【小説】青朽葉
法学部二年の真司は、清涼な空気にいざなわれ、早朝のランニングを日課に定めた。食欲の秋にかまけた挙句、怠惰な体になった去年を反省してのことだ。
タオルを首に巻き、ウエストポーチを腰に巻く。両親と年の離れた弟が、戸建ての二階でまだ寝ているうちに発つ。イヤフォンで軽快な音楽を聞きながら、毎朝ほぼ同じルートを颯爽と走る。高校時代の彼は、バスケットボールの選手だった。
閑散とした道に、様々な枯れ葉がぽつぽつと落ちている。赤、黄、そして青みがかった色合いもある。かつての日本人は、もののあわれを痛切に感じ、朽葉四十八色と呼んだ。
真司は、微妙な色合いを見分ける感性を持ち合わせていないが、色恋沙汰には敏感な年頃だ。
快晴のある朝、何気なく遠回りをして帰路についた。やや起伏のある道が続く。
なだらかな坂道を駆け上り、右手に小さな公園が現れると、そこで親しげに立ち話をしている若い男女を見かけた。二人は似たり寄ったりの背丈で、どちらも子犬を連れていた。
あ、田辺――団子鼻の男の方は、同じ学部の同期生だと一目で分かった。
一旦足を止め、面識のない女の方をじっと見た。しなやかで健康的な容姿だ。短めの黒髪が、朝陽に映えていた。
声をかけずに過ぎ去った後、田辺が最近引っ越したらしい、という噂を思い出した。聞いた当初は、全く気に留めていなかったが、わざわざ下宿先を変えたのは、彼女ができたから、或いは同棲を始めたからではないか、と推し量り、出し抜かれたような気分になった。
その日の午後、真司は講義の合間に探りを入れた。田辺とは用がなければ話をしない仲だが、一人暮らしを検討している体で、引っ越しについて尋ねてみた。
「犬を飼える物件に引っ越したんだよ」
「金あるなぁ。犬だって高いだろ?」
「そうじゃなくて、実家でもともと飼ってた犬。呼び寄せたんだ」
「へえ、余程好きなんだな。世話をしなきゃいけないのに。散歩も大変だろ?」
「大変じゃないよ。お陰で朝早く起きるようになってさ」
そう言った田辺は、意味ありげな薄笑いを浮かべた。
「何かいいことあったのかよ?」
「いや、特にないけど、早起きはいいな。気持ちが明るくなるよ」
次の講義中、真司は先生の話を聞き流しながら、真面目くさった顔で推論を立てた。
田辺は、犬を出しに使ったのではないか。犬の散歩をしている女に近づくために。不謹慎な動機で引っ越しをして、いたいけな犬を振り回しているのではないか。
けしからん奴だ!
その心の声――黒ずんだ言の葉に至った背後には、青臭い嫉妬が立ち竦んでいる。
真司は、電車を乗り継いで大学に通っている。自宅から最寄り駅までは、だいたい自転車だ。
一時限目に講義のある日は、小学五年の弟とほぼ同じ時間に発つ。登校班で通う弟の弘樹は、真司の数分遅れで同じ道を歩く。小学校は、駅へ向かう途中の川沿いにある。
「学校に行く時にさ、とても素敵なお姉さんを見るんだ」
兄弟の寝起きする八畳間で、弘樹が唐突にそんな話をした際、真司は、あの人のことだろうなぁ、と心当たりがあった。
毎度、駅の方からお洒落な出で立ちで歩いてくる。さらさらの髪は、雪化粧のような白銀色に染め上げられ、いかにも近所にある美容専門学校の学生だ。
真司は、魅力的ながら気が強そう、という印象を持っていた。
次の日、真司の受ける講義は二時限目からだ。早朝のランニングは、雨の日を除き、粘り強く三週間続いた。
道端に溜まった落ち葉は、次第に増えている。
いい汗をかいて自宅に戻ると、一般家庭にしては広めの風呂にゆったりと浸かった。朝風呂の難点は、その辺りの時間に出発する父に小言を言われることだ。
真面目に一人暮らしを検討しようか――
そんな考えを巡らせていると、母の怒鳴り声が聞こえてきた。何を言っているのか聞き取れなかった。
ほとぼりが冷めた頃、様子を伺いながら風呂を出た。父の姿はなく、ふてくされた弟が居間でテレビを見ていた。登校班の集まる時間になっても動こうとせず、母は、勝手にしなさい、と言わんばかりに腹を立てていた。
理由の分からない真司だが、出発間際に弟を慰め、遅れても学校へ行った方がいいぞ、と伝えた。
