし、マルクス伯爵は?」
「あんな野郎ども。オレひとりで、十分だ」
エレノアが剣をつかんで走っていった。三対五か⋯⋯。
入れ替わるように抜き身の剣を下げた黒衣の三人が登ってきた。
明るく開けた場所で、訓練された敵三人と真剣で斬り合って勝てる者など、そうそういない。後ろに目はついてないし、腕は二本しかない。剣は意外なくらい重い。敵の一人が背後に回り込んだら終わりだ。
だが、勝たなければ、ここにいる者は皆殺しになるだろう。
ジュスティーヌの饅頭を背にして十メートルの間隔をとり、黒い敵を迎える。この殺人者は、野盗のたぐいとは違う。極力リスクを減らし、効率的に敵を殺すことを第一にしている。三人共に中段で横に並んだ。剣も無意味に太かったり大きかったりしない。武器を見れば、だいたい相手の力量は分かる。こいつらは、殺し合いに強いタイプだ。
時代劇のように順番に斬りかかってきたりもしない。右の黒男が徐々に背後に回るように動き始めた。腕の構造上、左より右に回られる方が斬りにくい。⋯⋯本当に戦い慣れていやがる。
饅頭たちが、叫んでいる。
「右です!」
「後ろに回られます!」
「早く!」
そんなことは、分かってるんだよぉ!
右の黒男が真横にきた。こいつが視界から消える時が、オレが死ぬ時だ。三人に一斉に斬り込まれ腕を斬り落とされる。これじゃあ、道連れもつくれねえや。
他人に命を預けるのは、自分で戦うよりはるかに消耗する。⋯⋯まだか?
「グエッ!」
右に回り込んでいた黒男が、カエルみたいな声を上げて転倒した。
前の二人組が一瞬気を逸らした。その隙を狙って、真ん中黒男の手首を削いだ。手首から血を吹き、こいつも剣を落として転倒する。
先に倒れた右の黒男の横っ腹には、マリアンヌが投げた短刀が突き刺さっている。いつもマリアンヌが太ももに取りつけている、色っぽいやつだ。
一対一になった。オレなら撤退するがな。コイツは逃げねえな⋯⋯。人を虐殺しすぎて、死ぬのが怖くなくなったか? 先に打ち込んだ方が不利なのは分かり切っている。お互いに対面したまま動けない。
早く。早く。早く。早く。早くしろ。早くしろ。まだか⋯⋯? 早く!
ドスッ!
マリアンヌの投げた短刀が、黒男の太ももに突き刺さった。いつもブラジャーの背中ホックに取りつけてる、色っぽい小さい方のやつだ。
隙をついて喉を突き、えぐって薙いだ。
「ガッ!」
倒れた黒男の血が、クラーニオの丘を染める。⋯⋯やっとくたばったか。
饅頭に声をかける。
「早く剣を奪ってラヴィラント隊長の救援に行けっ!」
あわてて剣を拾って駆けていく。オレの剣もだれかに渡す。王宮の武器庫から持ち出してきた良い物らしいが、なに、こんなものはしょせん人斬り包丁だ。
向こうの形勢は八対五に逆転した。集団戦闘訓練を受けている王宮親衛隊騎士が、もう殺し屋風情に負けることはないだろう。
マリアンヌが黒男の横っ腹に刺さった短刀を回収している。
「ずいぶん待たせやがって。冷や汗をかいたぜ」
短刀を布で丁寧にふいている。
「申し訳ございません。だれが投げたか分かると、斬られてしまいますので」
物騒な会話だが、貴族侍女の立ち居振る舞いが板についている。相変わらず丁寧な侍女しゃべりをする。このタヌキ系美人のマリアンヌが、ついさっき人を殺したとは、とても見えないだろう。
今度は、黒男の太ももに刺さった短刀を抜いた。フキフキしてから背中に手を回し器用に取りつけ直している。
「こちらは、伯爵様がお手打ちなさると考えまして、遅れてしまいました。⋯⋯ズルいですわね」
「百パーセントの自信がなかった。こういうヤカラは、どんな手を使ってくるか分からないからなあ。まともにやり合いたくない」
「まぁ、ご謙遜を。ウフフ。⋯⋯本当にズルい。ズルいですわ」
マリアンヌの短刀が飛んでくることを、黒男は予期していた。再び投げて短刀を弾かれたら、饅頭に飛び込まれマリアンヌは斬られていただろう。だからマリアンヌは、オレが黒男を殺ることを期待して待った。しかし、オレが先に仕掛ける意志がないことを見切って、黒男の意識が饅頭に向く前に避けにくい太ももを狙った。均衡を崩せれば、オレが斬る。よい判断だ。
死体を検分する。手首を斬った真ん中黒男には、まだ息があった。
「おい! この野郎の腕を縛って血を止めろ。舌をかまないように猿ぐつわをかませろよ。⋯⋯生かして大神殿に連れ帰って、後ろにいるやつを吐かせるんだ」
バロバ大神殿長がきた。
「こいつの顔に見覚えありませんか?」
「⋯⋯いや、見たことありませんな」
「きっと大神殿には、こいつの顔をよく知ったやつがいますよ。ここにいる神官たちは、バロバさんの派閥ばかりじゃないですか? 袋のネズミの一網打尽にしようとしたんじゃないですかねえ」
思い当たる節があるようだ。バロバは考え込んでいる。
ジュスティーヌが近づいてきた。オレが死ぬと思ったらしく、ボロボロ泣いている。そっと抱いてきた。
「愛してます」
なに言っとるんだ?
