見出し画像

諸葛亮を名士論で説明するのは無理だよ、渡邉義浩先生

諸葛亮が名士として派閥の領主とされるが、正史にその形跡は一切ない。完全に劉備の子飼いである。劉備は父のような存在であり、むしろ名士側ではなく君主側である。その証拠に正史を読めば、繰り返し「公平な人事」「公平な政治」と評価され、劉備に身内のように遇されている。そのエピソードも多く公明正大と記述されている。その諸葛亮を派閥の理論で説明するのは正史の否定に他ならない。

諸葛亮は派閥を形成していない

長期滞在した20代の諸葛亮が疑似郷里として荊州名士代表の立場を確立できているとするならば、長期滞在する劉備もまた疑似郷里として名士の立場を確立できるだろう。ならばより名声の高い劉備こそが荊州領有の原動力と考えるが方が自然である。そもそも諸葛亮の権力は劉備由来であり、派閥からも独立している。関羽や張飛と同じカテゴリだ。

また荊州閥の証拠となる血縁(蔡瑁など)が一切劉備に追随していない。龐統にしても魯粛からの推挙である。
名士の証明である無能な君主からの招聘を断るエピソードも無い。荀彧、荀攸、張昭、周瑜など、名士と呼ばれる人は無能君主に招聘されたが断る慧眼エピソードがある。諸葛亮は劉表に招聘されていない。あれほど長い伝があるにも関わらずだ(師匠筋は招聘されてる)。ほんとに無名、隠れた人材だったのだ。そんな諸葛亮が派閥なんかを持っているわけがない。

若造の諸葛亮ごときが、そんな権力も地盤もてるハズがないよ。

諸葛亮を得る事が荊州の名士の支持を集める為と考えるよりも、支持を集めた名士の一人と考えるべきではないか。ならば見出だされた諸葛亮は名士として協力関係にあるのではなく、任侠的(個人的な恩義)な繋がりではないだろうか。

諸葛亮を荊州閥と言われるが、むしろ劉備時代の偏向したバランスを整えるため益州閥(劉璋閥、地元益州閥)の人材を登用するために奔走さえしている。

法正は益州派閥のTOPにはなれない

法正が益州閥の長というのにも無理がある、あまりに「人望が無い」。益州閥(劉璋閥)から見れば法正は裏切り者にすぎない。劉備や諸葛亮が庇わなければ完全にスポイルされている。寵愛されたのも、それほどに法正が国を売って劉備に恩を売ったから。これは法正の横暴を訴えられた時に諸葛亮が庇っている理由からも明らか。

法正は劉備に寵愛されたので、諸葛亮より位が高いと言われるが、法正に与えられたのは漢王朝の役職、勝手に名乗らせている名誉職に近い。これは論功における麋竺も同じ。劉備は皇帝ではなく大臣ですらない左将軍である。地方軍閥(元帥)に過ぎず、諸葛亮は劉備直下の役職(元帥幕僚、軍参謀、政策秘書)が実質的な役職であり、軍閥において内政、戦略の全権を握っている諸葛亮の方が高位である。諸葛亮が丞相に任命されたとき劉備は皇帝となり、王朝の役職は名誉職ではなく実質的な役職となる。

諸葛亮の権力は劉備である

諸葛亮は元々自分を晏子や管仲になぞらえ、親友数人しか賛同されないビックマウスぶりである。そのビックマウスを愛し耳を傾けたのは劉備だけであり、水魚の交わりの故事を見れば若造の諸葛亮の権力基盤を整えるため、臣下に頭を下げ回ったのも劉備である。

親子ほど年齢の違う生意気若造諸葛亮をプロデュースし、完成させたのは劉備であり、自分が見出した傑作に対して、遺言を見ても息子のように愛したように伺える。このことからも強い信頼関係を持った劉備の後継者と言って差し支えない。

そして諸葛亮は馬謖に自分と劉備関係を見たのではないかなぁ

諸葛亮を名士論で片づけるのは無理

他にも細かく言いたい事はあるけれど名士論や、三国志の時代の派閥(荀彧なんて名士の典型だ)を否定するつもりはないが、諸葛亮で証明しようとするのは、キャッチーではあっても、やっぱ無理だよ渡邉先生。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?