玄関を出て、自転車でゆっくりと走り出した。ちらりと振り返ると、黒いランドセルを背負った弟の姿が見えて、大きく左手を挙げた。
「遅刻して学校に行ったらさ、途中ですっごくキラキラしたお姉さんを見たんだ」
すっかり元気を取り戻した弘樹は、興奮気味に以前と似たような話をした。またしても真司は、きっとあの人だ、と心当たりがあった。
服装は、上下秋らしく、ニットとロングスカートだった。赤茶色の豊満な髪を揺らして歩く様子は、人目を引いた。
「それでさ、帰ってくる時にも見たんだよね。勝俣くん家に遊びに行って、その帰り」
「何時ごろ?」
「五時ぐらい」
「ちょうど暗くなる頃だね」
「うん。暗くても分かる。天使みたいな人なんだ」
「へえ、天使」
真司は、つい口元が綻んだ。好奇心を刺激されたが、所詮、自分とは接点のない人だと割り切った。
「なんと今日、また会ったよ。わざと五時ごろ帰ってきたんだけど、やっぱね、あのお姉さんは天使だよ。天使!」
弘樹の興奮は、昨日に増していた。奥二重の目が、大きく開かれている。
「そこまで言われると、ちょっと気になるな」
「兄ちゃんも一緒に行こう」
「え?」
「明日の五時。大学の授業なんてさ、簡単にサボれるでしょ?」
「いや、真面目に出なきゃいけないけども」
「見たいよね?」
「明日は偶然、三時前に終わり」
「やった」
笑顔が弾けた弘樹は、右の拳を突き上げた。
そして、約束の四時五十分に、小学校の校門の前で落ち合った。先程まで明るかった空は、あっという間に暗くなり、秋特有の物悲しさが辺りに満ちていた。弘樹の高ぶった熱は、全く冷めていなかった。
「兄ちゃん、俺が合図するからさ、自然に通りすぎよう」
「そう、自然に。じろじろ見ちゃ駄目だぞ」
学校前の歩道を横並びに歩き、橋を渡って最初の十字路を左へ曲がった。住宅街の幅の狭い道になり、向かい側から車の眩しいヘッドライトがゆっくりと迫ってきた。縦並びになってやり過ごし、もう少し進んで右へ曲がると、白い車がウインカーを点滅させ、すぐ先の家の外壁に横付けをして停まった。そちらに目をやった弘樹は、通り過ぎて間もなく、なぜか引き返した。真司は「お?」と声を出し、それに続いた。そして、弘樹が肘で合図を送ってきたのは、あの白い車の前に戻ってきた時だ。
――天使みたいなお姉さん。それは、車の後部座席から降りるお婆さんに付き添う人だった。
介護士だろう。
服装と立ち振る舞いを見て、真司はそう判断した。顔立ちは、夕闇ではっきりと見えなかったが、ほっそりとした体形にポニーテールがよく似合っていると思った。
再び通り過ぎると、弘樹はしたり顔で同意を求めた。
「ね、天使でしょ?」
「ああ、凄くいい人だね」
たぶん介護士などと、余計なことは言わなかった。仕事だとしても、本当の優しさは、振る舞いに現れる。
「兄ちゃんにぴったりの人だと思うんだ」
「そんな馬鹿な」
真司は、本気で笑い飛ばした。
兄弟で自宅へ帰る道すがら、前から美容専門学校の女学生らしき集団が、はしゃぎながら歩いてきた。その中には、ひときわ目立つ例の二人がいた。白銀色の髪と赤茶色の髪――
行き違った後、真司は唐突に思い出し笑いをした。
「何がおかしいの?」
「いや、勘違いしてたなぁと思って」
「何を?」
「すっごく素敵な人って、今のお姉さんたちの誰かだと思ってたんだ」
弘樹は、失望の眼差しを兄に向けた。
「一つだけさ、忠告するね」
「ほう、忠告」
「女の人を見た目で選ぶのは、自信のない奴がすることだからね」
「ほほ」
声を出して笑った真司は、返事が出てこなかった。
「あのお姉さんたちも、中身はいい人かもしれないけどさ」
「そうだな。派手に見えるけど」
真司は、弟の小生意気な成長に目を細めた。
気温がぐっと下がった六日後の朝、真司はいつもより遅く起きた。自宅の中で軽い筋トレをした。ランニングを初めてから一ヶ月が経ったその日は、前の晩から強い雨が降っていた。
そんな日の通学は、駅まで傘をさして歩く。足元は、ネット通販で買ったレインブーツだ。
二時限目の最初の講義が、先生の都合で休講になっていたが、二時限目から始まる日の、いつもの時間に自宅を発った。
早足にならず、弟の歩くペースを意識した。そして、天使みたいなお姉さんを目撃した家の前にさしかかると、あの時と同じ白い車が停まっていた。思惑通りに――