「血がつくぜ」
「お怪我は、ありませんか?」
恐ろしそうに転がっている死体を眺める。腰を抜かさないだけでも大した王女さまだ。
「ああ。やりにくい相手だった⋯⋯。なんとか無事だよ」
「見たことない剣術でしたわ。なにか、おそろしかった⋯⋯」
日常的に一流の騎士に囲まれているからだろう。やつらの異様さは、ジュスティーヌにも分かったようだ。
「百人も虐殺すると、あんなふうになるのさ」
「ファルール聖国で、そんな非道なことを⋯⋯」
あぁ、王女なのに、二度目のファルールのことも知らないのか⋯⋯。
「それもあるだろうが、自分の国で百人以上殺してるやつなんか、いくらでもいる」
トンッと、クラーニオの丘の土を蹴って見せた。
「えっ? そんな! 聖都ルーマで?」
「ルーマだけじゃない。フランセワ王国にだって、そんな人殺しは大勢いるんだ」
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聖女マリアの聖遺骸に会うために聖本堂に押し寄せてきた者の多くは、本当は悲しみではなく恐怖を感じていた。とりわけ、聖遺骸の近くでこれ見よがしに大声で泣いたりわめいたりしている者の多くは、そうだった。ほんの七カ月前に、マリアに罵声を浴びせ「殺せ!」と叫んだ者が多かったのだ。
たった一年で女神が殺され、聖女も殺された。どうやら大神殿と聖女は、和解したらしい。だが、自分は? 数カ月前に自分が聖女をののしった言葉を思い出し、ゾッと冷や水を浴びせかけられた気がした。
ファルール人が今度は聖女を殺した。次はどんな涜神行為をしでかすつもりだ? 今度こそ女神セレンの堪忍袋の緒が切れないだろうか? そうなったら、あの凄まじい『女神の火』が頭の上で炸裂するのか? そんなことになる前に、聖都にひそんでいるファルール人をなんとかしなければ⋯⋯。
見世物にされた四日目の朝に、『聖遺骸』が消えた。噂を聞き駆けつけてのぞくと、残された聖柩にマリアの『聖血痕』が、ベットリと赤い痕をつけていた。多くの者がそれを見て心底から震え上がった。
死んで地獄に堕ちるのは嫌だ。やつらが女神や聖女を殺さなかったら、こんなことにはならなかったのに。そうだ。ファルール人を殺して仇を討てば、聖女を侮辱した罪も少しは赦されるかもしれない。こんなことになったのは、全部ファルール人のせいだ。
少しずつ恐怖が憎悪に変わっていった。
最初は、汚らしい安居酒屋の酔っぱらいのヒソヒソ話だった。
ファルール人を区別しろ⋯⋯大勢のファルール人が隠れている⋯⋯ファルール人は特権を持っている⋯⋯ファルール人がたくらんでいる⋯⋯ファルール人が集まっていた⋯⋯ファルール人がオレたちを陰で支配している⋯⋯ファルール人の血は汚れている⋯⋯ファルール人は劣っている⋯⋯臭いファルール人の命は猫の命より軽い⋯⋯ファルール人はゴキブリだ⋯⋯不逞ファルール人が武器を集めてる⋯⋯不逞ファルール人が子供を殺して切りきざんだ⋯⋯不逞ファルール人が井戸に毒を投げた⋯⋯不逞ファルール人が火をつけようとたくらんだ⋯⋯不逞ファルール人を見つけだせ⋯⋯不逞ファルール人を殺せ⋯⋯殺せえ⋯⋯殺せええ⋯⋯。
ヒソヒソ声が少しずつ大きくなり、やがて昼日中に街中で公然と話されるようになった。
街のはずれで若い夫婦が、小間物屋を営んでいた。搾取のための制度だった黄金女神像信仰に嫌気がさし、ファルール聖国から逃げてきた二人だった。『女神セレン正教』に改宗し、近所の人たちともうまくやっていた。
聖女マリアの昇天は、ファルール人をかばってくれていたお方なので、悲しかった。事件直後から店の売上げがひどく落ちたが、それは仕方がないことだと思った。しばらく子供をあきらめて、妻が外に働きに出ることを相談していた。
ある夜、十数人の見たことのない男たちが店の前に現れた。「不逞ファルール人の店だ!」「不逞ファルール人を追い出せ!」「ファルールに帰れ!」などと叫びながら、店に石を投げはじめた。親しくしていた近所の人たちが集まったが、止める者はいなかった。店の中でファルール人の夫婦が抱き合ってふるえていると、武器を持った男たちが入ってきて引きずり出された。
夫が棍棒でめった打ちにされているところを、抑えつけられ泣いている妻は見せられた。夫が動かなくなると、今度は妻の胸元に大きな包丁が突き立てられて抉られた。この二人の消えていく意識が最後に見た光景は、燃えている二人の店だった。二人の死体は、切断され炎上する店に投げ込まれ焼かれた。
これが第二のファルールの地獄の始まりだった。翌日、さらに亡命ファルール人の店が数十か所も焼かれた。警備隊や軍は黙ってみているだけだった。さらに翌日、数百人の亡命ファルール人が殺され、路上に死体が投げ出された。死体は広場で焼かれ、大勢の人たちが集まって見物した。そんなことが何日も続いた。
亡命ファルール人を殺し尽くしても、この地獄は終わらなかった。むしろ、ほんの始まりにすぎなかった。これからが本当の地獄だったのだ。
ファルールと取引があった商店が焼かれ、店主と店員が殺された。
ファルール人と結婚していた者が殺された。生まれた子供も殺された。
ファルールに行ったことがある者が殺された。
ファルール産のものを持っている者が殺された。
ファルール人と親しくしていた者が殺された。
ファルール人の近所に住んでいた者が殺された。
ファルール人に顔が似ているだけで殺された。
エラが張っている者は、ファルール人なので殺された。
十五エン五十センと発音できないと、ファルール人なので殺された。
知らない者に指さされ、「こいつはファルール人だ!」と叫ばれると、それだけで殺された。
恐ろしくて隠れていると、この家はあやしいと言われて家ごと焼き殺された。
一番安全だったのは、もうどこにも存在しないファルール人を探して殺す、『ファルール狩り』の自警団に参加することだった。
しかし、ファルール狩り自警団がはち合わせると、お互いに「ファルール人だ!」と叫び声をあげ、どちらかが全滅するまで棍棒や包丁や歯や爪で殺し合った。
暴徒を蹴散らすように命令した軍司令官は、ファルール人だと疑われて兵に焼き殺された。やがて兵同士が殺し合いを始め、部隊同士がお互いがファルール人に支配されていると言い合って殺し合いを始めた。
最も危険だったのは貴族だった。家系図を調べられ少しでもファルール人の血が入っていたら一族郎党が皆殺しにされた。使用人が主人を殺したこともあったが、その使用人も殺され屋敷は焼かれて塩をまかれた。
こんな時にのんきに畑を耕している者は、ファルール人とみなされ殺された。少しでも目立つとファルール人とみなされて殺された。先に「あいつはファルール人だ」と指さして叫ばないと殺された。
流通が止まり死体が山となり、飢えと伝染病が広がりはじめた。はびこった飢えと伝染病もファルール人の仕業であるとされた。人びとは、もうどこにも存在しないファルール人を殺すために狂ったように走りまわり探しまわった。
第二のファルールの地獄は、伝染性の疫病に似ていた。聖都ルーマから始まり、街道を伝ってイタロ王国全土に殺し合いが広がった。やがて国境を越え、隣国のフランセワ王国に地獄が感染し、さらにボラン王国、ブロイン帝国、ルーシー帝国、イスペニア王国⋯⋯。ありとあらゆる国と街に癌細胞のように際限の無い虐殺と殺し合いが広がった。世界は地獄に堕ちた。
放置された死体の山が伝染病を発生させたと気づくと、人びとは街の外れに大きな穴を掘り死体を投げ込みはじめた。ファルール人とみなされた者が穴を掘らされ、掘り終わると殺されて最初に投げ込まれた。死体には、塩や硫酸や水銀といった毒が撒かれた。ファルールの悪魔が出てくるかもしれないので、上に土を盛り上げて『丘』をつくった。撒いた毒のために、『丘』にはほとんど草も生えなかった。この『丘』は、全世界に毒キノコのように生えて増殖していった。
多くの人びとは、ファルール聖国の三百万人以上を皆殺しにするなどやり過ぎだと内心では思っていた。だが、マリアのような少数の例外をのぞいて、言えなかった。迫害が恐ろしかったからだ。
ファルールが白い砂漠になった後で、人びとの心の底に後悔と、それを十倍する恐怖が残った。つぎは自分たちの番ではないのか? ファルール人が同じことをやり返すのではないか? 不死のファルール人が復讐にくるのではないか?
