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探究!探究!のその前に
こんにちは。ざまたかです。
時代は探究学習のようで、研修が組まれたりしています。
他にも記憶に新しいだけで
「言語活動の充実」とか「教科横断的な学び」とか
「ICT活用」とか「特別の教科道徳」とか、
まあいろんなトピックで研修が行われるわけですが、
最近の流行りどうやら探究学習なのです。
「幼児が遊びに没頭するように学ぶのが探究」
という説もあるのですが、
そもそも幼児さん、そんなふうに遊ばせてもらってるわけ?
さんざん取り上げておいて今更大事とかいうわけ?とムカムカしています。
昔々、選択授業が拡充された時期がありまして、
ベテランの先生が
「自由に選べって言っても、子ども達は選べないんじゃないか?
そのくらいなら通常の授業をやった方がいいんじゃないか?」
というようなことをつぶやいておられて、
若かりし私は「えー、好きなことや自分に必要なことくらい選べるよー」って思ったのです。でも、今になってみるとその言葉の意味も少しわかるような気がするのです。
かつてのベテラン先生の言葉は、こんな風に続いていたのです。
「だって、子ども達は普段の生活の中で選ぶってことをしてきていないでしょう?何を基準に選んだらいいのかわからないんじゃないかな?仲良しの友達を同じ教科を選ぶとか、保護者が言うように選ぶとか、それで本当に選択したことになるのかな?」
全く同じことを今私は「探究」に感じているのです。
課題を見つけるって言われても、
そもそも失敗しないように、最短距離で生活できるようにレールが敷かれてて、子ども達が課題と感じられることがあるのだろうか?
(いや、もちろん不満とか不具合とかはあるのだろうけど)
「調べる」と「ICT活用」が強く結びつきすぎていて、
インターネットの情報をコピペするばかりにはならないんだろうか?
そもそも、調べたり、考えたり話し合ったりするには時間が必要なのに、
そんな余裕はもちろんありません。
「読み書きそろばん」っていうのは、もういくらなんでも古いのだろうか?
特別支援に関わっていると、「書けない」「読めない」子が案外いることに気づきます。すわ、「タブレットの活用を!」となるのですが、もちろんそれで助かる子もたくさんいるのでしょう。でもね、自分の名前すらぐちゃぐちゃな文字になってしまうことに触れなくていいのかなあ?とも思うのです。昭和の頃のように、何かを手で書くことが減ったので、生活の中での必要度もそれほどではないのかもしれないのですが、自分の名前と住所くらいは自信を持って書けて、九九と分数がわかって、国語の教科書がゆっくりだけど読める、くらいの力は時間をかけてもつけていかないと困らないのだろうか、と思うのです。
生活の中で強化されること、「書く」こともそうなのですが、
探究における「課題を見つける」ことについても、
たとえば委員会活動みたいなところって格好の場所だと思うのに
月1回30分しか充てられていないのが現状です。
子ども達はニュースを見たり新聞を読んだりしているでしょうか?
自分の身の回りのことを自分でできているでしょうか?
(その中での不便は「課題」になりうると思うのです)
そこに時間をかけられなかったら大人の顔色をうかがって、大人の思う「課題」を調べていくだけの時間になりそうだな、と危惧しています。