通りすがりに見たお姉さんは、お婆さんの真上に大きな傘を広げ、自分の左肩を健気に濡らしていた。
からっと晴れた次の週末、真司は最寄りの駅ビルにある本屋に立ち寄った。出版不況の中、いかがわしい大人向けの店を除き、近所に残された唯一の本屋だ。夕方のせいか、部活帰りのような若い客が多かった。
人気のない文芸書コーナーに、ぽつんと佇む華奢な人がいた。真司は、そのポニーテールの後ろ姿を見た途端に、もしかしたら、と気付き、隣の本棚の前で立ち止まった。本を選ぶふりをして、彼女の横顔を一瞥した。化粧っ気のない優しそうな顔立ちは、天使に相応しいと思った。
だが、声をかけられなかった。顔を盗み見るだけで精一杯だった。
帰路につくと、風に吹かれた落ち葉が、とぼとぼと歩く足元を転がった。
五日後の夜八時過ぎ、自宅の電話に珍しく弘樹宛ての着信があった。まず応対した父は、まだ幼い息子に――キリノマナミという名前を伝えた上で、知っている人か尋ねた。
「うん。学校の先生」
電話の子機を受け取った弘樹は、おもむろに居間を出て、玄関の辺りで話を始めた。
しばらくして、母が風呂から上がり、交代で入ろうした真司に、電話を切った弘樹が満面の笑みで近寄ってきた。
「先に入るか?」
「たまには一緒に入ろう」
「え、嫌だよ。狭いだろ」
弘樹は、手にしたままの子機を指さした。
「本当は、誰だったと思う?」
ささやき声で尋ねられた真司は、まさか、と思った。
「兄ちゃん、作戦会議だよ」
「よし、そうだな。一緒に入るか」
三時間ほど前、弘樹は天使みたいなお姉さんを待ち伏せして、紅葉柄の便箋に書いた手紙を渡した。
ラブ――ではない。熱烈なファンレターだ。力の籠った鉛筆書きの末尾には、自宅の電話番号が添えてあった。
弘樹は、裸を突き合わせた作戦会議で胸を張った。
「今度の日曜日、お姉さんと会うよ。マナミさんって言うんだ」
真司は、その行動力にただ感心した。
「会うのはどこ?」
「駅前の珈琲屋さん」
「男がちゃんと奢ってやるんだぞ」
真司は、自分の気持ちを誤魔化そうとした。
「兄ちゃんもきてよ」
「そりゃおかしいだろ」
「おかしくないよ。俺はまだ子供。お金もない。チン毛も生えてないんだ」
弘樹は、浴槽の中で立ち上がると、両手を腰に当てた。
「おぉ、たしかに」
「だから兄ちゃん、保護者が必要なんだよ」
真司は、くすっと笑い、控え目に頷いた。
当日は、澄んだ水を張ったような空が穏やかに広がった。兄弟は、約束の珈琲店へ歩いて向かった。
「五分前には着くよね?」
真司は、奮発して去年買った腕時計を見た。
「十分前には余裕で着くよ」
「緊張するね」
「まあ、少しな」
少しではないことは、顔に現れていた。
到着は、言った通りの時間だった。真司の腕時計は、一時四十七分を指していた。
「中に入らない方がいいよね?」
「そうだな。ここで待とう」
珈琲店の前には、輝くような黄葉の、銀杏の木が立っている。
二人は、その葉漏れ日の下でお姉さんを待った。目の前を通り過ぎる人の中に、茶色い子犬を連れて歩く若いカップルがいた。弘樹は、犬と同じ色のパーカーを着ていた。真司は、犬と弟を交互に見て、ひんやりと嫌な汗をかいた。
金を渡して帰ろう。
彼がそう思い直した矢先、ポニーテールのお姉さんは、珈琲店の中から出てきた。困惑気味の顔をして、簡素な紺色のスウェットを着ていた。
「あ、マナミさん。先に着いてたんですね」
「こんにちは」
お姉さんは、弘樹に語りかけてから、真司に視線を向けた。
「紹介します。僕の保護者です」
真司は、顔を無様に紅潮させ、必死に言い訳を考えた。
「すみません。兄です。弟はまだ子供なので」
お姉さんは、愛想笑いで会釈をした。真司は、顔を逸らすように弟を見た。
「じゃあ、もういいかな? 兄ちゃんはここで帰るよ」
兄の異変を察した弘樹は、とっさに機転を利かせた。
「うん、そうだね。ご苦労!」
真司は、その一言で救われた。お姉さんは、「ふふ」と笑った。
伏し目がちに立ち去った真司は、作為的に腕時計を見てから小走りになった。顔の赤らみが、ほのかな恋心と共に青く枯れ落ちた。