その恐怖を癒したのが、聖女マリアのあげた声だった。自分が言ったような気分になれて、人びとは少しは安心できた。マリアが痛い目にあえばあうほど安心できた。だが、とうとうマリアは惨殺された。多くの人びとは、自分の中に残っていた免罪符が剥ぎ取られた気がした。最後に残ったものは、増幅された恐怖だった。
今度こそファルール人が攻めてくるのではないのか?
自分たちが、奪い、痛めつけ、虐待し、蔑んできた汚くて弱いやつら。そいつらが混乱に乗じてやってきて、以前の自分と同じことをするのではないかという恐怖。大震災のの混乱のさなかに自警団をつくり、数千人も虐殺したやつらと同じ心理だ。
第二のファルールの地獄は、始まった時は分かっても、終わった時期は判然としない。凄まじい民衆暴力は、ごく初期には煽り立てた者がいたものの、指導者は存在しなかった。たちまち煽動者の手を離れて、そいつまで飲み込んでしまった。
ルーマで生じた小さな火は、やがて地獄の業火となり、世界中をなめつくした。全世界の人びとが、病み餓えて衰え、殺し合いをする力が無くなった時に、第二のファルールの地獄は、ようやく消えていったのだ。だが、その時には、世界の人口の三割、四千万人の命が失われていた。
──────────────────
「そんな、ことがあったなんて⋯⋯」
愕然としたジュスティーヌがつぶやいた。ついさっきまで殺し合いをしていたクラーニオの丘には、聖都ルーマのファルールの地獄で殺された十六万人の死体が埋められている。その上に黒衣の死体が九個加わった。
「い、いやだ! ひっ、ひど、ひどい⋯⋯ひどい⋯⋯」
常に冷静な、あのマリアンヌが、激しく取り乱した。
「わたしのお父さんは、二十年前に行方不明に! お母さんが、ひとりでわたしを育ててっ。お父さんは、もう?」
レオンに、気遣いはない。
「二度目のファルールで殺されたんだろう。行方不明になった村か町の土饅頭の中だろうな」
この世界にマスコミはない。庶民には、なにか恐ろしいことが起きていると知ることはできても、具体的になにが起きているか知る手立てはない。
ジュスティーヌが、崩れ落ちて嗚咽するマリアンヌを抱いて優しく背中をさすり、耳元でなにかささやいている。王女が侍女を。普通では考えられないことだ。
レオンが、命拾いしたバロバ大神殿長に話しかける。
「死体は、神殿に持ち帰って首実検して下さい。オレたちがここにくることを知っていたのは、大神殿の神官だけです。神殿の中に、こいつらを差し向けたやつがいる」
バロバがこれほど怒ったのは、強盗団の首領をしていた時期以来だ。多数の神官に裏切られ、殺されかかった。
「女神の眷属や他国の王女まで弑そうとするとは⋯⋯。ゆるせぬっ!」
レオンが、たたみかけた。
「絶対に信頼できる者だけを使うべきです。油断すると死体がどこかに消えちまいますよ。あぁ、逆にこの死体をエサにすれば、裏切り者をあぶり出すのに使えるかもしれないな⋯⋯」
バロバのような男に訊くまでもないことだが、念のためたずねてみることにした。
「マリアを殺したのが、ファルール人の残党とは、まさか信じちゃいませんよね?」
そばでジュスティーヌを護衛していたラヴィラント隊長が、目をむいた。
「なっ! 違うのですか!」
そんな与太を信じていたのかよと、レオンの方も驚いた。
「そりゃ、あの時期のファルールは、ほとんど皆殺しでもう塩を撒いている段階でした。それに、ファルールの地獄に唯一反対していたマリアを、ファルール人が殺す意味なんか無いでしょ?」
「で、では、だれが?」
「だれが一番マリアを迫害していて、しかもマリアが死んだら利益を得るかを考えれば⋯⋯。バロバさん、オレはルーマにくるまで、あなたがマリアを殺させたんだと考えていました」
背中をふるわせてバロバは、声を絞り出す。
「そのような女神を弑するようなことは、決して」
「バロバさんがここにいて、殺されかけたのが無実のなによりの証拠ですね。⋯⋯当時は神殿でもマリア殺しの犯人を捜査しましたか?」
「当然です。しかし、全く手掛かりさえなく⋯⋯」
そりゃあ、当たり前だ。レオンは、不思議だった。なぜ身内に関することでは、これほど目が曇るのだ?
「調べる側が犯人と繋がってたら、手掛かりが出てくるはずなんてないですよ」
驚愕しているラヴィラント隊長、それにジュスティーヌとマリアンヌ。バロバは今日の襲撃でもう察していたらしい。
「この襲撃をお膳立てしたやつと同じスジでしょう。うまくたぐり寄せることができたら、マリア殺しの真犯人を捕える二十年ぶりのチャンスです」
バロバは、どこまでたどりつけるだろうか?
マリアは、スラム街で癒しをしていた。スラムは、よそ者がくると目立つ。マリアにとって、むしろ安全な場所だった。
癒しと同時に、可能な限り栄養失調の人に食料品を配ったり、貧民学校を建てたり、住環境の改善を呼びかけるなど、社会運動に近いこともした。これは、スラムを支配していた地域ボスの親分には、迷惑でしかなかった。彼らにとってスラムの住民は、貧しく教育が無いほど好都合である。今日食べるカネも無い者は、どんなに安い賃金でも働く。無学な者からは、ピンハネをしやすい。たとえ死んだって、貧乏人などいくらでも流れてくる。豊かなはずの現代日本の『原発ジプシー』といわれる人たちに似ている。
地域ボスのヤクザにとってえらく迷惑だとはいえ、聖女とまで言われた女は殺せなかった。そんな時に神殿から、「破門されたニセ聖女だ。死んでも神殿が揉み消す」という囁きが聞こえてきた。しかし、だれがマリアを殺するかで、動きは止まった。喧嘩騒ぎで大怪我をしてマリアに癒されたヤクザは大勢いた。獣のような顔のヤクザだろうが嫌な顔もせずに治療し、「無茶をしてはいけませんよ」と言って優しく微笑むまだ少女のような聖女を殺せる人間のクズは、そうはいない。ましてヤクザは、迷信深かった。
そんな時に、ファルールで人を殺し尽くしてしまい、することがなくなった『神殿軍』の一部が聖都ルーマに戻ってきた。英雄気取りだが、どんよりした虚ろで据わった目をしていた。それぞれ百人以上は虐殺してきたこの連中は、人を殺しすぎたために心の一部を摩滅させていた。帰国しても正業に就く気にならず、徒党を組んで昼間から街中をうろつき、人びとから気味悪がられた。
ある日、お祈りに行った神殿で「ファルールの聖戦をおとしめる悪魔の女がいる」と囁かれた。連中は、ルーマでも悪魔を殺すことができるのが、嬉しかった。
マリア殺害の真相は、大神殿の神官の一部がお膳立てをし、スラムで一番下劣なヤクザの下っ端が手引きし、ファルール帰りの虐殺者たちが暗殺を実行した⋯⋯。
レオンは、クラーニオの丘の入口に向かって降りはじめた。顔面血だらけのジルベール君が、仲間の騎士に肩を借りている。
