忘却 Ammonite
大分前の話
そこはホテルの廊下だった。
いや、普通のホテルの廊下にしては床や壁が不自然に白い。
なにより奇妙なのは、次の部屋が見えないぐらい、廊下が左に曲がっていることだ。
ここは…?
「おはようございます。貝塚さま。ホテル・アンモナイトへようこそ」
アンモナイト頭に挨拶された。
「おはよう、ございます。その、すみません。ちょっと頭が混乱してて。いくつか聞いても良いですか?」
「はい。私がお答えできる範囲でしたら」
「ここはその、アンモナイトというホテルで、私はそこで倒れていた…ということですか?」
「いいえ。ホテル・アンモナイトというのは愛称です。実際に宿泊施設として運営されているわけではありません。この施設は、まぁ端的に言えば記憶回復施設になります」
「記憶…回復施設?」
「えぇ。あなたは今からこのA・B・Cの3つの扉を開けて、過去を思い出して頂きます」

「人には忘却機能があります。情報の肥大化が著しい昨今においては特に重要な機能ですし、忘れる権利も認められるべきでしょう。ですが」
アンモナイトが頭を近づけて続ける。
「忘れてはいけなかった過去もあったのではありませんか?」
私は口を閉ざす。貝のように。
「ご準備ができましたら、目の前の部屋にお入りください。鍵は開けております」
扉は思ったより軽く開いた。
そこは私の子供部屋だった。
違うものが欲しくてわざと壊したおもちゃ。返すのを忘れていた図書室の本。赤点ギリギリの解答用紙。続かなかったギター。資格試験の教材。ママからもらった苦手なお土産。元カレからもらった趣味じゃないアクセサリー。
どれも思い出したくない物ばかりだった。
それらは消えて、後には白い部屋だけが残った。
「なるほどね。この施設の趣旨が分かってきたよ。あと2つ嫌なことを思い出せば良いのかな?」
「嫌なことかどうかは主観的ですが、おおむねその理解で問題ありません」
彼の言い方に少し腹を立てながら、私は扉を閉める。
閉めた扉を右手に、回廊を半時計回りに歩いて、次の部屋へ向かうことにした。
「なんでこの施設はアンモナイトを模してるのかな」
「施設の趣旨にアンモナイトの構造が合致していたからです」
「複数の過去を見せられる連室構造、シンプルな真珠色の内張の廊下、次の部屋を予見させない巻きがきつい螺旋、そして」
「今あなたが試したように、頑強な殻によって、破壊による脱出を防ぐことができる。そんなところでしょう」
「あとは…人がアンモナイトを見る時に過去や歴史に意識が向きがちだというややノスタルジックな意見もありますね。現存するオウムガイと違って、アンモナイトは絶滅してますから。思うところもあるのでしょうね」
「着きました。Bの扉は引き戸ですね。学校の。お好きなタイミングでお入りください」
「入らなかったら?」
「一生このままなだけですね」
私は扉に手をかけ、少しだけ重たい扉を開ける。
『ねぇ、私の言いたいこと分かる?』
私はすぐに扉を閉めようとするが、閉まらない。
「いけません。まだ再生が終わってませんので」
場面は橙色の教室に変わる。
『ずっと好きでした。私と付き合ってください』
『…ありがとう。すげー嬉しい。でも好きな人がいるんだ』
再生は終わり、後には白い部屋だけが残った。
私は扉を閉めた。
「ずっと後悔していたのですね」
「恋愛感情は絶対に伝えるべきだって考えてて、私はそれをサッチに押し付けた。自分がフラれるって分かっててサッチは告ったんだって知ったのはあの後だった」
「左様ですか」
「言い訳だけど、本ッ当に子供だった。あの後はサッチとも疎遠になっちゃってね」
アンモナイト頭に私は何をベラベラと喋ってるのだろう。
「ねぇ、この回廊って逆に歩いたら出られるのかな。どうせ最後の部屋はエグめの過去が待ってるんでしょ」
「お試しになられてはいかがでしょう」
私は踵を返して少しずつ歩みを進める。
いつしか全力で走っていたのはきっと頭の中がぐちゃぐちゃになってたからだと思う。
「ちょっとずつ、思い出させてよ…!」
何度めかのカーブを曲がって、そこにあったのは。
学校の引き戸とアンモナイトだった。
「誰も過去から逃れることはできません。決して」
私は諦めて、最後の部屋に向かうことにした。
「最後の部屋に入ったら私帰れるの?」
「それは間違いなく。これは少しばかり強制力を有するただの夢ですから」
「私以外にこういうの見る人いるのかな」
「最近増えてらっしゃいますね。特に政治家の先生などはよくお見かけします」
長い螺旋回廊は永遠に続いているような気がした。
そうしてたどり着いた部屋の扉には見覚えがなかった。扉には縦長で銀色の持ち手が付いている。
「あんまり病院のお世話になったことは無いんだけどな」
扉は重たく、踏ん張ってようやく開けることができた。
その先には。
分娩台で赤子を抱く母親がいた。
面影を残す母親と、壁のカレンダーを見て私は忘れていたことを思い出す。
夢から醒めた私は環状線から乗り換えた。
ホールケーキでも買っちゃおうかな。
今亡きアンモナイトに哀悼を。今年も生きる私へ祝福を。
ハッピーバースデー・トゥ、ミー。
参考文献:アンモナイト学入門 殻の形から読み解く進化と生体 相場大佑