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たった一人でもNOと言える教育について考える

 こんにちは。ざまたかです。閲覧ありがとうございます。普段は世を忍ぶ仮の本職・養護教諭らしきあまり発言しないのですが、夏休み明けの学校再開に向けてのこのところのいろいろな動き、本当にお仲間のみなさま、お疲れ様です。私は業界の隅っこにこっそり生息しているくらいの感じですが、そろそろ心理的にムリというか、何が何だか分からなくなってきました。そんな中、パラリンピックの観戦に行ってきました。行ってしまえば確かに感染対策は考えられているし、なかなか観られない競技を見られることは楽しくもあります。でも、行くまでのことがあまりにも大変で、正直腹も立ったし行きたくないと思いました。夏休み中の参加同意書の取り直し、降ってわいたような検査、(結果の通知が前日の夜間、生徒への通知は当日の朝になり、陽性なら朝登校した時点で参加を断ることになる)現地に到着するまで手荷物検査がどうなるのか、座席がどうなるかもわからず、といった状態。何もなければ「結果オーライ」として忘れられてしまうのでしょうが、、、。

 そんな気分でSNSを眺めていたら、「ドイツではたった一人になってもNOと言える子を育てる」という言葉が目に飛び込んできて、3年前にこどもDIY部のさかたともえさんとご一緒させていただいたミニミュンヘンのことを思い出しました。

 子どもが子どもだけで街を作る。仕事をしてお金をもらって、それを消費する。選挙もあって議会もある。大人は子どもの力を信じて、本当に見守るだけ。子どもたちが動かしていく街が、2年に一度現れるのです。自主的に動ける子どもってどんな教育を受けてるんだろう?学校教育もさぞかひ自主性を重んじているのだろうと思って行ってみたのです。そうしたらたまたまその年の市長さん(高校生)にお話を聞くことができまして、曰く「学校だとみん自治的なことに関心はないし、こんなに自分たちでいろいろできない。ここは自分たちで決められることが楽しい」と言ってました。では、親の考え方が違うのか?と思ったのですが、子どもの進路や成績はやはり心配していて、そこは日本と大差ない感じ。違うのは「子どものためのプログラム」が学校の外にたくさんあって、それは子どもが申し込めるようになっていること、家庭の経済状況によって補助が出るというところかなあと思いました。学校だけが子どもの世界の全てではなく、社会が子どもを育てようという気風がある、といったところのような気がしました。

 私が見たのはドイツの一部でしかないし、お話を聞いたのも数名の方だけだし、何よりドイツの教育について詳しいわけではないのですが、SNSの言葉を読んだときに、「ああ、あんな空気のある中で、『たった一人でもNOと言っていいんだ』という安心感をもらえたら。自分の意見を言えるようになるだろうな。」と思ったのです。もちろん、受け手の側の聞く力も必要なのですが多分セットで教えられているのだろうなあとも。いいなあ、ドイツ、やっぱり好きだなあ。また行きたい。

 教員の世界は「お願いします」と言われたら断れない、みたいなところがあるけれどNOと言ってもいいことも結構あるはずだと思います。とりあえず私は学校で抗原検査を行うことにはNOと言うつもりです。(なんか文科も揺れてるみたいですが)

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