「おぉ。よく生きてたなあ。スゲーな! まだ一回分残ってるから、顔の傷を消してやろうか?」
最後まで斬り合ってフラフラなジルベールが苦笑した。
「自分の女顔が嫌だったんすよ。せっかくできた格好いい傷を消さんで下さい」
武人でもある貴族の顔についた傷跡は、命を張る実戦をくぐった印しであり勲章だ。せっかく命がけで痛い思いをして手に入れたのに、消されてしまってはたまらない。
レオンは、肝心の用件を忘れている。
「新手がきたら面倒です。早く帰りましょう」
バロバに声をかけて丘を下りようとする。
「おっ、お待ち下さい!」
「はあ?」
「あの、女神セレン様の御神勅を、まだお聞きしておりません」
そのためにここまできたのに、斬り合いに夢中ですっかり忘れていた。バロバたち神官にとっては、そんな斬り合いより女神の言葉の方がよほど大切だろう。
「あああぁぁ。これは失礼しました。セレンからは、三つ聞いてきました。一部重複しますが。では⋯⋯」
コホン、ちょっと咳払い。人差し指を天に向け、腕を伸ばす。
「女神セレンより神勅を伝える!」
ヒュイイイイイィィィィ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
指先から銀色のピンポン玉『女神の光』を発光させた。
奴隷市場の全員を昏倒させたマリアの千分の一の力も無いのだが、女神セレンの身分証明書として神官たちに絶大な威力を発揮した。バロバを先頭に、聖都ルーマ大神殿の高位神官たちが平伏した。
「女神セレンは言った。二度と癒しを行うことはない。されど我は、人界に剣を投げ込まん⋯⋯。
一、神殿と神官は自由に活動するがよい。女神は容喙しない。
二、女神が顕現することは、二度と無い。
三、女神は剣を投げ込んだ。神殿はレオンの邪魔立てをするな。
⋯⋯以上です」
平伏している神官の皆さんがガタガタふるえはじめた。
女神様に、「二度と来ないから、勝手にしてろ」と引導を渡されたのだから、無理もない。神官たちは泣いていた。
女神と聖女を葬って、未遂とはいえ今度は神の使いを殺そうとしたのだから、普通はこのくらいは当たり前だろうと考える。ところが宗教者は、女神に無限の慈愛を求める。何度も殺されて、今も殺されかけたレオンにとって、そんな無意味なことは、もうコリゴリだった。
レオンがセレンティアを征服するのなんか、簡単だ。
この世界の教皇的立場にいるバロバ大神殿長を『女神の光』で従わせ、各国神殿に通達を送らせ、狂信的な神の軍団でも組織し、服従しない国に軍事的圧力をかけ、それでも降伏しなければ信者たちにゼネストを起こさせ、最後の手段に神軍をさしむけて宗教戦争をしかければ、十年以内に世界を征服できるだろう。
必要だと割り切ったら、戦争や殺人に躊躇するレオンではない。しかし、そんなことをしても、ファルールの地獄の三の舞になるだけなのは分かる。十年後に統一される宗教国家セレンティアは、滅び去ったファルール聖国のような息が詰まる神権国家になるだろう。
さまざまな軛と鎖から人間を解放しその無限の可能性を自在に伸ばそうという弥勒五十六=弥勒菩薩と新東嶺風=レオン・マルクスの理念とは、神や宗教にとりつかれた社会は、逆のものだ。
敵も急だったらしく、殺し屋どもが甲冑をしていなかったのが幸いだった。護衛団は、剣のたぐいは失っても甲冑を身につけていたので、だれも死なずに済んだ。
殺し屋どもの死体九個と捕虜一人を馬車に積んだので、神官の一部は死体と同居する羽目になった。さすがにメイドちゃんや侍女たちを、血だらけ死体と一緒に運ぶのは、かわいそうだ。きっと泣いてしまう。
さっきまで真剣で斬りあい、殺した敵の返り血を浴びている護衛騎士が、敵からぶん捕った血糊がついた抜き身の剣を十三本もギラつかせ、ピリピリと周囲を警戒しているのは異様だった。剣がまわってこなかった七人は、棒切れを拾って振り回している。自国の王女が暗殺されかかったと思っているのだから、護衛団が戦闘態勢を取るのは当然なのだが。
たまたま通りかかった村人がビックリして逃げていったのを、「敵の斥候ではないか?」などと、本気で言っている。いよいよルーマに近づくと、抜き身の剣を構えて血の臭いを漂わせている集団に野良犬が吠えかかり、気が立っている誰かがそいつを斬り捨てた。通行人は、みんな逃げ散ってしまった。
ルーマの城門の入口で、警備隊とひと悶着あった。警備隊としては当然だが、斬殺死体と半殺しを十も馬車に積んだ血まみれ抜刀集団を、市内に入れるわけにはいかない。血まみれ護衛団は、「敵の追撃があったらどうする」と殺気立っている。入れろ入れないの押し問答になり、あわや強行突破で血を見そうになったところで、あわてたバロバ大神殿長が割って入り、どうにかことなきを得た。
ルーマ市内に入ってからも、包帯でミイラ状態のジルベール君をはじめ血まみれ騎士たちが、騎馬で大通りを駆け回り、路地ごとに敵がひそんでいるのではないかと点検する。「フランセワ王国と戦争になった」などとデマが飛び交い、ここでも市民はみんな逃げてしまった。通りにいるのは野良犬と悪ガキどもだけで、血まみれ騎士を指さして「カッコいい」なんて言っている。隊長とミイラ騎士が人気を二分し、女性騎士のローゼットは女の子に人気があった。
ようやくルーマ大神殿にたどり着くと聖本堂の入口に、「勝手に忘れてったんだろ」と言わんばかりに、護衛団の剣のたぐいが並べてあった。これを見て激怒したラヴィラント隊長が、なにも知るはずもないバロバ大神殿長に食ってかかった。敬虔な信者であるローゼット女性騎士が、必死になって隊長をなだめる。バロバは、もう頭を下げるしかできなかった。
レオンは、バロバと話をさせてもらうことにした。世話になったのに、このままではあまりにも気の毒だ。常にレオンを尊重しているラヴィラント隊長は、なお怒りながらも引き下がってくれた。
「バロバさん。セレンは、人間を見捨てたのではないと思います。ただ、二回も殺されて、病気を癒すことでは人間全体を救えないと判断しました。その証拠に、剣を投げ込んだと言っています。剣は、役にもたつ⋯⋯」
朝に較べるとバロバは、十歳は老けて見えた。だが、この人が抑えてくれないと、絶大な権力を得た神殿勢力が、なにをするか分からない。
「あなたはマリアに、「女神が昇天した今となっては神殿が民衆の支えになる」と言いました。腐った者を神殿から取り除ければ、それもひとつの道です」
バロバは誠実な男だった。
「私のせいで聖女マリアが殺されたのだと、ずっと悔やんできました」
この男は、二十年も悩み続けていたのだ。
「マリアに手を下したのは今日の連中だし、指図した者は大神殿に隠れています」
バロバは、責任感も強かった。
「その者どもを、ここまで増長させた私の責任は⋯⋯」
自分で言ったことを、忘れたのかな?
