知らない楽しさを浪費して
こんにちは。諸々です。
最近友人と葛西臨海公園までドライブをしました。
行きは下道で、帰りは首都高に乗って。普段電車で移動すると外の世界にあまり意識がいかず、駅TO駅で移動している感覚があるので、車でそういう場所に行くと地続きで続いている事実にやけに実感が湧いてニヤニヤしてしまいますね。
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僕が中学生の頃、目的地は忘れてしまったのですが バスに乗って校外学習に出かけました。当時の僕は親の教育方針の影響であまり外の世界を知らず、目に映る何もかもが新鮮でした。特に印象に残っていた光景が遠巻きに見えた上下に重なる首都高の高架です。幾重にも重なって遠くまで続く道路の様子が、まるでテキサス州のハイウェイ感(実物見たことないけど)を想起させてとても心を弾ませていました。
でも、あの頃のワクワク感はもう二度と味わえないんですよね。
それが首都高へ続く新大宮バイパスと17号線と知ってしまったから。
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知識は不可逆で、知ってしまったらその事実を覆せないと思っています。
最近BNAというアニメを観たのですが、個人的にすごく好きでキャラのアニメーションや構図、色使いが何もかもツボでした。しかし、年上の知り合いにその話をしたところ「古いアニメっぽいって言われるのも確かにわかる」という意見を聞きました。
確かに80sのアニメの表現手法や色彩をあちらこちらで意図的に取り入れていて、ものすごくイマ、最先端のアートコンセプトだと感じましたが、僕が思ったのは「自分の知識に結びついてしまう」ということが良いと感じることを抑制してしまっているという感覚でした。きっと世代間で感想が違ってしまう原因はそこなんじゃないかなあと思いました。仕組みがわかる。元ネタがわかる。何を使って作っているかがわかる。というのは素直に楽しめなくなってしまうという事なのではないかと思ってしまいました。
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知らぬが仏という言葉通り何も知らず何も考えない方が幸せに、ノンストレスで生きていけるんでしょうか。でもそれは人間としてどうなんだろう。
何もかもわかるということは無理ですし、不完全ながらも頑張っていくのが人間らしいのかもしれませんね。
でも救いというか、変な話になってしまいますがこの世は娯楽で溢れています。いろんな趣味、文化、プロダクト、作品、人も、人の人生もコンテンツですし。人が意思を持って行動している以上毎日新しい発展があります。そうそう全部わかるってことはないんだろうなと。
何もわからん🤷♂️の姿勢で楽しくやっていけたらいいなあと思っています。
でももしかしたら急に悟り出して「この世に飽きた」とか言い出すかもしれませんね。(笑)
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