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コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第1章 さよなら、羽賀コーチ その4

 羽賀さんの事務所には、今たくさんの人がいる。けれど、なぜだかとても静か。テレビの音だけが虚しく響いている。
 誰ひとりとして言葉を発しようとしない。いや、何を発すればいいのかわからない。私も、ミクも、そして他のみんなも。
 今、口を開けば、その名前を呼べばすぐにでも姿を見せてくれる。そんな錯覚に陥ってしまう。それだけ、羽賀さんは私たちの心の中にいてくれているんだ。
 だから、今のこの現実を受け入れることができない。
 テレビには虚しく、飛行機墜落の文字が流れている。どうやらヘリコプターが墜落現場に到着したみたい。そこから流れる映像。それは目を覆いたくなるものだった。
 まだ山肌に炎が上がっている。闇夜なのに、黒い煙がはっきりとわかる。
 これを見れば、誰がどう見ても乗客が絶望的な状況であることは理解できる。私もその事実を冷静に受け止めることはできた。
 万が一、生存者がいたとしても。今のこの状況からどうやって助け出せるというのだろうか。もう希望は持たないことにした。今はただ、その事実を呆然と見ている以外になかった。
 自分でも今、おかしいって思っている。さっきまで羽賀さんの安否をあれだけ考えていたのに。今となっては、航空機事故を冷静に見ていられる自分がいるんだもん。どういうことなのかしら?
 そう思いながらも、目線はテレビを向いていた。今はここからしか情報を得ることができないのだから。
「おい、いるかぁ」
 事務所のドアが開き、ぶっきらぼうに一人の男性が入ってきた。
「あ、竹井警部」
 ミクの声に一瞬目をやる。けれど、その姿を確認したらまた目線はテレビを向いていた。
「舞衣さん、大丈夫か?」
 竹井警部は私にそう言葉をかける。けれど、私は何も答えない。答えたくないのではない。なんと答えればいいのか、その言葉が出てこない。
「舞衣さん、さっきからおかしいの。ぼーっとテレビの画面に目をやって。ね、舞衣さん、大丈夫?」
 ミクが竹井警部にそう説明する言葉も頭には入っていた。けれど、何も考えることができない。その言葉に意見をする気力さえない。
「舞衣さん、ショックが大きすぎて現実を受け入れられないんじゃないかしら。私だってショック大きいわよ。でも、今は事実を確認するまでは目を反らすわけにはいかないから」
 堀さんはそう言う。けれど私は現実を受け入れられないわけじゃない。羽賀さんはもうここにはいない。ここには戻ってこない。それはちゃんとわかっている。でも、それ以上何も考えることができない。ただそれだけ。
「あ、電話」
 事務所の電話がなる。ミクがそれに出る。
「はい、はい、そうです。はい。間違いありません。羽賀純一。確かにここの人間です」
 ミクが誰かと話している。でも、それにも関心がない。
「ミクさん、誰から?」
「うん……航空会社から。羽賀さんはここの人で間違いないかって……」
 質問をした百合さんは、ミクのその言葉を聞いた瞬間、ワッと泣き出した。これで間違いなく、羽賀さんはあの飛行機に乗っていたことになる。その事実をあらためて知らされた。
「そういえば、北海道には桜島のじいさんも一緒に行っていたんだよな。あのじいさんは飛行機は別なのか?」
 唐沢さんは思い出したようにそう言う。そして急いで携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「あ、桜島さん。今どこに? えっ、まだ北海道? はい、そうです。羽賀が乗った飛行機で間違いないようです。えぇ、では空港で別れたんですね。そうですか。わかりました。ではお気をつけて」
「唐沢くん、どうだったの?」
 堀さんが真っ先に唐沢さんに状況を質問した。唐沢さんはやるせない顔で説明を始めた。
「桜島のじいさん、明日東京に帰る予定だったらしい。羽賀とは空港で別れたって。だから、間違いなく羽賀はあの飛行機に乗っている。桜島のじいさんも、ニュースで確認したみたいだし……」
 唐沢さんはそれ以上、何も言わなかった。そしてソファにどっかと腰を落とした。
 事務所にはまた落胆の空気が流れた。それを私はなぜか冷静に見ることができている。
 どうしてなの。私ってこんなに冷たい人間だったの。
 どうして泣かないの? どうして叫ばないの? どうして、どうして?
 私は私自身を責め始めた。羽賀さんって大切な人じゃなかったの? この程度の人だって思っていたの? いなくても、特に何も思わないの?
「あ、また電話だ」
 また電話にミクが出る。今度は何だろう?
「はい、あ、里山さん。ニュース、ご覧になったんですね。えぇ、そうです。間違いないみたいです。はい、はい……」
 どうやら羽賀さんやミク、トシくんが通っている自転車ショップの里山さんからみたい。ニュースを見て、心配して電話してきたんだ。
 この電話を皮切りに、さらに電話がかかってくるようになった。それも羽賀さんが以前お世話をしてきたクライアントさんや知り合いばかり。どうやら羽賀さんがあの飛行機に乗っていたということが、徐々に広がっているみたい。それで、その事実を確認しようとして電話が鳴り始めた。
 私はその電話に対応しているミクを冷静に見つめている。そしてこう思っている。
 今さら確認の電話をしてきたところで、羽賀さんがいなくなったのは変えようのない事実。もう羽賀さんは戻ってこないんだから。もう、二度と私たちの前に姿を表すことがないんだから。
 でも、どうして悲しくないの? 私、頭がおかしいのかしら?
 羽賀さんのこと、好きじゃなかったのかな。ただの他人だったのかな。この部屋を借りている、ただの間借り人だったのかな。
 そうじゃない、そんなんじゃない。羽賀さんはとても大事な人、私のとても大事な人。あの人がいなくなるなんて、考えられない。私、耐えられない。羽賀さん、羽賀さん、羽賀さん!
「うわぁぁぁぁっ、わぁぁぁぁん」
 その瞬間、私の頭は真っ白になり、そして何かが爆発したみたいに泣き叫んでしまった。

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