「「民の声は、神の声なり」ですよ。真にマリアを殺したのは、民衆です。ほとんどの者が良心の呵責を感じていた時に、その良心を突いて正しいことを叫んだマリアは、憎まれました。痛めつけられている弱者や少数者を侮蔑し踏みにじるのが、人間です。そして、踏みにじられた弱者の側に立つ人を憎むのもまた、人間の一面でしょう。マリアの死は必然でした」
弱者や少数者の側に立つ人を憎み、嘲笑してみせ、醜悪な優越感にひたる者は、現代の日本にも幾らでもいる。良心が欠如しているから平気で嘘をつきデマをとばす。恥知らずだから同類で集まり衆を頼む。自分に自信がないから攻撃的だ。そして最後には頼みの綱の『差別』にすがりつく。下劣な差別を非難されると、やれ「これは区別だ」やら、「表現の自由だ」やらと金切り声を張り上げる。
「世界中の神殿を掃除して下さい。そして、これはお願いですが、世俗の政治に関わらないで下さい。皆を不幸にしますから。あのファルール聖国がいい見本です」
バロバは、背筋を伸ばした。今まで手をつけなかったことを、始める決意をしたのだ。
「分かりました。⋯⋯あなたが、投げ込まれた『剣』なのですね? 愚問ですが、なにをなさるつもりなのですか?」
「まず、結婚をするつもりです。婚姻の誓約式の司式者をお願いできないでしょうか?」
バロバは、少々意外だった。『剣』などというから、もっと不穏なことを想像していたのだ。
「それは⋯⋯⋯⋯おめでとうございます。相手の方は⋯⋯。あぁ!」
「えぇ。ジュスティーヌです」
外見は少し熊で、性格もかなり暴れ熊に似ているレオン・ド・マルクス伯爵と、フランセワ王国の薔薇とも謳われる優美なジュスティーヌ・ド・フランセワ王女。強い男と美しい女。バロバには、お似合いに思えた。そして、神使の結婚式の司式者という栄誉を女神に授けられたことを、大層嬉しく感じた。それに大国であるフランセワ王国の王女は、女神の剣の妻にふさわしいように思える。
「なるほど。喜んで務めさせていただきます。して、証人は?」
レオンは、血だらけ護衛団やメイドたちを指さした。
「そこにいます。足りなかったら通行人を捕まえて頼みましょう」
レオンらしいと思っただけで、バロバは驚かなかった。
「人数に規定はありませんので、その必要はございません。それで、式はいつに?」
「今です」
これには、さすがのバロバも、たまげた。
王族と貴族が、今すぐこの場でケッコン? 駆け落ちでもあるまいに。
ジュスティーヌの結婚支度を手伝っているアリーヌ侍女は、困惑していた。姫様が、「今すぐこの場で結婚式をする」と非常識な宣言をしたのに、特に反対する者もいない⋯⋯。
ジュスティーヌが野盗に襲われた件をアリーヌは、まだ後悔していた。出発を泣いて止めて、ジュスティーヌたちが振り切って行ってしまうと深夜の王宮を駆けて国王陛下に報告に行ったマリアンヌの方が、正しかった。
横目でマリアンヌを窺うと、涼しい顔をして姫様の後ろに控え、なにか準備をしている。一番年長で隊長のラヴィラント伯爵は、結婚式が始まるのをおとなしく待っている。一番家格の高いジルベールは、顔は包帯でグルグル巻きだけど口は笑っている。唯一味方してくれそうだったローゼット子爵夫人騎士は、ルーマ大神殿聖本堂で結婚式をするという前代未聞の王女殿下の栄誉にボーゼンとして腰を抜かしそうだ。そういえばこの人は、女神セレン正教の熱心な信者だった。「ああ、だめだ。止められないわ⋯⋯」。アリーヌは、お尻から空気が抜けたみたいになってガックリきた。「あんなガサツな男と姫様があああ⋯⋯。姫様、気の迷いです」。
レオンと並び聖本堂内に設えた式場に向かい歩いている時に、バロバは、生涯忘れることのできない歓喜の体験を得た。レオンがふと足を止めると、壁に沿って並んで立っている数トンはありそうな大きな木の柱を眺めている。
「あの大きい柱は、バロバさんが一人で立てたんですよね。すごいなあ!」
レオンが知るはずもない二十三年前。女神セレンの奇跡に感激して強盗団を解散したバロバは、聖本堂建設の土木作業に精を出していた。信仰から得た力を振るって一人でこの巨大な木の柱を担ぎ、持ち上げて地面の穴に差して、立てた。バロバの剛力に周囲の者はヤンヤの大喝采だった。だが、この力持ちが後にバロバ大神殿長になると知る者はいない。バロバも、周囲の者たちがどこのだれかも知らず、今となっては調べようもない。
バロバは、このことをだれにも語らなかった。ただ、この柱に特別な愛着を持ち、通りかかった際にそっと撫でたりしていた。
バロバは、神使レオンの顔をまじまじとながめた。気にもとめずレオンは続ける。
「セレンも見てました。それで、すぐに肩の傷を癒した。見て知ったから、強盗団の首領だったとしても⋯⋯。いや、違うな。強盗だったからこそ、セレンは正しいだけでなく、ふさわしい人としてバロバさんを大神殿長に指名しました」
無茶な作業で骨が見えるほど擦り切れた肩の傷が、その時、銀色に輝くとともに瞬時に癒されたことを、バロバは思い出した。「女神セレン様がご覧になっておられたか⋯⋯。なんとありがたい」。バロバの心は、歓喜に満たされた。
レオンとジュスティーヌの結婚式は、簡素なものだった。ジュスティーヌは、王家のティアラを着けているものの白い清楚なドレス風の服だ。レオンは、普段着で帯剣していた。
ジュスティーヌは、白く美しかった。嫌々従ってきたアリーヌですら、姫様の女神のような美しさに有頂天になってしまったほどだ。「まるで大輪の白薔薇だわ」。
説教檀のバロバが祝祷を唱え、結婚証明書に司式者の署名をした。続いてそこにいた全員が、証人の署名をする。王族と貴族の間の結婚証明書に、護衛騎士やメイドが署名する前代未聞のものになった。それに普段は『司式者の署名』をする側の神官たちも、命を助けられたレオンに頼まれて証人の署名をしてくれた。
全員の署名が終わると、夫と妻が署名をして婚姻の誓約が成る。
夫が先に署名することになっている。ささっと左側に元気な字で書いた。
『レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス』
妻は、その右側に同じペンで署名する。レオンが、いま書いたばかりのペンを渡した。
『ジュスティーヌ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネ⋯⋯⋯⋯
ここでジュスティーヌの手が止まってしまった。迷っている。レオンが横から小声でささやいた。
「フランセワ・マルクスだ。フランセワを入れろ」
「ええっ? で、でも、それは。⋯⋯うぅ⋯⋯⋯⋯はい」
ジュスティーヌは、驚いてレオンを見て、再び結婚証明書に向かい、決心したように署名を続けた。
『ジュスティーヌ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネ・ド・フランセワ・マルクス』。優美な字だ。これでレオンとジュスティーヌは、夫婦になった。
指輪の交換は、指輪を手に入れる時間が無くて省略としたのだが⋯⋯⋯。
「お待ち下さいっ!」
元気声でネコ目顔の侍女が、駆けよってきた。王宮に軟禁されていた時に、レオンが瓶を投げ腕関節を外した見張りの保安員だ。
「なんだ、キャトゥじゃないか? いたのか?」
「なるべくお目につかないように、ご一緒してましたよ~。こちらは国王陛下から、必要なら使うようにとお預かりしましたっ」
ちょっとうやうやしげに小箱を渡し、急いで戻っていく。小箱には指輪が二つ入っていた。
「ありがたい」などと言いながら、レオンは指輪をつまんで自分の指にはめようとする。
「小さくて入らないぞ~」
ジュスティーヌが柔らかく微笑んだ。
「それは、わたくしの指輪です。レオ⋯⋯あなたは、こちらの指輪ですわ。それに、お互いに指輪を交換するのです」
聖都ルーマには、五日間の滞在予定だ。
レオンは、二日で用件を済ませてしまった。マリア殺害は、セレンティアでは二十年前の出来事だが、昏睡していたレオン=新東嶺風にとっては、ほんの三カ月前のことだ。その聖女マリア時代の後始末ができた。
わざわざクラーニオの丘に行ったのは、あわよくば聖女マリアを殺した敵の残党をおびき出し、あぶり出すつもりだったからだ。まさか王宮親衛隊の護衛団が、神殿に武器を取り上げられるとは想像もしていなかった。
襲撃してきた敵の狙いは、明らかだ。レオンの暗殺とバロバ派神官の一網打尽である。今ごろ大神殿では、潰しにいくバロバ派と、それに抵抗する反主流派が権力闘争を繰りひろげているだろう。殺し屋集団を使うような危ない橋を渡る反主流派が、本気になったバロバ大神殿長に勝てるとは思えなかった。安易に暗殺に頼るような反主流派神官たちも、おそらくファルールの地獄が生み出した遺産なのだ。
神官連中が権力争いに熱中してレオン一行を忘れてくれている間に、新婚旅行のルーマ観光をすることにした。ジュスティーヌは大喜びだ。
王女は、自由に王宮から出ることはできない。レオンならば、メイド部屋に顔を出して女神イモむきで遊んだり外に繰り出すこともできた。しかし王女は、王族区画から出ることさえ難しい。最高級に贅沢な暮らしはしていたものの、実質的には囚人とそう変わらないのだ。知的好奇心が強く行動的なジュスティーヌが、耐えられる環境ではない。なんとか十九年我慢したが、それでも「奔放で甘やかされた第三王女」などと陰口をたたかれた。とうとう家出同然に王宮を飛び出し、野盗に襲われる羽目になった。
知らない街を自由に歩ける。これだけでもジュスティーヌにとって、大変な贅沢だった。王女といわれるこの女性も、また犠牲者だった。
建設会社社長の娘のリーリアが古着屋で買ってきた平民服を、ジュスティーヌはウキウキと着てみた。ところがこれが、おろしいほどに似合わなかった。姿勢、体型、手足の長さ、顔だち、仕草、声、歩き方まで、まるで平民と違う。平民服を着た貴族にしか見えやしない。
仕方なく再度リーリアに古着屋に行ってもらい、ダブダブの服を買わせた。あまりに美しすぎる髪は、ダブダブ服の中にしまって隠し、スカーフを巻きつけて貴族っぽい顔の輪郭も隠した。最後に大鏡でダブダブ服を着た自分の姿を観たジュスティーヌは、はしたなく数分間も笑い転げてしまった。
表通りを歩き、観光名所や市場を見てまわった。護衛の姿がチラチラしたがたいして気にもならず、ジュスティーヌは、生まれて初めての自由を満喫した。「今までで一番楽しかったです」などと言っていた。
「これからは、王女というより伯爵婦人だからな。マリアンヌをつければ、自由に外にでていいよ」
生まれながらの囚人が、解放された。
翌日、護衛をまいてジュスティーヌを、マリアのスラム街に連れて行った。掘っ建て小屋に住んで飢餓線上にある人たちが存在することを「知っている」だけなのと、実際に「見て嗅ぎ体験する」のとでは、大違いだ。レオンは、以前のスラムに連れていくという約束を守り、ジュスティーヌに見せておきたかった。
突然後ろから刺されて財布を奪われたり、道端に死体が転がっていないだけ、スラムといってもまだましな場所だ。だが、すえた臭いがただよい路上にまで餓えと不潔が蔓延している。
上辺を撫でた程度とはいえ、それを見てしまったジュスティーヌは、王族としての義務感を刺激されたのだろう、「民をこのような環境におくことなど、許されません。イタロ王室は、なにをしているのですか」などと言って、怒っている。まあ、フランセワ王国に帰ったら、今度は王都パシテのスラム街にも連れて行ってやろう。
スラム街を抜けて貧民街に入ったあたりで、『聖マリア神殿』にぶつかった。
「ここは、聖女マリアが貧民学校を開いていた跡地だ。マリアが殺されたら、たちまち神殿に建て替えられた⋯⋯」
スラムの掘っ建て小屋を見た後では、ものすごく豪華な宮殿のようにも見える。
「貧民学校のおかげで毎年五十人がスラムから出れたとしても、新たに五十人がスラムに入ってくれば同じことだ⋯⋯」
レオンは、ジュスティーヌにではなく自分に向かってつぶやいている。
「バロバが学校をつぶして神殿を建てたのは、当然だ。人びとの心を安らげるのが、やつの仕事だったからな。誠実に任務を果たしただけのバロバを責めるのは、身勝手だな」
そんなことを言いながらも、全身から不快感を発して通りすぎていく。
「あら? 中には入りませんの? せっかく⋯⋯」
「どうせ、聖遺物とか称するガラクタが並んでるだけさ。物をさながら神のように崇め立てることを、『物神崇拝』という。くだらないものに騙されるなよ」
「じゃあつぎは、『悪い場所』の売春窟に行くぞ」
そこは、スラム街近くの貧民街にある。
さすがにジュスティーヌは、ギョッとした。売春窟がなにをする場所かくらいは、レオンの乱行のおかげで知っていた。
「え? な、なにをなさるのですか?」
「いくらなんでも、新婚の妻を連れて買春遊びはしないぞ。どんなところか見てみたいんだろ?」
昼間なので大半の売春小屋は閉まっている。探すと何軒か『営業』している小屋があった。オバサンが入口前の椅子に座って、ぼんやりしている。
「よう、悪いな。部屋だけ貸してくれや。三千出すぜ」
仕事は無しでカネだけ入る。こんなに良いことはないだろう。
「一時間だよ。汚さないどくれよ」
さっさと売春小屋に入っていくレオン。ビクビクしながらジュスティーヌが続き、すぐに手で、鼻と口を覆った。
「うっ。なんですか? この匂いは」
不潔と性行為の悪臭をまぎらわせるために甘ったるい香が焚かれ、不快感をさらに増している。
「オレは、安売春の匂いと呼んでる」
売春小屋の構造なんて、どこも似たようなものだ。酒土瓶が転がってるテーブルの向こうに、極めつけに不潔なベッドがあった。ジュスティーヌは、幽霊でも見たような表情になった。
「ここで客とセックスする。代金は三千ニーゼが相場だ」
もう、ジュスティーヌは涙目だ。
「こ、このシーツは?」
「精液とか、よだれとか、汗とか、あと女の⋯⋯」
「ひっ!」とかいって後ずさったら、ドロンとした水の入った壷に足がぶつかった。
「始める前に、そいつで股ぐらを洗うんだよ。床に水をこぼすと怒られる。これはもう二十人くらいは⋯⋯」
ジュスティーヌは、きびすを返して屋外に逃げ出した。ついていくと両手で口を押さえて、えずいている。
「あっ、あんなことを⋯⋯くらいなら、わたくしはっ、舌をかんで死にますっ。ウッ、ウウッ、ウエッ!」
⋯⋯⋯⋯近くに人がいなくて良かったなあ。殴られるぞ。しかし、そんなに吐きそうになるほど、ひどかっただろうか? レオンは、悪所に慣れていた。少し優しい口調になる。
「なあ、こんな商売をしたい女は、たぶんいない。家族や事情を抱えて売春しないと生きていけないんだよ。「ワタシなら死ぬ」というのは、「オマエは死ね」とか「死ねるワタシの方が高い」と、そんな境遇の人たち見下しているのと同じだ。恵まれた者がそれをいうのは、傲慢だろ?」
ジュスティーヌが、ショックを受けて落ち込んでしまったので、帰ることにした。最底辺を見せられて、ひどくしょげている。
「スラムや売春窟を無くすには、貧困を撲滅することだ。社会全体を豊かにして、そのうえで分配を公正しなけりゃならない。それを力づくでやる。手荒い仕事になるが、一緒にやろう」
ジュスティーヌが、顔を上げた。良く言えば目がキラキラ、悪く言えばギラギラしている。無為に過ごしてきたが、ようやく生きる意味を見つけた人間の顔だ。
「はい。やりましょう」
闘争に学生をオルグする場合、どんなに言葉で説明するより現場に連れて行くのが最も効果があった。機動隊が待ちかまえていて嫌がらせで小突き回したり、持っていたカバンを取り上げて手を突っ込んでかき回し、中のものを地面にまき散らしたりする。
そんな程度の弾圧に屈伏して、二度と関わろうとしないやつも多かった。そんな腰抜けは、いずれ裏切るからむしろ不要だ。逆に権力の横暴に怒り、同志になって団結小屋に住み着いてしまったり、そこまでいかなくても支援してくれるようになった人は多かった。
どうやらジュスティーヌは、社会悪に怒るタイプのようだ。レオンは、得難い同志を獲得できた。
多くのものを見すぎて何かの毒にあてられたのか、翌日のジュスティーヌは、少し具合が悪くなってしまった。
ベッドで休んでいると、レオンがウロウロと看病しようとしてアリーヌに追い出されているのが微笑ましかった。
レオンは、ジュスティーヌのことを少しずつ愛しはじめてもいた。なによりも三回も様々に生まれ変わってきたレオンにとって、初めて得た語るに足る『同志』でもあった。
レオンは、『大切』な人間ができてしまったのだ。これは、特定のヒト・モノ・コトに執着しないという弥勒の教えとは反する。人間の男の身体に戻り、レオンは良くも悪くも相当に人間的になった。
昼過ぎには体調が良くなったジュスティーヌは、お気に入りの白い服を着てレオンと腕を組み、今日は貴族としてきれいなところばかりを巡り、ルーマの休日を楽しんだ。
いよいよフランセワ王国に帰国する日、異常なほど特別なことに、一行をバロバ大神殿長が見送った。後ろに従う神官たちの数が先日よりも増えている。派閥争いを優勢に進めているのだろう。周囲をフランセワ王国の騎士が護衛する中で、二人は最後の挨拶を交わした。
レオンは、少々感傷的な気分になっていた。
「最後ですが、お願いがあります。聖マリア神殿の近くに五十人くらいが学べる貧民学校を建てて下さい。資金はお送りします」
あわてたバロバがこたえた。
「あれは、マリアに申し訳ないことをしました。資金は不要です。当方で再建いたします」
レオンは、バロバに釘を刺した。
「神学校を建てるのは、やめて下さい。子供が一年で読み書き計算できるように訓練する実技学校を建てて下さい」
バロバは意外に感じた。
「世俗的ですな⋯⋯」
レオンは、にこやか返した。
「世俗の世界で、やりますよ。徹底的にね」
「わたしども神殿の役割は、心の救済ですな」
周囲の者にはなにが面白いのか分からなかったが、二人で笑い合っている。
金髪碧眼の貴族的で美形な顔に念願の傷跡をつけることができたジルベールは、二人を見て思った。「センパイと一緒だと面白いことばっかりだぜ。センパイにくっついてったら、面白い人生になりそうだ。これからも、ついてくぜい」。
ラヴィラント隊長もその場にいた。「マルクス伯爵は、女神の代理人である大神殿長様と同格のお方。うむ。やはり女神セレン様の眷属なのだ。国王陛下の次ぎに守護せねばならぬお方である。極秘にラヴィラント伯爵家の者に申し伝えねば」。
王宮侍女を退職するマリアンヌは、王女馬車に荷物を載せながら聞いていた。「働きやすい王女侍女をクビになりそうでしたけど、マルクス伯爵様に拾っていただけて助かりましたわ。マルクス伯爵家は、ずいぶんと荒々しい職場のようですから、投げ剣の訓練をやり直さないと」。
信仰深いローゼット女性騎士は、もう何度も見ているバロバ大神殿長の声を聞いて再度感激していた。任務がなければその場で拝礼したかったほどだ。「こんな男が、大神殿長様に対等の口をきくなんて⋯⋯。いいえ、女神セレン様のお考えは広大無辺。大神殿長様は、女神の代理人。わたしの考えなど及びもつかない理由があるのだわ」
レオンの目につかぬようにこっそりついてきていたキャトゥ・ヌーコ二級侍女・保安員は、見つかって痛めつけられずにすみ、ホッとしていた。この旅のレオンの言動や動向は、キャトゥによって毎日記録され王宮に送られていた。「この会話も、国王陛下にお送りしますわよぉ~」。
そのころフランセワ王国パシテ王宮では、国王アンリ二世が、表のラヴィラント隊長と裏のキャトゥ保安員から別々に届いた娘の結婚証明書の写しを眺めていた。「半信半疑だったが、ジュスティーヌのやつ。本当にやりおったわ」。これが国王というよりも父親としての感慨だった。
父王は、「ジュスティーヌが男だったら」と何度思ったか分からない。抜群の頭の良さと考え深さ。性格の強さ。恵まれた容姿。王族としての威厳。隠れてはいたが決断力と実行力にも優れていた。いささか優しすぎるのが欠点だが、女なのだからこれも美点だ。
これほど優れた娘を王宮に囲い込んでいることに、父王は強い罪悪感を抱いていた。だが、うっかりどこかの大貴族に降嫁させたら、十年またずにその貴族家が貴族集団をまとめ上げ、王家に対抗する大勢力になるだろう⋯⋯。父王は、それほどジュスティーヌの能力を高く評価していた。
この結婚証明書を見ただけで分かる。司式者が、バロバ大神殿長? 女神の代理人が、たかが第三王女ごときに? 常識では、あり得ない。
そのうえ、上位貴族家の結婚式で司式者になって少しも不自然ではない大神殿の高位神官が、証人として三十人もずらりと名を連ねている。かと思うと、護衛騎士?侍女?メイド!が王族の結婚証明書に署名していたりもする。こんな結婚証明書は、空前絶後だろう。
この神官団を敵に回すことはしてはならない。「フランセワ国王が勝手に無効にするから、もうフランセワ人には結婚証明書を発行しない」とやられたら貴族が大騒ぎし王権が揺らぐ。この結婚証明書と結婚の無効を言い立てることは、不可能だ。元々そんな気はないが⋯⋯。
普通は王女の結婚ともなれば、フランセワ王国中の貴族がパシテ市に集まって、やれ披露宴だパーティーだと二週間はつぶれる。証人の署名は、選ばれた貴族が二千人以上も順番に、結婚証明書に紙を継ぎ足し継ぎ足しして書くものだ。だが、貴族二千人とこの高位神官三十人の結婚証明書のどちらに価値があるかといえば⋯⋯。娘夫婦の手腕に父王は感嘆した。
さらに父王は、娘の署名に目をやった。ここが大問題なのだ!
ジュスティーヌ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネ・ド・フランセワ・マルクス
結婚してマルクス伯爵家の女主人になったのに、『フランセワ』姓が外れていない。第一王女と第二王女には、結婚の際に全てフランセワ姓を抜かせている。たとえば、公爵家に降嫁した第一王女は、公爵夫人という貴族になり、情はともかく籍の上ではもう王族ではない。娘王女の婚姻で、王権に手が届くことが可能な貴族の外戚をつくるわけにはいかないのだ。
フランセワ王国は、領主貴族の集合体である封建国家から中央集権的な絶対王制へのゆるやかな移行期にあった。国王アンリ二世は、生涯にわたって穏健ながらも少しずつ貴族の権力を削ぐ政策を採ってきた。それが分からぬジュスティーヌではない。分かっているならば、『フランセワ』の王族姓は、自ら返上するはずだ。
父王は、考え込んでしまった。レオン・ド・マルクス『伯爵』のことだ。剣の天才で、野盗十四人に続いて今度の巡礼旅行でも、謎の刺客を五人もたちどころに斬って捨てたという。天才にありがちな、生活力や常識が欠落した人物なのだろう。国王の面前で決闘騒ぎを起こすような男だ。
下賜した恩賞は、野盗退治で焼いてしまった宿屋に全部くれてやったと聞いた。驚いた宿屋が、王宮に届けてきて発覚した。通常なら処罰ものだが、相手は王女の夫だ。この始末はどうなることやら⋯⋯。
王宮をウロウロして身分の低い下女と無邪気に遊んだり、親衛隊の道場で稽古をつけて、勢い余って騎士を叩きのめしたり。それに酒と乱痴気騒ぎといかがわしげな女が好き⋯⋯。うぬ。父親としてジュスティーヌが心配になってきた。
たしかに夫がアレでは、ジュスティーヌも不安であろう。マルクス『伯爵』といっても領地があるわけでもない。屋敷や使用人すらない。無職でほとんど無一文だ。有力な親戚や後ろ盾もない。考えるほどに、ますますジュスティーヌが心配になった。
あの男は、ジュスティーヌの持ち物を売り飛ばしたりしないだろうか? 王族の宝石が市場に出回ったりしたら、王家の沽券に関わる。悪質な大貴族などよりは余程よいが、あの賢いジュスティーヌが妙な男に引っかかったものだ。さらにさらにジュスティーヌが心配になった。
やがてジュスティーヌから手紙が届いた。今までにお父様から受けてきた愛と恩を切々と並べ、自分は悪い娘であったと反省し、勝手なことをしましたと謝り、「おねがいでございます。どうか、フランセワ王家の片隅にいさせて下さいませ」。
父王は、ジュスティーヌには甘かった。例の結婚証明書や結婚相手が少し狂気じみているという事情もある。ジュスティーヌが王籍に留まることを許可した。これでジュスティーヌは、正式に王女を名乗ることが許された。レオンは準王族となる。
六十歳台のバロバと二十歳台のレオンは、お互いに肩を叩き合って別れを惜しんだ。
「レオンさん。あなたは、これからなにをなさるつもりですかな?」
レオンは、天を指した。それから地を指差す。
「セレンとマリアは、天から舞い降りて地上に至りました。私は地上から天に上がりたいと考えます」
今さらきくまでもない質問なのだが。
「どうやって、ですか?」
「力です」
遠ざかる馬車列を見送り、やがてバロバは感慨に耽った。
女神セレンが再び降臨されることは、もうないのだ。しかし、絶望しなくてもよい。女神様は、この世界に剣を投げ込まれた。それはきっと、必要なことなのであろう。我々は、まだ見捨てられていない。
まずは、女神セレンのご意志に逆らう者どもを大神殿から掃除せねば。マリアに顔向けができぬ。
レオンは、バロバの決意を少々軽く見ていたかもしれない。数カ月後、フランセワ王国でレオンは、「聖都ルーマ大神殿の神官が、二十数名も不慮の事故で死亡した」という王宮諜報部の報告書を目にして、何日か機嫌が良かった。
二人の帰国の旅について詳細に書くことはしない。平穏で仲むつまじく幸福であったとだけ述べておこう。しかし、アリーヌを絶望させたことに、レオンは新妻に八日間みっちりと講義を行った。
新東嶺風は、闘争にばかりかまけ、良い学生ではなかった。多くの知識は、大学受験レベルで止まっている。大好きだったマルクス=レーニン=トロツキー主義の知識も、かなり偏ったものだ。だが、現代の地球より文化・文明が三百年ほど遅れているセレンティア人であるジュスティーヌには、レオンは天才的な知識の宝庫に思えた。それまで王宮で逼塞させられていたジュスティーヌは、砂が水を吸い込むようにそれを吸収した。知識が注入されることで、人は変わる。思想が人をとらえて動かすようになることで、物理的な力となる。
レオンの『教育』のおかげでジュスティーヌは、フランセワ王国パシテ王宮に到着したころには、この城を出る前とは少し異なる人格になっていた。
この若い夫婦に、破壊や殺人までもをやむ得ないこととして決意させたのは、社会にはびこる貧困や不正という悪だった。
レオンは、文字どおり『剣』となってセレンティアの社会を根底から覆し、組み直そうと決意していた。そのための手段は、戦争と革命である。ジュスティーヌは、『盾』となってレオンを支えてゆくだろう。
このまま進めばレオンは、屍の山を築き、多くの人びとを地の底に沈めることになる。女神と聖女の失敗で、すでに四千万もの人を殺してしまっている。今さらなんのためらいがあろうか。
筆者には、この二人の道が三度目の地獄に続かないように願わずにはいられない。だが、レオンには、『裏切られた革命』の知識と、醜悪な結果に終わった多くの闘争の記憶がある。
この先にも、まだ物語は続く。剣を振るい、血の海を泳ぐ物語だ。それは、これまでとは全く異なるものになる。ならばそれは、別の機会に書くべきだろう。我々のこの物語は、一旦ここで終えることにする。
(完)